はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

臥龍的陣 雨の章 その19 斐家の惨劇

2022年06月20日 10時37分09秒 | 英華伝 臥龍的陣 雨の章


斐仁の館はひっそりと静まり返っていた。
世間では、|夕餉《ゆうげ》の支度であわただしく、雨で暗いこともあり明かりが灯されているというのに、この静まりようは、尋常ではない。
門を叩くと、だれの返事もない。
軽く押してみると、ゆっくりとそれは開いた。
不用心にすぎる。
趙雲は、すぐさま剣を抜いた。
なんらかの気配を感じて警戒したのではない。
なんの気配も感じられなかったので、かえって警戒したのである。

あれからすぐに、一家で遁走したとは思えない。
陳到の部下に、見張りをつけさせていたのだ。
その見張りたちはどうしているのだろう。
陳到が屋敷に呼び戻されたとき、一緒に帰ってしまったのか?

そんな手落ちをするか?

答えは否。
とすれば、この屋敷の静寂は、それだけで怪しい。
斐仁はあれから、ここへ帰ってきたのだろうか。

陳到の話どおり、あちこちに金のかかっていることがすぐにわかる屋敷であった。
庭の風情からしてそうだし、調度品から建具のしつらえに至るまで、豪族並みの贅沢ぶりであった。
いくら金持ちの親戚の遺産があろうと、ただの兵卒が、これほどの不動産を維持できるものだろうか。

屋敷の奥に入ると、戦場で嗅ぎなれた、血の臭いが鼻腔をついた。
どくん、と耳元で心臓が跳ねた音がする。

静まりかえった屋敷のあちこちに、人が倒れていた。
どれもみな、死んでいる。
中には、陳到の部下の、あわれな姿もあった。
惨劇に気付き、屋敷へ飛び込んだものの、逆に討たれてしまったのだろう。
女も男も、年よりも子どもも、関係なかった。
屈んで、その身体に触れると、まだ温かい。
息をしている者がいないかと淡い期待を寄せ、ひとりひとり、様子をのぞいたが、みな息絶えていた。

見事な手際である。
どれもほぼ一撃で、急所を狙って絶命させている。
下手人は複数だったのか、あるいは単独だったのか、まだわからない。
だが、斬り口がどれも似ているので、複数だったとしたら、おなじ場所で鍛錬を積んだ仲間同士なのだろう。
そこいらにある豪奢な調度品には、なにひとつ手をつけておらず、家人に服の乱れはない。
盗賊のしわざではない。

がたり、と物音がした。
振り返ると、斐仁であった。
全身、雨に濡れた姿で、みなが死に絶えた、おのが屋敷をぼう然と見回す。
そうして、ただ一人、生きている趙雲に、ぴたりと眼差しを当てる。
そして、押し殺した低い声で、うなるように言った。
「貴様も、『壷中』の人間であったか!」
「なんだと?」
「これが代償というわけだな!」
吠えるように言うと、斐仁は討ちかかってきた。
趙雲はそれを受ける。

人を斬ることに慣れている。
最初に抱いたのは、その印象であった。
迷わず、相手の急所を狙い、わずかな隙も見逃さず、すばやく白刃を繰り出してくる。
やはり、ただの倉庫番ではなかった。

「斐仁、誤解だ。おまえの家族を殺したのは、おれではない!」
「だまれ! 言い訳は無用!」
はげしい怒りに取り付かれた斐仁の刃は、そのひとつひとつが、疾風のようであった。
さすがの趙雲も、その気迫には、受身にならざるを得ない。
なにより趙雲は、斐仁を殺したくなかったのだ。


