孔明は、唖然と、その背中を見送るしかできないでいた。
あふれ出る言葉は、まさに奔流の如し、であった。言葉を聞くというよりは、勢いに圧倒されて、立ち尽くし、口が動くのを眺めていた。
「なぜ、あれほど怒ったのだ?」
思わずつぶやくが、それに対する答えはない。
孔明の従者も、気遣って沈黙を守っている。この場に、孔明の主簿である胡偉度がいたなら、逆に口を出して、ここまで怒らせることは、させなかったかもしれない。
孔明は茫然自失の態で、挨拶をしてくるあまたの文官、武官、そのほかのひとびとともろくに言葉を交わさず、馬車に乗り込み、左将軍府に帰った。
道中も懸命に考えたが、やはり、どう考えても、これほどまでに叱られなければならない理由が、わからないのである。
自分のことばをひとつひとつ吟味してみるが、眉をひそめるほどのものが、あったのだろうか。
そも、話は、左将軍府内の人事の話から発展したものだ。
それを劉備に相談しに行って、帰りにたまたま顔を合わせた。めずらしいことであるし、久しぶりであったから、話が弾んだ。
が、途中、宮城にやってきた理由からはじまった話が進むにつれ、顔色が変わってきて、しまいには長々と怒鳴られるような形で説教をくらい、こちらがなにひとつ言葉をはさむ暇も与えられずに、背中を向けて去って行った。
通り魔に遭ったような気分である。
それが誰よりも信頼していた相手だけに、孔明の気持ちは、いつものように切り替えることができない。
結局、左将軍府に帰っても、ろくに仕事にならず、言われた言葉が、ぐるぐると脳裏を駆け巡るばかり。ほかの誰になにを言われようと、かえって反発し、力になって、仕事に向うことができるのだが、今回ばかりは、受けた衝撃が強すぎて、どうにもならない。
突然に、乱暴に突き飛ばされた挙句に、だれもいない場所に置き去りにされた気分、とでもいおうか。
「なぜだ?」
「なにがでございますか。軍師、主公はなんと?」
別の用事で出かけていた偉度が、いつの間にか戻ってきたらしい。怪訝そうに、こちらを伺う偉度の声に、むしろほっとしつつ、孔明は答えた。
「主公は、わたしのよきように、と。法揚武将軍のほうは気にするなと仰ってくださった」
「それを聞いて安心いたしました。連中、今朝も一騒ぎ起こしまして」
孔明はそれを聞いて、柳眉をしかめた。
「なにをした」
「くだらないことでございます。陽の当たる席を譲る、譲れないで派手に喧嘩をはじめまして、文鎮は飛ぶは、筆は折るわ、竹簡はバラバラに崩されるわで、迷惑なことでございますよ。いかな法揚武将軍の肝いりでの任官とはいえ、これでは話になりませぬ」
法正が、左将軍府に、安流意という青年を任官させたいと申し出てきた。
法正が常日頃より仲良くしている、豪族の子息ということで、コネ、というところが引っかかったものの、劉備の口ぞえもあり、採用に至ったのである。
徹底主義の孔明のもと、なにかときびしい業務の多い左将軍府をみずから志願した、というのもあり、弱冠十九の若者ながら、なかなか有能であった。
だが、この安、有能で、世を変えんとする情熱に溢れているあまり、他人の為すことにも、口を出さずにおれない男であった。
若い、というのもあるのだろう。他者の誤りを見つけると、細かく指摘し、糾弾するのであるが、それの度が過ぎるのである。
法正のコネ、ということもあり、左将軍府の面々は、面倒を避けて、あえて口を閉ざしていたのだが、それに勘違いをした安は、態度が日々、横柄になっていき、年配の官吏ともはげしい口論をするようになっていった。
いちばん安と相性が悪かったのは、荊州からやってきた、楊家の係累である男であった。
これは安とは逆に、すでに齢五十を過ぎ、老眼も進んで、夕刻も近づけば、まともに竹簡が読めなくなる。しかし、温厚な人柄と、豊富な経験を買われ、若者が多い左将軍府において、世話役のような形におさまっていた。
