※
「子龍、子龍!」
ふっと目を開けると、そこは兵舎の一角にある、おのれの寝室であった。
もちろん雨に打たれてはおらず、目の前にあるのは、小糠雨に沈黙する易京でもなければ、雨露にぬれた夏侯蘭の顔でもなかった。
「大事無いか。うなされていたぞ」
覗き込む顔は、まぎれもない、諸葛孔明のものである。
ああ、と短く答えて、趙雲は、寝台の上でみじろぎをした。
おのれを見下ろす孔明の顔が、すこしほころんだように見えたが、よく観察しようとじっと見ようとしたときには、表情の読めない顔にもどっていた。
いろんな顔を見てきたと思うが、これほどに特異な面貌はほかにない。
美を形容する言葉をすべて並べたところで、この顔をぴったり表現できるものはないのではないか。
華やかさと知性が見事に融合した顔だ。
それでいて軽薄さはない。
名は体をあらわす、のとおり、まばゆい光をそのまま形にしたような男だ。
観相家をつれてきて、じっくり観察させたら、どんな答が返ってくるのだろう。
こいつは、たとえ一国を滅ぼしたとしても、敵方の一族の遺体を辱めるような真似はしないだろうな、と思いつつ、趙雲は答えた。
「昔の夢を見ていただけだ」
「そうか。無理をして起きることはない。いま薬湯を淹れるからな」
孔明は言うと、薬湯の準備をしはじめた。
いそがしく動き回る孔明の気配を感じながら、趙雲は、しばらく寝台で、夢とうつつの間をさまよっていた。
質素というよりは、わざと何も置かないようにしている、必要最低限のものしかない部屋の、いつもの天井が見えている。
寝台と、水受けを置いておくための古ぼけた台と、書をしたためたり、あるいは書を読んだりするための机、茣蓙、蝋がこびりついた燭台、衣服をまとめてある箪笥。
見慣れた物のなかに、孔明がみずから持ち込んだらしい、螺鈿細工の施された文机があり、窓のそばに置いていた。
ところどころ塗料の剥げ落ちた花窓から、見事なまでに晴れあがり、さんさんと陽のこぼれる庭が見えた。
そのために、部屋の暗さが、いっそう際立った。
色あせた寝台の帳に、薬湯を片手に、花窓から外をうかがうようにしている、孔明の鶴のような細長い影が映っている。
身体のあちこちが痛む。そして重い。
熱があるのだな、と趙雲は思った。
「軍師」
「なんだ」
「なぜおれは、ここにいるのだ?」
「思い出す前に、これを飲め」
孔明は、淹れたばかりの薬湯をすすめてきた。
熱で体が思うようにならない趙雲のために、手を添えて、口に運ぶのを手伝おうとする。
趙雲はそれを拒み、みずから杯を手にとって、一気に薬湯を飲み干した。
ひどく不味かった。
「熱冷ましだ。おぼえているか、あなたは、高熱を発して倒れたのだ」
「ああ、そうか、そうだった」
いや、待て。それだけではないぞ。
肝心なことを忘れていないか。
「ちなみに言うなら、気を失ってから、半日が経っている。いまはもう昼だ。なにか食べるか?」
「そういう気分ではないな」
「そうか。わかった。ではそのまま聞け。もう少し休ませてやりたいところであるが、そうもいかぬ。思い出せる限りでよいから答えてくれ。あなたの部下の斐仁になにがあった?」
斐仁は、劉備にしたがって新野城に入ったおり、将兵に組み入れた男である。
計算が巧みで、兵への官品の支給をまかせていた。
もとは江夏郡の出身で、将兵というよりは、鎧を着た文官、といったほうが似合うような、仕事のよくできる、きびきびした男であった。
あまりおのれのことは、しゃべらぬ男なのであるが、いつだったか身内の酒宴の際に、家に帰ると子どもが沢山待っていて、養うのがたいへんだと笑っていた。
むやみに人を殺すような男ではなかった。
「いまは、昼なのか!」
がばり、と趙雲が起き上がっても、孔明は予想していたのか、驚かずに淡々と答える。
「そうだ」
「そうだ、ではない。なぜ起こさなかった! 襄陽はどうなっている? 劉州牧(劉表)は?」
必死の形相の趙雲を、孔明のつめたい眼差しが押しもどした。
「落ち着け。いまこの部屋を出ることは許さぬぞ。いま、わが君が伊機伯どのとお話をしておられる。あなたが出る幕はない。大人しくしているがいい」
「伊機伯」
呑み込めない薬をなんども舌の上で転がすようにその名を言って、趙雲は思い出していた。
伊籍、あざなを機伯は、謹厳実直な男で、劉表が後継者を決めあぐねているのにたびたび直言している人物でもある。
かれは、長子の劉埼を推す一派のかしらも務めていた。
と同時に、かれは劉備も慕い、たびたびこの新野にも顔を出していた。
いわば、劉備と劉琦の連絡係でもある。
その男と最後に会ったのは、そうだ、襄陽へ行く途中の道だった。