つづく

※ 本日、2022年6月20日より、隔日連載です。
あらためてよろしくお願いします。

臥龍的陣 雨の章 その18 訣別

2022年06月18日 10時42分32秒 | 英華伝 臥龍的陣 雨の章


どれくらい走っただろう。
馬の速度が徐々に落ちてきた。
大の大人ふたりを乗せているのだから、つぶれてしまってもおかしくない。
追っ手もこない様子なので、趙雲は馬の足を止めさせた。
暗くてよくわからないのだが、ひっそり寝静まった民家のそばである。
井戸があったので、そこにもたれかけるようにして潘季鵬を置く。
そうして、闇の彼方を振り返る。夏侯蘭は無事だろうか。
「……」
潘季鵬が、ちいさくうめき声をあげた。趙雲は、駆け寄り、血と泥で汚れた顔を覗き込む。
「潘季鵬、おれがわかるか?」
「……」
唇が、言葉を作ろうとするのだが、声がでない。
趙雲は、井戸の水を汲み、潘季鵬に含ませてやった。

過去のいざこざも、これほどまで無残な姿を見れば、どこかへ吹っ飛んでしまう。
着物はぼろぼろ、あちこちに鞭打たれた傷があり、癒えないまま晒されていたために、皮膚が変色している。
虫にたかられている箇所すらあり、水を飲ませながらも、趙雲はその姿に涙した。
公孫瓚の元へと導いてくれたときの、故郷の民謡を大声で唱和していた男の面影がなくなっている。
この男は死ぬのだろうか、と趙雲は考え、悲しみのあまり、また涙した。
死んでほしくない。
たとえ袂を別った相手とはいえ、道を示してくれた恩人であることに変わりはないのだから。

ちかくの民家の納屋があり、そこの扉が開いていたのを幸いに、趙雲はそこに潘季鵬を運び込み、出来うる限りの手当てをした。
夜が明けると、雨は止んだものの、易京の町はものものしく、宮城を襲った賊に心当たりがある者に対し、報奨金をあたえるとの触れが出回った。
どうやら夏侯蘭はうまく逃げおおせたらしい。

趙雲は、兵士たちの目を盗むようにして外に出て、夏侯蘭との連絡を取ろうとしたが、叶わなかった。
代わりに、かつて潘季鵬に恩を受けたという男が見つかり、その男と協力して、潘季鵬を運び出した。
男は、懇意にしているという医者を呼び、潘季鵬の手当てをした。
趙雲もおなじく、看病をつづけた。
潘季鵬の顔色は徐々によくなり、まだ言葉は発せられないものの、わずかに意志を示せるまでに回復していた。
医者の見立てでは、左腕の腱と筋が切れており、もう使い物にならないだろう、体中に残る傷の痕は残るだろうが、危険な状態からは脱け出せているから、これから悪化して、命を失うようなことにはならないはずだ、と言った。

趙雲は、潘季鵬が歩けるようになったら、共に易京を出て、常山真定に連れて行こうと考えた。
すくなくとも、いまだ兵士たちが警戒を解かない易京にいるよりはマシである。
潘季鵬のほうは、まだうめき声程度しか声を出せないでいた。
さらにしばらくして、潘季鵬は上半身を起き上がらせることができるまでになった。
左腕は、医者の言うとおり、もう言うことをきかなかったが、利き腕である右手は無事で、軽いものなら、普通に掴めるまで握力が回復した。

潘季鵬の口が動いた。
またなにかを訴えようとしている。
掠れた声が出る。
うめき声ではない。はっきりとした言葉だ。
趙雲は側に寄り、その言葉に耳をかたむけた。




翌朝、趙雲は、与えられる限りの路銀を男に預け、単身、易京を後にした。
二度と振り返らなかった。
そうして、二度と戻ることもないだろう。
空はふたたび曇天につつまれ、はるか彼方の地平では、雷雲が大地に稲光を落としているのが見えた。
怒りはない。ただ、むなしい。

