※
「初日から葬式、つづいてその手伝い。そして今日で三日目。梓潼にすら辿りつけてない。先が思いやられる」
「ああ」
「しかしこの天気。まるで死者の魂が、この世の名残に、なんの邪魔もされずに大地を見渡せるようにと、天がねぎらいの意味もこめて、晴天をめぐんでくれたようではないか。
最初はどうなることかと思ったけれど、近在の家が総出で葬式を手伝ってくれた。わたしたちは、むしろ邪魔なほどだったな。面倒見のよい夫婦だったようだな。あなたの印象も良かったのだろう?」
「そうだな。夭折した子供、といっても、生きていれば俺くらいだったようだが、泊り客が自分たちの子供に見えると言って、まめに世話をしてくれた」
「おや、元気のない。めずらしいな。あなたがここまで落ち込むとなると、よほどいい夫婦だったのだろうな」
「いや、俺が落ち込んでいるのは、ふたりのもてなしが良かったからというだけではない。あのふたり、俺が見つけたときには、手をつないで折り重なって死んでいた」
「へえ、死ぬ時も一緒とは、よほど仲のよい夫婦だったのだな……なぜため息をつく」
「なんでだろう。純粋に気の毒だと思う気持ちよりも、苛立ちにちかい気持ちがある。こういうと、おまえは軽蔑するかな」
「軽蔑なんぞするものか。なぜそう思う」
「これは、羨望なのかもしれないな。共に生き、そして同日に死にたい、取り残されるのは嫌だと、想いあった相手ならば、そう思うものだろう?」
「そういう話題をわたしに振るかね。まあ、そうじゃないのかな。あなたが昔に付き合ってきた女たちは、そう言っていたのか」
「だいたいは言っていたな。それこそ、戯言だったのかもしれないが、そうでしょうと返事をうながされると、不思議と、俺もそう思うということばが出てこない。とても大事な約束だろう。軽々しくそうだと言うのがためらわれたのだ」
「子龍、たぶん、わたしが思うに、それは女からの、一種の求婚だったのではないだろうか」
「やはり、そうか」
「なんだ、気づいていたのか。たぶん女としては、一緒になってくれと、なかなか言わないあなたに、そういった話題を向けることで、『おまえと共に生き、共に死にたい、だから夫婦になろう』ということばを引き出せるかもしれないと、期待していたのさ。あなたは、なにも答えなかったのか」
「ああそうだ。ひどいことをしたな。恥をかかせてしまったのだからな。おかげで朴念仁だの鈍感だの冷淡だのとさんざん言われたが、罵倒されて当然だ。
そうはいっても、俺は今日まで、そんなことを思い出しもしなかったのだから、余計に救いようのない男だな」
「あの夫婦を見て、思い出したのか」
「ああ。よく知っている夫婦というわけではないが、仲がよかったのはほんとうだ。共にいたいという願いが天にとどいて、共に死ねたのかな。しあわせな夫婦だ。
子供をつぎつぎと亡くしたと言っていたけれど、それでも、血のつながりのない者たちに、あそこまで涙を流してもらえるのだ。みのりの多い人生だったのではないだろうか」
「ふむ、ほんとうにそう思うか」
「どういうことだ」
「いや、葬式に集まっていた者たちが話していたのを聞いたのだがね、あの夫婦、たしかに仲むつまじい夫婦だったようだが、それもここ数年のことで、以前は、夫のほうが、女癖がわるくて大変だったらしい。いつも妻のほうは、泣いてばかりいたそうだよ」
「ほんとうか?」
「ふつう、葬式となると、故人に遠慮して、あまりあけすけな話はしないものだろう。それなのに、そういった話題が次から次へと出てきたわけだよ。
例によって、あなたはかいがいしく、喪主の手伝いをひたすらしていたから、聞かなかったのだろう。いやはや、あなたはなんでもできる人だ。感心する」
「感心してくれるのはうれしいが、話が逸れているぞ。あの夫婦に、そんな過去があるとは思わなかった」
「こんな話を聞けたのも、話手のほうに、わたしがよそ者だからという安心感もあったのかもしれない。
奥方はよく我慢していたとか、家が傾いた原因も、夫の若い時の放埓さが原因だとか、いろいろとね。
それでも数々の坂を乗り越えて、夫婦仲が円満になったのは、子どもたちが次々と死んでしまってからで、それで夫も改心したらしい」
「そうだったか…」
「最初から最後までしあわせだったわけではなかった。懸命に手探りで、自分たちの幸福を探しつづけた夫婦だったのだろう。