かれもめちゃくちゃに急いで新野に向かっているところで、逆方向からやってきた趙雲に会うなり、言ったのだ。
面倒が起こった、劉公子が危ない、と。
「機伯どのもかなり気が動転していらして、話に要領を得ない。わが君が話を聞きだしているあいだ、わたしはあなたの話を聞くという手はずだ」
孔明の言葉が、うまく頭に入ってこない。
それをわかっているのか、孔明は、帳を払って近づいてくると、起き上がろうとした趙雲を、やんわりと押しもどし、布団をかける。
「まだ熱があるのだ。混乱しているのはわかる。だが、なぜこのような事態になったのかは、思い出せるであろう?」
「うむ」
「そのままでよい。つまらぬことでもよいから片っ端から思い出して、わたしに話せ」
しかし、と、かけられた布団を除けて、ふたたび起き上がろうとする趙雲に、孔明は目を細めて言った。
「そのような弱弱しい身体で、どこへ行くつもりだ。更衣ならば人を呼ぶが」
「たかがこれしきの熱で寝ていられるか! わが君の警護はどうなっている? そしておまえは、なぜわが君についていないのだ。伊機伯に害意があったらどうするつもりだ!」
「わが君の警護は、関羽どのが取り仕切っておられる。刺客が百人あつまっても、わが君にかすり傷ひとつつけることも出来ぬであろうよ。
それと、わたしがここにいる理由だが、肝心なときに昏倒したきり、必要な情報を教えることなく、ひたすらに眠りこけていた男から、情報を引き出すためだ」
趙雲は言葉につまった。
孔明は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべると、畳み掛けた。
「ついでに言うならば、あなたはわたしの主騎であろう。そんなにふらふらした様子で外に出て、わたしを守れるか?」
「それは」
「無理だろう。わかったなら観念して横になれ。ついでに言うならば、子龍、これは質問ではない」
と、孔明は、ふざけた笑みを完全にひっこめて、真摯な眼差しをぶつけてきた。
「尋問だ。嘘偽りなく答えよ。話の順序もどうでもよい。思いついたことを、ありのまま、正直に話すのだ。わたしに判るように話そうなどと、余計な気は回すな。話をまとめるのは、わたしがやる」
と、孔明は、文机のうえに、文字を書き付けられるのを待っている竹簡を広げた。
つづく
「子龍、子龍!」
ふっと目を開けると、そこは兵舎の一角にある、おのれの寝室であった。
もちろん雨に打たれてはおらず、目の前にあるのは、小糠雨に沈黙する易京でもなければ、雨露にぬれた夏侯蘭の顔でもなかった。
「大事無いか。うなされていたぞ」
覗き込む顔は、まぎれもない、諸葛孔明のものである。
ああ、と短く答えて、趙雲は、寝台の上でみじろぎをした。
おのれを見下ろす孔明の顔が、すこしほころんだように見えたが、よく観察しようとじっと見ようとしたときには、表情の読めない顔にもどっていた。
いろんな顔を見てきたと思うが、これほどに特異な面貌はほかにない。
美を形容する言葉をすべて並べたところで、この顔をぴったり表現できるものはないのではないか。
華やかさと知性が見事に融合した顔だ。
それでいて軽薄さはない。
名は体をあらわす、のとおり、まばゆい光をそのまま形にしたような男だ。
観相家をつれてきて、じっくり観察させたら、どんな答が返ってくるのだろう。
こいつは、たとえ一国を滅ぼしたとしても、敵方の一族の遺体を辱めるような真似はしないだろうな、と思いつつ、趙雲は答えた。
「昔の夢を見ていただけだ」
「そうか。無理をして起きることはない。いま薬湯を淹れるからな」
孔明は言うと、薬湯の準備をしはじめた。
いそがしく動き回る孔明の気配を感じながら、趙雲は、しばらく寝台で、夢とうつつの間をさまよっていた。
質素というよりは、わざと何も置かないようにしている、必要最低限のものしかない部屋の、いつもの天井が見えている。
寝台と、水受けを置いておくための古ぼけた台と、書をしたためたり、あるいは書を読んだりするための机、茣蓙、蝋がこびりついた燭台、衣服をまとめてある箪笥。
見慣れた物のなかに、孔明がみずから持ち込んだらしい、螺鈿細工の施された文机があり、窓のそばに置いていた。
ところどころ塗料の剥げ落ちた花窓から、見事なまでに晴れあがり、さんさんと陽のこぼれる庭が見えた。
そのために、部屋の暗さが、いっそう際立った。
色あせた寝台の帳に、薬湯を片手に、花窓から外をうかがうようにしている、孔明の鶴のような細長い影が映っている。
身体のあちこちが痛む。そして重い。
熱があるのだな、と趙雲は思った。
「軍師」
「なんだ」
「なぜおれは、ここにいるのだ?」