うせろ、うらぎりもの。

潘季鵬のかすれた声はそう告げて、趙雲を突き放した。
おのが夢に背いた子に対する、最後の言葉がそれであった。
以来、趙雲は潘季鵬の消息を知らない。

つづく…


※ 本日より、1話分の文字数を減らしています。
その代わり、更新頻度を上げていきます。
今後ともどうぞよろしくお願いします('ω')ノ

臥龍的陣 雨の章 その17 奪還

2022年06月15日 10時24分59秒 | 英華伝 臥龍的陣 雨の章


そして。
公孫瓚は滅んだ。
最後まで、主君に尽くした男・潘季鵬は、滅亡した家の最後の生き残りとして晒し者とされている。
公孫瓚に幻滅し、去ったおのれは、五体満足で生きている。
なんという皮肉か。
己の理想のために殉じる姿は、美しくも在るが、さらに上回って無残でもある。
あんたの志の結果が、これなのか。
趙雲は無言で、易京のつめたい雨に打たれて磔にされている潘季鵬に呼びかけた。
はじめて義勇軍として、常山真定を代表して袁紹に徴兵され、戦に出ないうちから、古参兵たちのしごきに遭い、ろくに食料を与えられずに生き死にを彷徨っていたところを救ってくれたのが、潘季鵬であった。

おなじような目に遭わされて、なにも為さぬまま味方によって命を奪われてしまった者すらいるなかで、おまえは運がいいと潘季鵬は言い、趙雲もそのとおりだと素直に思った。
公孫瓚のいる北平へ至る道は楽しく、希望に満ちていた。
趙雲と同じように、半ば落ちぶれた家から、理想に燃えて集落を出て、世間のなんたるかを知らないまま、剣を持たされていた少年たち。
潘季鵬は、かれらに、天下を説き、天下の安寧を説いた。
天下を安んじる英雄とはだれか、英雄に仕えるにはどうしたらよいか、熱意をもって、おしえてくれた。
潘季鵬の指し示す先には、かならず平和を取り戻してくれる英雄が、待っていてくれるような気がした。




「聞いているのか、子龍。頼んだぞ。まず、おれが門衛どもを引き付ける。連中の気がそれたら、おまえが馬上より、弓で門衛を射る。射損じることのないようにな。そして、応援が来ないうちに、潘季鵬を救う」
さらし者になっている潘季鵬を救うための夏侯蘭のたてた作戦は、大雑把なものであった。
しかし、ほかに妙案はない。
つづく小糠雨と、勝利の余韻のために、兵士たちの気持ちはゆるんでいる。
そこが狙い目だ。

打ち沈んだ易京の町に、夜が静かにやってくる。
雨は止まず、あたりは暗い。
雨を避けるようにして焚かれた篝火だけが、闇をわずかにやわらげている。
焼け落ちた宮城の、辛うじて残った門を守る兵士たちのもとへ、酒瓶片手に、夏侯蘭が近づいていく。
人懐っこい笑顔を満面に浮かべ、旧知に会ったように振る舞う。
門衛たちは、身構えたが、夏侯蘭の手にあるのが酒瓶で、武器があるように見えないので、すぐに酔っ払いだと判断したようだ。
酔っ払いはあっちへ行けと邪険にされるが、夏侯蘭は、ひるまない。
どころか、酔った振りをして、ふらり、と門衛のひとりにもたれかかった。

作戦のはじまりだ。
門衛は、すっかり油断しており…夏侯蘭は、そのまえに酒家でしこたま酒を呑んでいたが、もともとザルなのである…酒臭い夏侯蘭を跳ね除けるが、その手に、おのれが腰に差していたはずの剣がないことに気づかない。
気づいたときは、おそかった。
白刃は、すでに門衛の咽喉を掻き切っていたのである。
仲間の門衛が夏侯蘭に襲い掛かる。
だが、やはりこちらも遅かったのだ。

かれらが槍や矛を構えるより早く、夏侯蘭はすぐに行動を起こしていた。
手にしていた酒瓶を、集まってきた門衛にぶちまける。
門衛たちは、一瞬ひるむが、仲間を殺された怒りは、それくらいで大人しくなりはしない。
そこへ、趙雲が、物陰より矢を射掛ける。
ただの弓ではない。火矢だ。
小糠雨に負けないように、たっぷり油のしみこませた布に火をつけて、夏侯蘭に群がる兵士たちへ矢を飛ばす。