でも、子龍、あなたの気持ちもわかる。わたしには、きっとかれらの気持ちは、おそらく一生涯わからないだろうから」
「まだおまえは若いだろう。状況が変わることだってあるかもしれない」
「変わらないよ。いや、変えることはしない。だから、あなたがそんな落ち込むことはない」
「うん? いや、そういう意味で落ち込んでいたわけではないのだが」
「そうか? ならばいいが」
「おまえ、なんだか成都から離れているうえに、ほかにだれもいないからといって、大胆に過ぎやしないか」
「それは、これがわたしなのだから、仕方がない。それに、あなたがそこまで落ち込んでいるのは、自分のことばかりではないだろう」
「なぜわかる」
「あなたがいま、何を考えているか当てようか。『俺の親が、あんなふうだったら、俺の人生はどうなっていたかな』だ。そうだろう……おや、黙り込んだな。その顔は図星だ」
「いちいち指摘するな」
「つっけんどんにしてもだめだ。そんなふうに、あなたのどんよりした横顔を見ながら歩くのは、こちらとしても辛いから言うのだよ」
「と、いいつつ、なぜ後退する」
「いまから言うことばは、場合によっちゃ、あなたの手の届く範囲のところにいると、ぶん殴られる可能性があるからさ」
「俺は、おまえを殴ったことはないだろう」
「『気つけ』の意味で何度かあるぞ」
「あれは例外だ。ともかく、そこまで警戒するなら、かえっておもしろい。なにを言いたい。言ってみろ」
「なんだろう、その挑戦的な笑みは。怖いぞ、ふつうに戻れ」
「ほら、戻したぞ。言ってみろ」
「……それなら言うが、これでヘソを曲げて成都に帰ったりしないな?」
「言葉による」
「なんだか、言いたくなくなってきたな」
「でも、おまえは言うだろう」
「そうなのだ。なんだか言わないといけない気がする。あの夫婦を見て、あなたは、自分の両親をどうしても思い出したのだろう。
あなたの両親と、そして兄上たちのことを。ちがうかな」
「そうだな。思い出したな」
「子龍、とても無責任に聞こえてしまったら申し訳ないのだが、そんなふうに、自分を過去に縛りつけるのはやめないか。
何度も言っているじゃないか。あなたは、わたしからすれば、びっくりするくらい、自分を低い位置に持っていこうとする、悪い癖がある。
まるで、そうすることで、自分を罰しているみたいだ。本当は、それではいけないと、ちゃんとわかっているのだろう」
「……………」
「あなたがいま抱えている悩みや苦しみは、たしかにあなたの実家の環境や生い立ちに起因しているのかもしれない。けれど、それは、あなたのせいではないのだよ。
そんなに苦しまなくてもいい。あなたは、なにも悪くないのだから」
「悪くないということはなかろう」
「なぜ」
「本来ならば孝をつくさねばならぬ親兄弟を憎み、そのうえ捨てたというのに、それが許されるだろうか」
「それを言うなら、わたしも一緒だよ。いや、わたしのほうが悪い。家長として育てられながら、長兄と対立し、そのうえ、本来ならばしなければならない『血を残す』ことをしないでいる。
おそらく、わたしは、自分の血を残すことは、これから先もないだろう。そういうわたしでさえも、こうして図々しくも元気に生きている。
自分を責めるくらいなら、わたしを軽蔑するがいい」
「ずいぶんと自虐的な励ましだな。俺がおまえを軽蔑したりできると思うか」
「していいぞ。さあ、どんどんしたまえ」
「戯言を。おまえは、ほんとうに、俺がいままで会ったなかで、いちばん変なやつだ」
「それは誉めことばだな」
「変なやつと言われることが、誉めことばか?」
「いちばん変ということは、いちばん特別に見えている、ということではないか。いまのは、あえていい意味で受け取る。はは、なんだかうれしくなってきた」
「能天気なやつだな」
「いまのは照れ隠しだな」
「なにを言っても、上向きに考えるおまえがすごいと、心から思う」
「おやおや、賛辞をありがとう。さて、あなたの気持ちも、すこし上向いたかな。
話ついでに言うけれど、あなたが公孫瓚のもとから去ったあと、ずっと常山真定の家に留まったとして、それで、あなたは満足したかな。むしろ、いまよりずっと後悔しているかもしれないぞ」
「なぜ。主公の家臣に加えていただけなかったからか」
