※
新野城内にたどりつく寸前に、とうとう雲から、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。
足を速めて城門へ行くと、なにやら騒ぎが起こっている。
見ると、門衛たちに、農婦らしい女が、くってかかってなにやら訴えているのだ。
さては、門衛のだれかが野菜でも買って、その値段を踏み倒したかと趙雲は思った。
だが、近づいてよく見てみると、そうではない様子だ。
農婦の勢いがあまりにすさまじいため、門の近くの町人たちや、陳情に城に来ていたと思しき者たちまでが、雨が降り出したにもかかわらず、つぎつぎと集まってきている。
「お願いでございます、どうか、会わせてくださいまし」
やつれのみえる農婦は、門衛のひとりにすがっている。
すがられている門衛は、困り顔で、
「何度も説明したではないか。おまえの息子はここにはおらぬ!」
と吐き捨てた。
だが、農婦は引っ込まない。
「そんなはずはございません。あたしの子はたしかに、お殿さまの徴兵だからといって、お役人に連れられていきました。お城にいるはずです。どうして隠すのですか? まさか、息子は死んでしまったのではないでしょうね」
「ここにいない者が、ここで死ぬわけがなかろうが! ええい、だれか、なんとかしてくれ!」
「お願いでございます! ひと目でよいのです、会わせてください!」
去ろうとする門衛に、なおも農婦がすがろうとする。
門衛は、それを避けようとして、思わず、ひじで、したたかに農婦のアゴを打ってしまった。
農婦が、降りだした雨を受けて、湿りはじめた地面に倒れる。
見物人のひとりが、非難がましく、
「あっ」
と叫んだのをきっかけに、見物人たちは、いっせいに門衛たちに向け、どやしはじめた。
「おい、ひどいじゃないか」
「こんなに言っているんだ、息子に会わせてやれ」
「ほんとうに死んじまっているんじゃないだろうな」
やじを飛ばす者、拳を振り上げて怒号をあげる者、農婦を助け起こす者で、門の周りは大騒ぎだ。
いかん。
趙雲は、群衆をかき分けるようにして、農婦と門衛のあいだに割り込んだ。
見るからに身分の高い者があらわれたとわかったのか、門衛たちを悪しざまに罵っていた群集が、ぴたりと鎮まった。
一方で、騒ぎを聞きつけ、城壁から、わらわらとほかの守衛たちが集まってきている。
「みな落ち着け」
趙雲が重々しく言うと、門衛も守衛も、小雨に打たれながらも騒いでいたひとびとも、趙雲に視線を集めて黙り込んだ。
静かになったのを見計らい、趙雲は起き上がっていた農婦に尋ねた。
「おれは劉豫州の主騎で趙子龍という。そなたの息子が、徴兵されたというのは間違いないか」
「はい、もちろんでございます。お役人さまは、この子は新野へ連れて行く、とはっきりおっしゃいました。それであたしも安心したのです。あたしだけじゃなく、ほかの村の者も、その言葉は聞いておりました。息子の名前は、張治平と申します。お預けしたのはよいのですが、それでも幼い子ですから、どうしているか心配で、心配で。どうぞ、会わせてください」
それを聞いて、さきほど、農婦を倒れさせてしまった門衛が、またも苛立った声をあげてさえぎった。
「だから、何度も申しているではないか! おまえの息子がここにいるはずがない」
「おい、なぜそう、決め付けるのだ」
趙雲が門衛にたずねると、門衛は、むすっ、としたまま答えた。
「しかし趙将軍、この女の息子は、まだ十一歳だというのです。此度の徴兵の基準は、十六歳以上の男子であったはず」
「でも、お役人さまは、十一歳ならばちょうどよいといって、連れて行きました。どうして、みんなして、あたしに嘘をつきなさるのですか? 治平は、あたしの大事な一人息子でございます。お殿さまのためならばと差し出しましたけれど、離れてみると、心配で心配で、夜も眠れませぬ。どうぞ、会わせてくださいまし」
趙雲はぎょっとした。
孔明によって、曹操の南下にそなえ、徴兵がおこなわれたのは事実であるが、その基準は十六歳以上の壮健な男子で、長男以外、というものであった。
十一歳の少年で、しかも一人息子を、徴兵などするわけがない。