おまえは殺しが巧すぎる。

「だまれっ」
誰に言うでもなく、ちいさく叫ぶと、趙雲は、焦点のしぼりにくい、篝火に姿を浮かばせる門衛めがけて矢を絞る。
しかし一射目は、外れた。
大きくそれて、柱に当たる。
門衛が、それに気づいて、新手がいるぞ、と叫んだ。
もはや躊躇はしていられない。
趙雲は舌打ちすると、馬の脇腹を蹴った。
借りてきた馬なので、白馬義従であったときに馴染んでいた馬とはちがい、息が合わないが、なんとか思うとおりの方向に進ませる。

馬を走らせながらの二射目。
今度は、方向がぶれずに、ちょうど、夏侯蘭の目の前の男の額を射抜いた。
三射目を番えたとき、風を切る音がして、趙雲はとっさに身を逸らせた。
見ると、門の向こうから、仲間たちの声を聞きつけたほかの兵卒たちが、弓をかまえてこちらに向かっている。
中でも、趙雲の姿を認めた兵士が、こちらに向けて矢を射掛けてきたのだ。
「子龍、この莫迦! ちゃんとやれ!」
夏侯蘭の罵り声が聞こえた。
罵りながらも、夏侯蘭は、門衛たちをつぎつぎと斬り伏し、潘季鵬のところへ向かう。
弓兵のひとりが夏侯蘭の背中へむけて、矢を番えたのが見えた。
趙雲は、馬首をめぐらせ、弓を射る。
気持ちが焦っていたのもあるだろう。
気心の知れない馬の背の上であったこともあるだろう。
三射目も外れた。

そうして、矢におどろいた兵士の手が弛み、あろうことか、夏侯蘭めがけて矢が放たれた。
「阿蘭!」
趙雲は叫んだ。
夏侯蘭は目の前の敵を片づけるのに夢中である。
そこへ、まるで滑り込むようにして、門衛のひとりが、背後から夏侯蘭を斬ろうと、飛び込んできた。
放たれた矢は、その男の心の臓あたりを貫いて、止まった。
運が良かった。
だが、これでは埒が明かぬ。
趙雲は弓を捨てた。
作戦どおりではないが、もはやこだわっていられない。
馬を飛ばし、そのまま、宮城の門へと飛び込む。
そして馬上から、剣を振りかざして、つぎつぎと兵士たちをなぎ倒していった。

こうなると、独壇場である。
さきほどまでの硬さは抜け、まさに舞を舞うような軽やかさで、迷いもなく兵士たちを斬り伏せる。
その動きに無駄なものはなにひとつなく、次の攻撃の、さらに次までも予測した、完璧なものである。
戦場での経験も、ものを言っているのかもしれないが、趙雲の場合は、天性のものであった。
五感は研ぎ澄まされ、相手の動きが止まっているかのような錯覚さえおぼえる。
もはや名人の境地にも近い。
技量の勘と、身体の柔らかさ、相手の行動を瞬時に読み取り、利用することができる瞬発力と想像力。
世の剣を手にした者すべてがうらやむ能力を、ほぼ完全なかたちで備えているのだ。

「子龍、こっちだ!」
夏侯蘭が、門衛たちを切り伏せて、潘季鵬が磔にされているところにまでたどり着いた。
夏侯蘭は、その口に刀をくわえると、潘季鵬を晒す木の台によじ登った。
そして、口の刀をふたたび手に持ち、四肢をつなぐ紐を断ち切った。
そのまま地上に落ちそうになるのを、夏侯蘭は辛うじて支える。
そうして趙雲に向けて怒鳴った。
「潘季鵬を馬で連れて行け! こいつらは、おれに任せろ!」
「しかし!」
「よいから行け! 問答をしている暇はないぞ!」

夏侯蘭の言うとおり、門の騒ぎを聞きつけ、続々と兵士たちが集まってくる気配がある。
さすがに一騎当千を自負する趙雲も、易京中の兵士を相手にするのはむずかしい。
なにより、当初の目的は、潘季鵬を救うことであり、馬に乗っているのは趙雲なのだから、夏侯蘭の指示はまっとうなものである。