「それもあるけれど、常山真定に引きこもっていたら、わたしという人間に会うことがないままの生涯になる可能性があったからだ。
なんという不幸だろう。想像もできぬ」
「すまん。悪く取らないで欲しいが、俺はあっさりと想像できてしまう。俺は、やっぱりどこからか妻をもらって、子どもを儲けて、長兄の手伝いをしながら、廃れかけている家門をなんとかしようと、躍起になっていただろう」
「うむ、いまのは上向きに考えるのはむずかしいな。いささか傷ついた」
「だから、うまく言えないが、なんというかな、つまらない毎日だから、簡単に想像がついてしまうのだ。
俺は楽しい想像はできない。おまえは逆に、つまらない想像はできないだろう」
「うむ、言われてみれば、わたしの想像はいつも楽しい。新しい発見だ。あなたはいつも、わたしの知らないわたしの美点を見つけてくれる」
「また、よせというのに」
「成都で言えないから、いま言うのさ。やはり旅はいいな。のびのびできるから」
「まったく。しかし、新野にいたときが嘘のようだな。まさかおまえが、これほどに俺になつくとは、夢にも思っていなかった」
「なつくだなんて、どうぶつみたいに」
「不貞腐れるなというのに。ほら、これをやろう」
「なんだ、唐突に。これは、石? 薄桃色の玉石ではないか。めずらしいな」
「葬式を手伝った礼にもらった」
「へえ、卵のような形をしている。こんなに美しいのに、面白いな、なにか細工を施そうとした痕があるが、途中でやめたらしい。
この亀裂のような傷さえなかったら、もっとよかったのに。
でも、細工を途中でやめた気持ちもわかる。たしかに、これだけきれいな石だもの。下手に手を加えないほうがいい。
それにしても、これは高いぞ。手伝っただけだというのに、なぜもらえたのだ」
「死んだ老夫婦は、たがいに手を握り合って死んでいた。あまり時間が経つと硬直がひどくなり、二人を離すことがむずかしくなると思ったので、おれが手を分けたのだが、その掌から、これがでてきた。
見るからに高価そうだし、遠縁の遠縁という男に、事情を話して、渡そうとしたら、断られたのだ」
「へえ、なぜ? 大切なものだからこそ、石を握りしめていたのではないのかな」
「そこがよくわからん。遠縁の遠縁が言うには、その石はただの飾り物ではなくて、なにかの証だったそうなんだ。奥方がとても大切にしていたものだという。
ならば、なおさら、形見になるだろうと思ったのだが、どうしてもいやだというのだ。この石は、奥方がどこからか貰ってきて、いつも肌身離さず持っていたものらしい。
そのせいかはわからないが、いろいろと奇妙なことがあって、家にのこすと不吉な気がするし、かといって一緒に墓に入れるのもどうかと思うので、持って行って、適当なところで捨ててくれないかというのだ。けれど、捨てるのも惜しい。
おまえなら、これを持っていても、なぜだか問題ない気がする」
「気になる話だな。この石に、奇妙なことって?」
「触ってみて、おかしいと思わないか。その石には、熱がある。まるで本物の卵のようだから、嫌なのだと」
「ああ、もしかして、葬式のときにきいた、あの話かな。
奥方が、行き倒れになりかけていた旅の者に親切にしてやったら、そのお礼にお守りをもらった。そのお守りの効果があったから、夫は戻ってきたが、しかし家門は傾いてしまったうえに、家も絶えてしまったわけだから、あまりお守りの意味はなかったようだと。
そういえば、奥方は、旅に出たいとずっと言っていたそうだよ。なぜだろうね」
「さあ。それは聞いたことがなかったな。
で、嫌な感じはするか? ならば、あの男が言っていたとおり、どこかで適当に捨てるが」
「これに、嫌な感じはしないけれど、なぜだろう、たしかに掌にずっと持っていたからというだけの温かさではないな。ほんとうに卵かもしれないぞ」
「なにが生まれるというのだ」
「さて、わからないけれど、すこし持ってみよう。危険な感覚が兆したら、すぐに捨てればいいだろう。
面白いものをもらったな。これだから、旅はおもしろい」
「おまえ、不安とかないのか」
「なぜ? あなたが同行しているのに不安の要素がどこにある」
「……………もういい」
つづく……
「初日から葬式、つづいてその手伝い。そして今日で三日目。梓潼にすら辿りつけてない。先が思いやられる」
「ああ」