この楊に対しても、安は容赦しなかった。楊の仕事の遅さや、取りこぼしを細かく指摘し、そればかりか、無用の長物であるとまで、公言してしまった。
「ただそれだけならば、まあ、我慢もいたしましょう。むしろ、世を知らぬ哀れな奴よと蔑まれるだけで終わったことでしょうに、つづきがよろしくない。安は、本人にも指摘するが、裏でも悪口を叩いた。その相手が悪い。法正殿の部下だった。ま、常日頃から法揚武将軍と対決の多い左将軍府からすれば、これは裏切りですからね」
偉度は、やれやれ、とため息をつく。
「人を呪わば穴二つ。安のそのような態度がみなの知るところとなり、今度はだれも、安を相手にしなくなった。ところが、安というのは、逆境に燃える男だった。
己の境遇が悪くなったのは、出る釘は打たれるの類いだと勘違いし、ますます張り切って、特に楊の親父さんを苛めた。これに耐えかね、ほかの若いのが、安と派手に喧嘩をやらかした。それが、このところ毎日、という次第」
「安の態度はたしかに、年長者に対する者ではないし、あまりに大人気ない。とはいえ、わたしが注意しても、安の態度は変わらなかった」
「すごい奴ですよ。軍師に叱られて、顔色を変えなかった男を、わたしは初めて見ました」
「言葉が理解できなかったのだろう。あれは、いまだ羊水のなかに包まれている赤子だ」
「ずいぶんと分厚い羊水ですな。いつになったら産声をあげるのやら。その声が、己を恥じて泣く声でなければよいけれど」
「口が過ぎるぞ、偉度。われらは、初めはどこかしら、安のような勘違いを経験するものだ。あれを見ていると、たまに心が痛むよ」
「ふと我に立ち返る瞬間があるだろうと? 甘いですぞ、軍師。あの類いの男は、生涯勘違いだ。育ちの良すぎるお坊ちゃまは、帰宅なさると、あなたさまこそ世の中心と、褒め上げてくれる者に事欠かないわけですから」
「それはそれで不幸ではないか。だれも叱ってくれない、というのであれば、それは、だれも真剣に身を案じてくれていないのと、同じだぞ」
叱る、と自分で口にして、孔明はふたたび憂鬱な気分に襲われる。
本当に、何がいけなかったというのだろうか。
「軍師、なにかご不快でも」
偉度が問いかけてきて、孔明はふたたび我に返った。
その顔色を見て、偉度は、大きな瞳をきょろりと動かして、顔をのぞきこんでくる。
「お加減が悪い、というふうではなさそうですな」
「ちょっとな」
話したくなかったので、孔明ははぐらかした。口にするには、あまりに自分の内面に関わりすぎると思えたのだ。
偉度は、孔明の頑ななところを知り抜いているので、それ以上は尋ねて来ず、ただ、左様でございますか、と言った。
なにやら企んでいる目だな、と思ったが。
※
孔明がめずらしく、仕事を早々に切り上げ、自邸に帰ってしまったので、偉度は自分も仕事を切り上げ、宮城に付いて行った従者をつかまえると、宮城でなにか変わったことがなかったかと尋ねた。
従者は、偉度の詮議に迷惑そうにして、なかなか口を開こうとしなかったが、脅したり宥めたりを繰り返して、ようやく聞き出した偉度の第一声は。
「趙将軍?」
「左様で」
「ほかの将軍ではないのか」
「いいえ、趙子龍さまでございます」
「趙将軍と口論? 軍師が? なぜ?」
従者も、偉度と同様に、首をひねっている。
「わたくしにも判りませぬ。なにせ、途中までは、ご両人とも、いつものように仲良くお話をされていたのです。ところが、例の、安の話になりましたら、趙将軍が怒り出しまして」
偉度がまとめたところによると、いきさつはこうである。
宮城で珍しく顔をあわせた趙雲と孔明は、久しぶりだとかなんだとか(彼らの言う久しぶり、というのは、二日経てば、久しぶりである)言って、足をとめて、近況(といっても二日分)を互いに話していた。
「横にいる者としては、お二方を見ていると、たまに怖くなります」
「ふん、それに慣れてこそ、真の従者というものさ。で、どのあたりから雲行きがおかしくなった?」