趙雲は、夏侯蘭のもとへ馬を走らせる。
夏侯蘭は、それっ、と掛け声とともに、片手で支えていた潘季鵬の身体を落とした。
趙雲は、馬を走らせながらも、それを受け止める。
ここで、並みの乗り手ならば、馬が驚いてしまい、棹立ちになって、ともども振り落とされてしまうところだ。
しかし馬にもっとも馴染んでいる北方の異民族にさえ恐れられた趙雲は、うまく馬を御し、速度をゆるめないまま、闇の向こうへと、馬を走らせた。

つづく

臥龍的陣 雨の章 その16 ふたたびの雨

2022年06月08日 09時54分12秒 | 英華伝 臥龍的陣 雨の章


手当てが必要だった。
しかし、医者に連れて行くわけにはいかない。
自分の城内にある部屋でも駄目だ。目立ちすぎる。
だれか、城市なかでも静かな場所に屋敷を持つ、信用できる人間のところへと考え、浮かんだのはたった一人だけであった。

陳到の屋敷には、かんじんの陳到がいなかった。
代わりに主人を待つ妻と子どもたちがいたが、趙雲が病人を抱えて現われると、事情も説明しないうちから、奥の部屋を空けて寝台を作ってくれた。
そうして、家の者に頼んで、陳到に使いをやり、至急、屋敷に戻るようにと伝言させてもくれた。

斐仁がなぜ、夏侯蘭を襲ったのか、その理由がわからない。
わからないが、ふたたび、襲ってくる可能性がある。
夏侯蘭が追っているという、娼妓殺しの『狗屠』が、斐仁だというのか。
混乱しつつ、みずからも濡れた体を拭いて、趙雲は陳到を待った。

陳到はすぐに屋敷に戻ってきた。
事情を説明している暇がない。
陳到ならば、すくなくとも家族を守りきることができる。
うろたえる陳到から、斐仁の屋敷につけた見張りは、なんの連絡もよこしていないことを聞き出す。
そして趙雲は、斐仁の姿をもとめ、大きな雨粒から変化して、いまや糸雨が降り注ぐ町へ戻った。






やはり、あのときも、同じように雨が降っていた。
焼け落ちた易京の城壁のうえで、磔になった潘季鵬の姿を指して、夏侯蘭は、助けなければ、と訴えた。
そのとき趙雲の胸に去来したのは、悔恨にも似た、にがい思いであった。

趙雲は公孫瓚を見限った。
その判断に誤りはなかったと思う。

公孫瓚は易京に一大要塞を作り上げ、数年におよぶ籠城にも耐えうる、膨大な量の食糧を城内へ蓄えていた。
そのあいだにも、世の中は着々と動いていた。
公孫瓚の行動は、めまぐるしく動く時流に、ひとりだけ背を向けて、冬眠に入ろうとする熊のようであった。

兵は拙速を尊ぶ。
戦は短期決戦で望むもの、長びけば長びくほど国力の衰退を招く。

この孫子の言葉を用いて、趙雲は意見したが、無視された。
このころ、公孫瓚は白馬義従によってもたらされる名声におぼれ、奢侈にふけるようになっていたのである。
蛮族より、漢族をまもる英雄。
目下の敵で、漢王朝の血筋を濃く引く劉虞は、蛮族への対応が苛烈すぎると公孫瓚を非難したが、公孫瓚は皇帝にと嘱望されるほど名声の高かった劉虞すら敗北に追い込み、勢いを高めていた。

しかし、蛮族を追い立てたというその功績は、天下の全体から見ればごくごく小さなものであった。
それを理解できたのか、それとも、自分の限界がここまでだと気づき始めたからなのか。
あるいは、劉虞を殺したことで世のそしりを受けることが増えたことを気に病んだのか。
公孫瓚は、自分の内側に籠もるようになり、良臣を周囲から避けるようになっていた。
趙雲も避けられたひとりだったのである。

趙雲は悩みに悩んだすえ、当時、公孫瓚の客将であった劉備に、身の振り方を相談した。
劉備は、公孫瓚とは兄弟弟子にあたる。
おなじ盧植の私塾にかよった間柄だった。
公孫瓚は劉備を厚遇し、白馬義従のなかから選抜して、趙雲に劉備の主騎をまかせた。
劉備は趙雲を気に入って、一緒に連れてきた義兄弟たちと同じくらいに親しく接してくれた。
この方ならば、信頼できる。
公孫瓚のひととなりも、よく知っている。
なにより、外部の人間であるから、公平に見ることができるだろうと、趙雲は思ったのである。