趙雲は、門衛の長に命じて、農婦を城にいれてやった。
つづいて、徴兵を担当した者を捕まえて、至急、名簿のなかに、農婦の息子の治平の名前がないか調べさせた。
治平とやらが、少年らしい武器を持つ者への憧れで、年齢を詐称して、徴兵に応じた可能性がある。
だが、そうでないとすれば…
徴兵にまぎれて、人攫いが出没したのだ。
純朴な農民をだまし、子どもを連れ出して、奴隷商人に売り飛ばす、悪辣な連中だ。
もし人攫いが出たのならば、ほかにも被害にあった村があるはずだ。
※
「まさか人攫いとは、油断も隙もない世の中ですな、わたくしも、娘の銀輪をしばらく外に出さないことにいたします」
さわぎがひと段落したあと、やれやれ、と言いながら年寄りのようにおのれの肩を叩きつつ、ひょっこりと現われた副将の陳到が言った。
熱を出した銀輪の看病ゆえか、目の下に隈ができている。
陳到は趙雲と、ほぼ同年なのだが、所帯持ちのためか、ずいぶん老けて見えた。
「銀輪は、もうよいのか」
「おかげさまで、落ち着きました。ところで、昨日の模擬試合は、散々だったようですな」
「言うな、思い出したくない」
「はは、そう落ち込まれませぬよう。ところで、斐仁のやつが休みを取っておりますので、東の蔵の管理を代理でそれがしが受け持つことにいたしました」
ご確認を、と陳到が、東の蔵にある官給品の在庫をしらべた竹簡を差し出す。
「在庫の確認は、ただ在庫を数えるだけの仕事でありますが、あの蔵にまつわる怪談がはやっておりますので、みながかかわるのをいやがりましてな。まったく、迷信深い連中は、これだから困る。たしかに気持ちの悪い場所ではありますが、いやがっていたなら仕事が定時で終わらなくなってしまう」
「怪談とは、例の幽霊の話か」
「そうです。妓女を取り合った男たちが殺しあってはずみで火事になり、いちど蔵は焼けている。そのため、あの蔵には、火傷だらけの幽霊が出る、という。古参兵どもめ、ひまつぶしに新米を怪談話でからかったようでして。新米どもがすっかり震えあがって、ここにいるのはいやだ、早く出たいとみな騒ぎはじめたのです。これを鎮めるのに、在庫を数えるよりも時間がかかってしまいました」
「それはご苦労であったな。ところで、斐仁はなぜ、休んでいる?」
「本日は感冒で熱が出たので休むと斐仁の家の者が連絡して来ましたが。斐仁になにか?」
今日は引き籠もるつもりか?
それともまさか、逃げ出すつもりではなかろうな。
「叔至は、斐仁と親しかっただろうか。あいつについて、どう思う?」
「はあ、そうですな、金持ちですな」
「今朝、はじめてやつの家をみたが、ずいぶんと立派な屋敷に住んでおるな」
趙雲が水をむけると、噂好きの陳到は、身を乗り出して、話し出した。
「それだけではございませぬ」
部将のだれともうまくやっており、みなの集まる炉辺では、かならず隣で陳到が餅を焼いて噂話を収集しているといわれるほどの噂好き。
陳到は、きらりと目を輝かせ、日ごろの情報収集の成果を趙雲に披露しはじめた。
「やつめ、別宅に妾を囲っておるのです。あちこちから、珍しい華美なものを取り寄せて、妾をまるで宮女のように飾り立てているとか。うちの女房なども、妾はいやだが、きれいなものに囲まれているのは羨ましい、などと当てこすりを言ってきまして」
「斐仁は、なぜにそんなに金を持っているのだ?」
「さあて、なにせ親しい者がいないに等しい、人付き合いのわるい男ですから、くわしいことは判らないのですが、親戚の財産を譲り受けたという話ですが、まさか?」
「なんだ?」
「斐仁に、横領の疑いがかかっているのでは?」
「そうではない。ただ、気になることがある。叔至、すまぬが、口の固いのを数人選んで、斐仁の屋敷を見張らせておいてくれ。斐仁が屋敷を出るようなことがあったら、すぐに報せるように言ってくれ。もちろん、このことは内密に頼む」
「承知いたしました」
陳到はそう言うと、なにも聞こうとせずに、辞去した。
陳到は趙雲を尊敬しており、ほかの武将とは別格にあつかっているので、詮索好きの性分も、抑えられるのである。
つづく