そのなかで、孔明が、安の処遇に付いて、劉備に相談に来たのだと説明したあたりから、それまで穏やかであった趙雲の顔に、翳りが見え始めたのだ。
安と楊の諍いから始まった、左将軍府の揉め事の顛末を、孔明は趙雲に話したのであるが、楊について、
「やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
と、言ったところが分岐点。突然に趙雲は、顔を険しくして怒り出し、孔明に、長々と説教をはじめたのである。
「内容は?」
偉度が尋ねると、従者は慎重に思い返していたが、やがて首を横に振った。
「よくわかりません」
「なんだそれは。それほどに難解な内容だったのか」
「いいえ。単純に、意味がわかりませんでした。いつもは寡黙な方ですので、あれほど一気に喋ったことに、軍師将軍も驚かれて、言葉を無くされておいででした」
「ふん、意味が判らなくて、反論できなかった、というのもあるだろうな。断片でもよい。なにか覚えている言葉はないか」
そうですなぁ、と従者は首をひねり、それから、あ、と小さく声をあげ、言った。
「そういえば、『付いて行くのが困難』とかなんとか」
「なに?」
「いえ、どうして覚えているのかと思えば、その言葉を聞いた途端、軍師将軍の顔が、それはもう、牡丹の花より真っ白になりましたからな」
と、従者は丁寧に、血の気が引く様を手ぶりで示して見せた。
「趙将軍も思い切ったことを…それは、軍師も顔色を失くされるだろうな。しかし、なぜにそこまで趙将軍が怒る? 安とやらに肩入れしたのか、それとも左将軍府側の人間にか? ならば、そこまで言うこともなかろうに、ふむ、あの方も気むずかしいな」
「やはり、軍師将軍は、落ち込まれておりましたか?」
「うむ、まともに仕事も手に付かなかったようだ。いかんな」
口論程度に争うのはいつものことだが、ここまで深刻な言葉が出たのは、偉度が知る限り、初めてである。
趙将軍が、なにをもって軍師に怒っているのか?
本人は喋るまい。
となると、その周辺から当たるしかないわけだが…
つづく……
あふれ出る言葉は、まさに奔流の如し、であった。言葉を聞くというよりは、勢いに圧倒されて、立ち尽くし、口が動くのを眺めていた。
「なぜ、あれほど怒ったのだ?」
思わずつぶやくが、それに対する答えはない。
孔明の従者も、気遣って沈黙を守っている。この場に、孔明の主簿である胡偉度がいたなら、逆に口を出して、ここまで怒らせることは、させなかったかもしれない。
孔明は茫然自失の態で、挨拶をしてくるあまたの文官、武官、そのほかのひとびとともろくに言葉を交わさず、馬車に乗り込み、左将軍府に帰った。
道中も懸命に考えたが、やはり、どう考えても、これほどまでに叱られなければならない理由が、わからないのである。
自分のことばをひとつひとつ吟味してみるが、眉をひそめるほどのものが、あったのだろうか。
そも、話は、左将軍府内の人事の話から発展したものだ。
それを劉備に相談しに行って、帰りにたまたま顔を合わせた。めずらしいことであるし、久しぶりであったから、話が弾んだ。
が、途中、宮城にやってきた理由からはじまった話が進むにつれ、顔色が変わってきて、しまいには長々と怒鳴られるような形で説教をくらい、こちらがなにひとつ言葉をはさむ暇も与えられずに、背中を向けて去って行った。
通り魔に遭ったような気分である。
それが誰よりも信頼していた相手だけに、孔明の気持ちは、いつものように切り替えることができない。
結局、左将軍府に帰っても、ろくに仕事にならず、言われた言葉が、ぐるぐると脳裏を駆け巡るばかり。ほかの誰になにを言われようと、かえって反発し、力になって、仕事に向うことができるのだが、今回ばかりは、受けた衝撃が強すぎて、どうにもならない。
突然に、乱暴に突き飛ばされた挙句に、だれもいない場所に置き去りにされた気分、とでもいおうか。
「なぜだ?」
「なにがでございますか。軍師、主公はなんと?」