「しかしこの天気。まるで死者の魂が、この世の名残に、なんの邪魔もされずに大地を見渡せるようにと、天がねぎらいの意味もこめて、晴天をめぐんでくれたようではないか。
最初はどうなることかと思ったけれど、近在の家が総出で葬式を手伝ってくれた。わたしたちは、むしろ邪魔なほどだったな。面倒見のよい夫婦だったようだな。あなたの印象も良かったのだろう?」
「そうだな。夭折した子供、といっても、生きていれば俺くらいだったようだが、泊り客が自分たちの子供に見えると言って、まめに世話をしてくれた」
「おや、元気のない。めずらしいな。あなたがここまで落ち込むとなると、よほどいい夫婦だったのだろうな」
「いや、俺が落ち込んでいるのは、ふたりのもてなしが良かったからというだけではない。あのふたり、俺が見つけたときには、手をつないで折り重なって死んでいた」
「へえ、死ぬ時も一緒とは、よほど仲のよい夫婦だったのだな……なぜため息をつく」
「なんでだろう。純粋に気の毒だと思う気持ちよりも、苛立ちにちかい気持ちがある。こういうと、おまえは軽蔑するかな」
「軽蔑なんぞするものか。なぜそう思う」
「これは、羨望なのかもしれないな。共に生き、そして同日に死にたい、取り残されるのは嫌だと、想いあった相手ならば、そう思うものだろう?」
「そういう話題をわたしに振るかね。まあ、そうじゃないのかな。あなたが昔に付き合ってきた女たちは、そう言っていたのか」
「だいたいは言っていたな。それこそ、戯言だったのかもしれないが、そうでしょうと返事をうながされると、不思議と、俺もそう思うということばが出てこない。とても大事な約束だろう。軽々しくそうだと言うのがためらわれたのだ」
「子龍、たぶん、わたしが思うに、それは女からの、一種の求婚だったのではないだろうか」
「やはり、そうか」
「なんだ、気づいていたのか。たぶん女としては、一緒になってくれと、なかなか言わないあなたに、そういった話題を向けることで、『おまえと共に生き、共に死にたい、だから夫婦になろう』ということばを引き出せるかもしれないと、期待していたのさ。あなたは、なにも答えなかったのか」
「ああそうだ。ひどいことをしたな。恥をかかせてしまったのだからな。おかげで朴念仁だの鈍感だの冷淡だのとさんざん言われたが、罵倒されて当然だ。
そうはいっても、俺は今日まで、そんなことを思い出しもしなかったのだから、余計に救いようのない男だな」
「あの夫婦を見て、思い出したのか」
「ああ。よく知っている夫婦というわけではないが、仲がよかったのはほんとうだ。共にいたいという願いが天にとどいて、共に死ねたのかな。しあわせな夫婦だ。
子供をつぎつぎと亡くしたと言っていたけれど、それでも、血のつながりのない者たちに、あそこまで涙を流してもらえるのだ。みのりの多い人生だったのではないだろうか」
「ふむ、ほんとうにそう思うか」
「どういうことだ」
「いや、葬式に集まっていた者たちが話していたのを聞いたのだがね、あの夫婦、たしかに仲むつまじい夫婦だったようだが、それもここ数年のことで、以前は、夫のほうが、女癖がわるくて大変だったらしい。いつも妻のほうは、泣いてばかりいたそうだよ」
「ほんとうか?」
「ふつう、葬式となると、故人に遠慮して、あまりあけすけな話はしないものだろう。それなのに、そういった話題が次から次へと出てきたわけだよ。
例によって、あなたはかいがいしく、喪主の手伝いをひたすらしていたから、聞かなかったのだろう。いやはや、あなたはなんでもできる人だ。感心する」
「感心してくれるのはうれしいが、話が逸れているぞ。あの夫婦に、そんな過去があるとは思わなかった」
「こんな話を聞けたのも、話手のほうに、わたしがよそ者だからという安心感もあったのかもしれない。
奥方はよく我慢していたとか、家が傾いた原因も、夫の若い時の放埓さが原因だとか、いろいろとね。
それでも数々の坂を乗り越えて、夫婦仲が円満になったのは、子どもたちが次々と死んでしまってからで、それで夫も改心したらしい」
「そうだったか…」
「最初から最後までしあわせだったわけではなかった。懸命に手探りで、自分たちの幸福を探しつづけた夫婦だったのだろう。
でも、子龍、あなたの気持ちもわかる。わたしには、きっとかれらの気持ちは、おそらく一生涯わからないだろうから」