以前に信頼できると思っていた潘季鵬から突き放されたばかりであったから、他人に悩みを切り出すのに勇気がいったが、ひとつ語りはじめれば、あとは止まらなかった。
夢中で語りながら、趙雲は、自分のなかに、これほどの澱が溜まっていたことを知った。
澱、というよりは、毒に近い。
信頼できる者を失くし、言葉を封じ込めていた。
それが解けて、気持ちがすっとした。
劉備は、趙雲の話をよく聞いてくれた。
劉備の言葉は洗練されていないし、鋭くもないが、じっくり考えたあとにつむぎだされる、誠実なものであった。

「おまえが、もう駄目だと思うのであれば、やっぱり、もう駄目なのではないか。兄弟子が駄目だとかいうのではなく、おまえ自身の気持ちが萎えてしまっているところが駄目だ。努力したところで、気持ちが変わらないかぎり、双方にとって、残念な結果にしかならないと思うぞ」
と、劉備は言った。

みじかい言葉であったが、それが趙雲の背中を押した。
主君が道を間違えると、家臣たちもおなじく滅びの道を歩くことになる、厳しい世の中である。
生き抜くために、趙雲は公孫瓚のもとを辞去することに決めた。
ちょうど、故郷の兄のひとりが死んだ、と訃報が入ってきた。
大手を振って、常山真定へ帰ることのできる、よい機会である。
このとき、すでに公孫瓚と袁紹の仲は修復不能なまでになっており、易京の緊張は、日に日に高まっていた。

趙雲の里帰りに、潘季鵬は大反対をした。
おまえは、いままで温情をかけてくださったわが君を見捨てるつもりなのかとなじった。
公孫瓚との間柄も、以前よりぎこちないものになっていると、趙雲は潘季鵬に言葉を尽くして説明した。
だが、潘季鵬は聞かなかった。
葬儀が終わったら、すぐに帰って来い、の一点張りであった。
趙雲は、対話をあきらめた。

殺しが巧い、と言われたことが、いつも心のどこかに棘として残っている。
一度だって、楽しんで殺しをしたことなどない。
逃げる兵士に矢を射掛けたのも、いま、徹底的に叩かなければ、彼らは形勢を整えて、すぐに逆襲してくると思ったからだ。
言い換えれば、いま敵を殺さねば、つぎに味方が殺されると思ったのだ。
味方が突破されれば、無辜の民が犠牲になってしまう。
武人の役目は、戦場で華々しい功績を上げること、わが君に華を持たせることではなく、民を守ることではないのか。
民を守るためならば、戦場で鬼になってもかまわない。
その覚悟でやってきた。
おそらく潘季鵬は、趙雲の想いは知らなかっただろう。
趙雲としては、自分の心を、恩人である潘季鵬が汲んでくれなかったことが、悲しかった。


つづく

臥龍的陣 雨の章 その15 雨の中の本性

2022年06月01日 08時58分57秒 | 英華伝 臥龍的陣 雨の章


そうして、趙雲の命令により、主だった、手の空いている役人すべてが集められ、人攫いを探すため、新野の周辺の、怪しげな場所…妓楼や闇市など、ありとあらゆる場所を探索することとなった。

趙雲にとっては、都合がよかった。
どこかに隠れている夏侯蘭も、これで探しやすくなる。
そうして、人攫いを探しながら、趙雲は夏侯蘭の姿を求めて、新野じゅうを移動した。

雨を避けるためにかぶった笠の、その隙間から、しずくがぽたぽたと垂れて鬱陶しい。
朝のうちから降り始め、しばらく霧雨であったものが、正午を過ぎたあたりから、本降りになってきた。
しばらく馬を走らせていたのだが、ひずめが泥濘にとられてしまうといけないので、途中から馬を降り、見知った新野の街を移動する。