新野城内にたどりつく寸前に、とうとう雲から、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。
足を速めて城門へ行くと、なにやら騒ぎが起こっている。
見ると、門衛たちに、農婦らしい女が、くってかかってなにやら訴えているのだ。
さては、門衛のだれかが野菜でも買って、その値段を踏み倒したかと趙雲は思った。
だが、近づいてよく見てみると、そうではない様子だ。
農婦の勢いがあまりにすさまじいため、門の近くの町人たちや、陳情に城に来ていたと思しき者たちまでが、雨が降り出したにもかかわらず、つぎつぎと集まってきている。
「お願いでございます、どうか、会わせてくださいまし」
やつれのみえる農婦は、門衛のひとりにすがっている。
すがられている門衛は、困り顔で、
「何度も説明したではないか。おまえの息子はここにはおらぬ!」
と吐き捨てた。
だが、農婦は引っ込まない。
「そんなはずはございません。あたしの子はたしかに、お殿さまの徴兵だからといって、お役人に連れられていきました。お城にいるはずです。どうして隠すのですか? まさか、息子は死んでしまったのではないでしょうね」
「ここにいない者が、ここで死ぬわけがなかろうが! ええい、だれか、なんとかしてくれ!」
「お願いでございます! ひと目でよいのです、会わせてください!」
去ろうとする門衛に、なおも農婦がすがろうとする。
門衛は、それを避けようとして、思わず、ひじで、したたかに農婦のアゴを打ってしまった。
農婦が、降りだした雨を受けて、湿りはじめた地面に倒れる。
見物人のひとりが、非難がましく、
「あっ」
と叫んだのをきっかけに、見物人たちは、いっせいに門衛たちに向け、どやしはじめた。
「おい、ひどいじゃないか」
「こんなに言っているんだ、息子に会わせてやれ」
「ほんとうに死んじまっているんじゃないだろうな」
やじを飛ばす者、拳を振り上げて怒号をあげる者、農婦を助け起こす者で、門の周りは大騒ぎだ。
いかん。
趙雲は、群衆をかき分けるようにして、農婦と門衛のあいだに割り込んだ。
見るからに身分の高い者があらわれたとわかったのか、門衛たちを悪しざまに罵っていた群集が、ぴたりと鎮まった。
一方で、騒ぎを聞きつけ、城壁から、わらわらとほかの守衛たちが集まってきている。
「みな落ち着け」
趙雲が重々しく言うと、門衛も守衛も、小雨に打たれながらも騒いでいたひとびとも、趙雲に視線を集めて黙り込んだ。
静かになったのを見計らい、趙雲は起き上がっていた農婦に尋ねた。
「おれは劉豫州の主騎で趙子龍という。そなたの息子が、徴兵されたというのは間違いないか」
「はい、もちろんでございます。お役人さまは、この子は新野へ連れて行く、とはっきりおっしゃいました。それであたしも安心したのです。あたしだけじゃなく、ほかの村の者も、その言葉は聞いておりました。息子の名前は、張治平と申します。お預けしたのはよいのですが、それでも幼い子ですから、どうしているか心配で、心配で。どうぞ、会わせてください」
それを聞いて、さきほど、農婦を倒れさせてしまった門衛が、またも苛立った声をあげてさえぎった。
「だから、何度も申しているではないか! おまえの息子がここにいるはずがない」
「おい、なぜそう、決め付けるのだ」
趙雲が門衛にたずねると、門衛は、むすっ、としたまま答えた。
「しかし趙将軍、この女の息子は、まだ十一歳だというのです。此度の徴兵の基準は、十六歳以上の男子であったはず」
「でも、お役人さまは、十一歳ならばちょうどよいといって、連れて行きました。どうして、みんなして、あたしに嘘をつきなさるのですか? 治平は、あたしの大事な一人息子でございます。お殿さまのためならばと差し出しましたけれど、離れてみると、心配で心配で、夜も眠れませぬ。どうぞ、会わせてくださいまし」
趙雲はぎょっとした。
孔明によって、曹操の南下にそなえ、徴兵がおこなわれたのは事実であるが、その基準は十六歳以上の壮健な男子で、長男以外、というものであった。
十一歳の少年で、しかも一人息子を、徴兵などするわけがない。