別の用事で出かけていた偉度が、いつの間にか戻ってきたらしい。怪訝そうに、こちらを伺う偉度の声に、むしろほっとしつつ、孔明は答えた。
「主公は、わたしのよきように、と。法揚武将軍のほうは気にするなと仰ってくださった」
「それを聞いて安心いたしました。連中、今朝も一騒ぎ起こしまして」
孔明はそれを聞いて、柳眉をしかめた。
「なにをした」
「くだらないことでございます。陽の当たる席を譲る、譲れないで派手に喧嘩をはじめまして、文鎮は飛ぶは、筆は折るわ、竹簡はバラバラに崩されるわで、迷惑なことでございますよ。いかな法揚武将軍の肝いりでの任官とはいえ、これでは話になりませぬ」
法正が、左将軍府に、安流意という青年を任官させたいと申し出てきた。
法正が常日頃より仲良くしている、豪族の子息ということで、コネ、というところが引っかかったものの、劉備の口ぞえもあり、採用に至ったのである。
徹底主義の孔明のもと、なにかときびしい業務の多い左将軍府をみずから志願した、というのもあり、弱冠十九の若者ながら、なかなか有能であった。
だが、この安、有能で、世を変えんとする情熱に溢れているあまり、他人の為すことにも、口を出さずにおれない男であった。
若い、というのもあるのだろう。他者の誤りを見つけると、細かく指摘し、糾弾するのであるが、それの度が過ぎるのである。
法正のコネ、ということもあり、左将軍府の面々は、面倒を避けて、あえて口を閉ざしていたのだが、それに勘違いをした安は、態度が日々、横柄になっていき、年配の官吏ともはげしい口論をするようになっていった。
いちばん安と相性が悪かったのは、荊州からやってきた、楊家の係累である男であった。
これは安とは逆に、すでに齢五十を過ぎ、老眼も進んで、夕刻も近づけば、まともに竹簡が読めなくなる。しかし、温厚な人柄と、豊富な経験を買われ、若者が多い左将軍府において、世話役のような形におさまっていた。
この楊に対しても、安は容赦しなかった。楊の仕事の遅さや、取りこぼしを細かく指摘し、そればかりか、無用の長物であるとまで、公言してしまった。
「ただそれだけならば、まあ、我慢もいたしましょう。むしろ、世を知らぬ哀れな奴よと蔑まれるだけで終わったことでしょうに、つづきがよろしくない。安は、本人にも指摘するが、裏でも悪口を叩いた。その相手が悪い。法正殿の部下だった。ま、常日頃から法揚武将軍と対決の多い左将軍府からすれば、これは裏切りですからね」
偉度は、やれやれ、とため息をつく。
「人を呪わば穴二つ。安のそのような態度がみなの知るところとなり、今度はだれも、安を相手にしなくなった。ところが、安というのは、逆境に燃える男だった。
己の境遇が悪くなったのは、出る釘は打たれるの類いだと勘違いし、ますます張り切って、特に楊の親父さんを苛めた。これに耐えかね、ほかの若いのが、安と派手に喧嘩をやらかした。それが、このところ毎日、という次第」
「安の態度はたしかに、年長者に対する者ではないし、あまりに大人気ない。とはいえ、わたしが注意しても、安の態度は変わらなかった」
「すごい奴ですよ。軍師に叱られて、顔色を変えなかった男を、わたしは初めて見ました」
「言葉が理解できなかったのだろう。あれは、いまだ羊水のなかに包まれている赤子だ」
「ずいぶんと分厚い羊水ですな。いつになったら産声をあげるのやら。その声が、己を恥じて泣く声でなければよいけれど」
「口が過ぎるぞ、偉度。われらは、初めはどこかしら、安のような勘違いを経験するものだ。あれを見ていると、たまに心が痛むよ」
「ふと我に立ち返る瞬間があるだろうと? 甘いですぞ、軍師。あの類いの男は、生涯勘違いだ。育ちの良すぎるお坊ちゃまは、帰宅なさると、あなたさまこそ世の中心と、褒め上げてくれる者に事欠かないわけですから」
「それはそれで不幸ではないか。だれも叱ってくれない、というのであれば、それは、だれも真剣に身を案じてくれていないのと、同じだぞ」
叱る、と自分で口にして、孔明はふたたび憂鬱な気分に襲われる。