雨の帳がかかっているためか、新野の街はどこか暗く沈んで、よそよそしく感じられる。
その様は、否が応でも、易京の記憶を刺激する。
あのときも、こんなふうに雨が降っていて、息を詰めるようにして街を歩いていた。
 
「む?」
一瞬。
ほんの一瞬であったが、街角を、女の影が過ったように見えた。
女の纏う領巾が、この雨にもかかわらず、揺れて、まるで趙雲を誘っているように見えたのだ。
ばかな。
おのれの空想を哂って、そのまま忘れようとする。
だが、本能とも言うべきなにかが、女を追いかけろと頭の中で告げていた。
相手は女。
仮に関係なければそれでいい、追ってみよう。

趙雲は、女の影を追って、ぬかるんだ道の路地をまがった。
そこは行き止まりになっていた。
突き当りの土塀の前で、だれかがうずくまっている
女ではなかった。。
曇天のもと、したたる雨のなか、光るものが目に飛び込んできた。

「阿蘭!」
だれかが、ぬかるみに倒れる夏侯蘭に挑みかかり、白刃を振りおろそうとしている。
ぬかるんだ地面に倒れているのは、見まちいがえようのない、剃り上げられた頭、派手な色合いの着物、形も色もまちまちな装飾品。
夏侯蘭だった。

趙雲が声をかけても、夏侯蘭は倒れたまま、身動きひとつしなかった。
一方、夏侯蘭の身体に馬乗りになっている男は、趙雲の声に反応し、びくりと振りかえる。
その顔に驚愕し、趙雲は思わずさけぶ。
「斐仁!」
笠をかぶっていたが、まちがいない。
陽のない路面のうえで、斐仁は、振りあげた白刃を宙にとどまらせたまま、趙雲のほうを見て、ちいさくうめいた。
「貴様、なぜここに!」
趙雲が駆け寄ると同時に、斐仁は、夏侯蘭の身体から離れた。
つかまえようとしたが、普段の斐仁とは別人のような身のこなしで、素早く背を向ける。

「おまえ、足は?」
かつて劉表の元で働いていたときに、怪我をして、片足が利かなくなった。
だからいつも足を引きずっている。
そういう話ではなかったか。
だから、官給品のしまってある東の蔵の整理をまかされていたのだ。

だがいまの斐仁の足は、どこにも問題がなかった。
それどころか…
民家の土壁に追い込んだ。
行き止まりである。
仲間もいない様子だ。
「斐仁」
声をかけると、笠をかぶったままの斐仁は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

特徴がないことが特徴の、どこにでもありそうな細目の顔である。
雨に濡れたせいか、それとも殺しが失敗したせいか、顔色は蒼い。
だが意外なことに、その顔には、なんの表情もなかった。
狼狽も怒りも悲しみもない。
目を逸らすわけでもなく、見つめるほうが気おされるほどに、真っすぐにこちらを見ている。

背筋が、ぞくりとした。
どうやら、自分は、七年の長きにわたり、斐仁という人物を、おおきく見誤っていたらしい。
これは平凡な兵卒の顔などではない。
熟練の刺客の、それではないか。

反射的に、剣に手を伸ばした趙雲であるが、趙雲がうろたえていた、そのわずかな隙を、斐仁は見逃さなかった。
土塀に背を向けた姿勢のまま、鳥のようにぱっと飛び上がり、土塀の上に登る。
おどろくべき身のこなしであった。
そうしてそのまま、くるりと向きを変え、向こうがわへと消えてしまう。
趙雲は、すぐさま追おうとしたが、夏侯蘭の様子が気にかかった。
振りかえると、夏侯蘭は、いまだにおなじ姿勢でいる。
ちょうどあおむけになって、雨に打たれるがままになっている。