趙雲は、門衛の長に命じて、農婦を城にいれてやった。
つづいて、徴兵を担当した者を捕まえて、至急、名簿のなかに、農婦の息子の治平の名前がないか調べさせた。
治平とやらが、少年らしい武器を持つ者への憧れで、年齢を詐称して、徴兵に応じた可能性がある。
だが、そうでないとすれば…
徴兵にまぎれて、人攫いが出没したのだ。
純朴な農民をだまし、子どもを連れ出して、奴隷商人に売り飛ばす、悪辣な連中だ。
もし人攫いが出たのならば、ほかにも被害にあった村があるはずだ。
※
「まさか人攫いとは、油断も隙もない世の中ですな、わたくしも、娘の銀輪をしばらく外に出さないことにいたします」
さわぎがひと段落したあと、やれやれ、と言いながら年寄りのようにおのれの肩を叩きつつ、ひょっこりと現われた副将の陳到が言った。
熱を出した銀輪の看病ゆえか、目の下に隈ができている。
陳到は趙雲と、ほぼ同年なのだが、所帯持ちのためか、ずいぶん老けて見えた。
「銀輪は、もうよいのか」
「おかげさまで、落ち着きました。ところで、昨日の模擬試合は、散々だったようですな」
「言うな、思い出したくない」
「はは、そう落ち込まれませぬよう。ところで、斐仁のやつが休みを取っておりますので、東の蔵の管理を代理でそれがしが受け持つことにいたしました」
ご確認を、と陳到が、東の蔵にある官給品の在庫をしらべた竹簡を差し出す。
「在庫の確認は、ただ在庫を数えるだけの仕事でありますが、あの蔵にまつわる怪談がはやっておりますので、みながかかわるのをいやがりましてな。まったく、迷信深い連中は、これだから困る。たしかに気持ちの悪い場所ではありますが、いやがっていたなら仕事が定時で終わらなくなってしまう」
「怪談とは、例の幽霊の話か」
「そうです。妓女を取り合った男たちが殺しあってはずみで火事になり、いちど蔵は焼けている。そのため、あの蔵には、火傷だらけの幽霊が出る、という。古参兵どもめ、ひまつぶしに新米を怪談話でからかったようでして。新米どもがすっかり震えあがって、ここにいるのはいやだ、早く出たいとみな騒ぎはじめたのです。これを鎮めるのに、在庫を数えるよりも時間がかかってしまいました」
「それはご苦労であったな。ところで、斐仁はなぜ、休んでいる?」
「本日は感冒で熱が出たので休むと斐仁の家の者が連絡して来ましたが。斐仁になにか?」
今日は引き籠もるつもりか?
それともまさか、逃げ出すつもりではなかろうな。
「叔至は、斐仁と親しかっただろうか。あいつについて、どう思う?」
「はあ、そうですな、金持ちですな」
「今朝、はじめてやつの家をみたが、ずいぶんと立派な屋敷に住んでおるな」
趙雲が水をむけると、噂好きの陳到は、身を乗り出して、話し出した。
「それだけではございませぬ」
部将のだれともうまくやっており、みなの集まる炉辺では、かならず隣で陳到が餅を焼いて噂話を収集しているといわれるほどの噂好き。
陳到は、きらりと目を輝かせ、日ごろの情報収集の成果を趙雲に披露しはじめた。
「やつめ、別宅に妾を囲っておるのです。あちこちから、珍しい華美なものを取り寄せて、妾をまるで宮女のように飾り立てているとか。うちの女房なども、妾はいやだが、きれいなものに囲まれているのは羨ましい、などと当てこすりを言ってきまして」
「斐仁は、なぜにそんなに金を持っているのだ?」
「さあて、なにせ親しい者がいないに等しい、人付き合いのわるい男ですから、くわしいことは判らないのですが、親戚の財産を譲り受けたという話ですが、まさか?」
「なんだ?」
「斐仁に、横領の疑いがかかっているのでは?」
「そうではない。ただ、気になることがある。叔至、すまぬが、口の固いのを数人選んで、斐仁の屋敷を見張らせておいてくれ。斐仁が屋敷を出るようなことがあったら、すぐに報せるように言ってくれ。もちろん、このことは内密に頼む」
「承知いたしました」
陳到はそう言うと、なにも聞こうとせずに、辞去した。
陳到は趙雲を尊敬しており、ほかの武将とは別格にあつかっているので、詮索好きの性分も、抑えられるのである。
つづく