「思い出す前に、これを飲め」
孔明は、淹れたばかりの薬湯をすすめてきた。
熱で体が思うようにならない趙雲のために、手を添えて、口に運ぶのを手伝おうとする。
趙雲はそれを拒み、みずから杯を手にとって、一気に薬湯を飲み干した。
ひどく不味かった。
「熱冷ましだ。おぼえているか、あなたは、高熱を発して倒れたのだ」
「ああ、そうか、そうだった」
いや、待て。それだけではないぞ。
肝心なことを忘れていないか。
「ちなみに言うなら、気を失ってから、半日が経っている。いまはもう昼だ。なにか食べるか?」
「そういう気分ではないな」
「そうか。わかった。ではそのまま聞け。もう少し休ませてやりたいところであるが、そうもいかぬ。思い出せる限りでよいから答えてくれ。あなたの部下の斐仁になにがあった?」
斐仁は、劉備にしたがって新野城に入ったおり、将兵に組み入れた男である。
計算が巧みで、兵への官品の支給をまかせていた。
もとは江夏郡の出身で、将兵というよりは、鎧を着た文官、といったほうが似合うような、仕事のよくできる、きびきびした男であった。
あまりおのれのことは、しゃべらぬ男なのであるが、いつだったか身内の酒宴の際に、家に帰ると子どもが沢山待っていて、養うのがたいへんだと笑っていた。
むやみに人を殺すような男ではなかった。
「いまは、昼なのか!」
がばり、と趙雲が起き上がっても、孔明は予想していたのか、驚かずに淡々と答える。
「そうだ」
「そうだ、ではない。なぜ起こさなかった! 襄陽はどうなっている? 劉州牧(劉表)は?」
必死の形相の趙雲を、孔明のつめたい眼差しが押しもどした。
「落ち着け。いまこの部屋を出ることは許さぬぞ。いま、わが君が伊機伯どのとお話をしておられる。あなたが出る幕はない。大人しくしているがいい」
「伊機伯」
呑み込めない薬をなんども舌の上で転がすようにその名を言って、趙雲は思い出していた。
伊籍、あざなを機伯は、謹厳実直な男で、劉表が後継者を決めあぐねているのにたびたび直言している人物でもある。
かれは、長子の劉埼を推す一派のかしらも務めていた。
と同時に、かれは劉備も慕い、たびたびこの新野にも顔を出していた。
いわば、劉備と劉琦の連絡係でもある。
その男と最後に会ったのは、そうだ、襄陽へ行く途中の道だった。
かれもめちゃくちゃに急いで新野に向かっているところで、逆方向からやってきた趙雲に会うなり、言ったのだ。
面倒が起こった、劉公子が危ない、と。
「機伯どのもかなり気が動転していらして、話に要領を得ない。わが君が話を聞きだしているあいだ、わたしはあなたの話を聞くという手はずだ」
孔明の言葉が、うまく頭に入ってこない。
それをわかっているのか、孔明は、帳を払って近づいてくると、起き上がろうとした趙雲を、やんわりと押しもどし、布団をかける。
「まだ熱があるのだ。混乱しているのはわかる。だが、なぜこのような事態になったのかは、思い出せるであろう?」
「うむ」
「そのままでよい。つまらぬことでもよいから片っ端から思い出して、わたしに話せ」
しかし、と、かけられた布団を除けて、ふたたび起き上がろうとする趙雲に、孔明は目を細めて言った。
「そのような弱弱しい身体で、どこへ行くつもりだ。更衣ならば人を呼ぶが」
「たかがこれしきの熱で寝ていられるか! わが君の警護はどうなっている? そしておまえは、なぜわが君についていないのだ。伊機伯に害意があったらどうするつもりだ!」
「わが君の警護は、関羽どのが取り仕切っておられる。刺客が百人あつまっても、わが君にかすり傷ひとつつけることも出来ぬであろうよ。
それと、わたしがここにいる理由だが、肝心なときに昏倒したきり、必要な情報を教えることなく、ひたすらに眠りこけていた男から、情報を引き出すためだ」
趙雲は言葉につまった。
孔明は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべると、畳み掛けた。
「ついでに言うならば、あなたはわたしの主騎であろう。そんなにふらふらした様子で外に出て、わたしを守れるか?」
「それは」
「無理だろう。わかったなら観念して横になれ。ついでに言うならば、子龍、これは質問ではない」
と、孔明は、ふざけた笑みを完全にひっこめて、真摯な眼差しをぶつけてきた。
「尋問だ。嘘偽りなく答えよ。話の順序もどうでもよい。思いついたことを、ありのまま、正直に話すのだ。わたしに判るように話そうなどと、余計な気は回すな。話をまとめるのは、わたしがやる」
と、孔明は、文机のうえに、文字を書き付けられるのを待っている竹簡を広げた。
つづく