だが、様子がおかしいのが知れた。
「刺されたか?」
別れ際に、縄標で攻撃されたことを忘れ、趙雲は、かつての旧友のところへと駆け寄る。
激しく打ちかかる雨と、夕闇の迫っている暗さのために、近づかないと、怪我の有無がわからない。
夏侯蘭の身体は震えていた。
寒さのためにしては、震え方が激しすぎる。
よく見ると、雨に塗れた顔の、目も口もうつろに開かれて、正気を失っているのが知れた。
趙雲は舌打ちした。怪我や病での震えではない。
五石散だ。

妓楼のなかには、不老不死の霊薬と称して五石散を客に勧めるところがある。
夏侯蘭が、どこに隠れていたかは想像するしかないが、妓楼かどこかだろう。
そして、そこで五石散を飲用したらしい。
そこへ、人攫いを捜しにやってきた兵卒たちがやってきた。
正体を知られたくない夏侯蘭は、あわててここまで逃げてきたにちがいない。
そこを斐仁に襲われたのだ。

莫迦が、と舌打ちし趙雲が肩を貸そうとすると、夏侯蘭は弱弱しく、それを払いのけた。
「おれを屯所へ連れて行く気か。離せ、この犬めが。こんなところにいないで、劉備の横にくっついておれ」
「おれが犬なら、おまえは鼠だろうが」
夏侯蘭は、生気のない笑い声をたつつ、趙雲の肩をはねのけると、ふらふらとよろめき、そして泥濘に倒れた。
雨がはげしく、その身体を打っているのであるが、気にならないらしい。
昨夜の様子からすれば、別人のように情けない姿であった。
「子龍、あっちへ行け。行ってしまえというのだ、裏切り者め。兄の葬儀があるから伯珪どののもとを去るだと? おまえ、あれはただの口実だったのだろう?」
伯珪とは、公孫瓚のあざなである。
ずいぶん昔の話を持ち出すものだ。
「いまさらだな」
「おまえは冷たい。氷雪よりも、もっと冷たい。でなければ、なぜ公孫瓚を見捨てたのだ」
「答えを聞いてどうする。同じ問いを、おまえに返すぞ」
地面に横になったまま、手足をぬかるみに放り投げた姿勢で、夏侯蘭は、うつろに笑う。
「知りたいか。おまえがいなくなったからだ。おれはおまえを真の友と思っていた。兄の葬儀が終わったら、かならず帰ってくるだろうと思っていたのだ。
ところが、どうだ。おまえは一向に帰ってこないではないか。みんなおまえを待っていたのに、おまえはみなを見捨てたのだ。そこで、おれたちもばかばかしくなって、公孫瓚を見捨てたのさ。あいつは占い師や商人とつるんでばかりで、まともなやつの意見を聞かなくなっていたからな。おれたちが残っていても、きっと同じく炎の中で死んでいっただろうよ。
しかし子龍よ、おまえは新野ではずいぶんと評判がよいようだな。義理堅い男だと? おまえは大人しそうな顔をして、保身のためならば、友さえ裏切る男だというのにな」

趙雲は、答えなかった。
事情を知らない夏侯蘭の恨み言である。
雨と共に流してしまえばいい。

夏侯蘭が、うめくように続ける。
「潘季鵬も、おまえを待っていたのだ。なのに、おまえは帰ってこなかった」
「嘘だ」
趙雲の顔色が変わったのを雨のとばりごしに見たのか、夏侯蘭は暗い笑みを浮かべる。
「嘘なものか。あれは、かならずわが君の危機を救うために戻ってくる、そう言っていた。だからおまえを捜すため、おれを易京の外に出したのだ」
「莫迦な」
おまえは殺しが巧すぎる。
そう言って、おのれを突き放した男が、ずっと待っていた? 
「今更、後悔してもおそい。公孫瓚は死に、潘季鵬も、あの傷では、もう生きてはおるまい。つづくのはおれだ。おまえなんぞに助けられては、死んでいった者に申し訳が立たぬ。せっかく引導を渡してもらえるところであったに、お節介め。さっさと行ってしまえ」

雨が、さらに激しく、大地に降り注ぐ。
大粒の雫のひとつひとつが、肌に痛い。
趙雲は、ろれつの回らない舌で、まだなにかを訴えてくる夏侯蘭を、無言のまま、担ぎ上げた。

つづく

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