本当に、何がいけなかったというのだろうか。
「軍師、なにかご不快でも」
偉度が問いかけてきて、孔明はふたたび我に返った。
その顔色を見て、偉度は、大きな瞳をきょろりと動かして、顔をのぞきこんでくる。
「お加減が悪い、というふうではなさそうですな」
「ちょっとな」
話したくなかったので、孔明ははぐらかした。口にするには、あまりに自分の内面に関わりすぎると思えたのだ。
偉度は、孔明の頑ななところを知り抜いているので、それ以上は尋ねて来ず、ただ、左様でございますか、と言った。
なにやら企んでいる目だな、と思ったが。
※
孔明がめずらしく、仕事を早々に切り上げ、自邸に帰ってしまったので、偉度は自分も仕事を切り上げ、宮城に付いて行った従者をつかまえると、宮城でなにか変わったことがなかったかと尋ねた。
従者は、偉度の詮議に迷惑そうにして、なかなか口を開こうとしなかったが、脅したり宥めたりを繰り返して、ようやく聞き出した偉度の第一声は。
「趙将軍?」
「左様で」
「ほかの将軍ではないのか」
「いいえ、趙子龍さまでございます」
「趙将軍と口論? 軍師が? なぜ?」
従者も、偉度と同様に、首をひねっている。
「わたくしにも判りませぬ。なにせ、途中までは、ご両人とも、いつものように仲良くお話をされていたのです。ところが、例の、安の話になりましたら、趙将軍が怒り出しまして」
偉度がまとめたところによると、いきさつはこうである。
宮城で珍しく顔をあわせた趙雲と孔明は、久しぶりだとかなんだとか(彼らの言う久しぶり、というのは、二日経てば、久しぶりである)言って、足をとめて、近況(といっても二日分)を互いに話していた。
「横にいる者としては、お二方を見ていると、たまに怖くなります」
「ふん、それに慣れてこそ、真の従者というものさ。で、どのあたりから雲行きがおかしくなった?」
そのなかで、孔明が、安の処遇に付いて、劉備に相談に来たのだと説明したあたりから、それまで穏やかであった趙雲の顔に、翳りが見え始めたのだ。
安と楊の諍いから始まった、左将軍府の揉め事の顛末を、孔明は趙雲に話したのであるが、楊について、
「やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
と、言ったところが分岐点。突然に趙雲は、顔を険しくして怒り出し、孔明に、長々と説教をはじめたのである。
「内容は?」
偉度が尋ねると、従者は慎重に思い返していたが、やがて首を横に振った。
「よくわかりません」
「なんだそれは。それほどに難解な内容だったのか」
「いいえ。単純に、意味がわかりませんでした。いつもは寡黙な方ですので、あれほど一気に喋ったことに、軍師将軍も驚かれて、言葉を無くされておいででした」
「ふん、意味が判らなくて、反論できなかった、というのもあるだろうな。断片でもよい。なにか覚えている言葉はないか」
そうですなぁ、と従者は首をひねり、それから、あ、と小さく声をあげ、言った。
「そういえば、『付いて行くのが困難』とかなんとか」
「なに?」
「いえ、どうして覚えているのかと思えば、その言葉を聞いた途端、軍師将軍の顔が、それはもう、牡丹の花より真っ白になりましたからな」
と、従者は丁寧に、血の気が引く様を手ぶりで示して見せた。
「趙将軍も思い切ったことを…それは、軍師も顔色を失くされるだろうな。しかし、なぜにそこまで趙将軍が怒る? 安とやらに肩入れしたのか、それとも左将軍府側の人間にか? ならば、そこまで言うこともなかろうに、ふむ、あの方も気むずかしいな」
「やはり、軍師将軍は、落ち込まれておりましたか?」
「うむ、まともに仕事も手に付かなかったようだ。いかんな」
口論程度に争うのはいつものことだが、ここまで深刻な言葉が出たのは、偉度が知る限り、初めてである。
趙将軍が、なにをもって軍師に怒っているのか?
本人は喋るまい。
となると、その周辺から当たるしかないわけだが…
つづく……