「まだおまえは若いだろう。状況が変わることだってあるかもしれない」
「変わらないよ。いや、変えることはしない。だから、あなたがそんな落ち込むことはない」
「うん? いや、そういう意味で落ち込んでいたわけではないのだが」
「そうか? ならばいいが」
「おまえ、なんだか成都から離れているうえに、ほかにだれもいないからといって、大胆に過ぎやしないか」
「それは、これがわたしなのだから、仕方がない。それに、あなたがそこまで落ち込んでいるのは、自分のことばかりではないだろう」
「なぜわかる」
「あなたがいま、何を考えているか当てようか。『俺の親が、あんなふうだったら、俺の人生はどうなっていたかな』だ。そうだろう……おや、黙り込んだな。その顔は図星だ」
「いちいち指摘するな」
「つっけんどんにしてもだめだ。そんなふうに、あなたのどんよりした横顔を見ながら歩くのは、こちらとしても辛いから言うのだよ」
「と、いいつつ、なぜ後退する」
「いまから言うことばは、場合によっちゃ、あなたの手の届く範囲のところにいると、ぶん殴られる可能性があるからさ」
「俺は、おまえを殴ったことはないだろう」
「『気つけ』の意味で何度かあるぞ」
「あれは例外だ。ともかく、そこまで警戒するなら、かえっておもしろい。なにを言いたい。言ってみろ」
「なんだろう、その挑戦的な笑みは。怖いぞ、ふつうに戻れ」
「ほら、戻したぞ。言ってみろ」
「……それなら言うが、これでヘソを曲げて成都に帰ったりしないな?」
「言葉による」
「なんだか、言いたくなくなってきたな」
「でも、おまえは言うだろう」
「そうなのだ。なんだか言わないといけない気がする。あの夫婦を見て、あなたは、自分の両親をどうしても思い出したのだろう。
あなたの両親と、そして兄上たちのことを。ちがうかな」
「そうだな。思い出したな」
「子龍、とても無責任に聞こえてしまったら申し訳ないのだが、そんなふうに、自分を過去に縛りつけるのはやめないか。
何度も言っているじゃないか。あなたは、わたしからすれば、びっくりするくらい、自分を低い位置に持っていこうとする、悪い癖がある。
まるで、そうすることで、自分を罰しているみたいだ。本当は、それではいけないと、ちゃんとわかっているのだろう」
「……………」
「あなたがいま抱えている悩みや苦しみは、たしかにあなたの実家の環境や生い立ちに起因しているのかもしれない。けれど、それは、あなたのせいではないのだよ。
そんなに苦しまなくてもいい。あなたは、なにも悪くないのだから」
「悪くないということはなかろう」
「なぜ」
「本来ならば孝をつくさねばならぬ親兄弟を憎み、そのうえ捨てたというのに、それが許されるだろうか」
「それを言うなら、わたしも一緒だよ。いや、わたしのほうが悪い。家長として育てられながら、長兄と対立し、そのうえ、本来ならばしなければならない『血を残す』ことをしないでいる。
おそらく、わたしは、自分の血を残すことは、これから先もないだろう。そういうわたしでさえも、こうして図々しくも元気に生きている。
自分を責めるくらいなら、わたしを軽蔑するがいい」
「ずいぶんと自虐的な励ましだな。俺がおまえを軽蔑したりできると思うか」
「していいぞ。さあ、どんどんしたまえ」
「戯言を。おまえは、ほんとうに、俺がいままで会ったなかで、いちばん変なやつだ」
「それは誉めことばだな」
「変なやつと言われることが、誉めことばか?」
「いちばん変ということは、いちばん特別に見えている、ということではないか。いまのは、あえていい意味で受け取る。はは、なんだかうれしくなってきた」
「能天気なやつだな」
「いまのは照れ隠しだな」
「なにを言っても、上向きに考えるおまえがすごいと、心から思う」
「おやおや、賛辞をありがとう。さて、あなたの気持ちも、すこし上向いたかな。
話ついでに言うけれど、あなたが公孫瓚のもとから去ったあと、ずっと常山真定の家に留まったとして、それで、あなたは満足したかな。むしろ、いまよりずっと後悔しているかもしれないぞ」
「なぜ。主公の家臣に加えていただけなかったからか」
「それもあるけれど、常山真定に引きこもっていたら、わたしという人間に会うことがないままの生涯になる可能性があったからだ。
なんという不幸だろう。想像もできぬ」
「すまん。悪く取らないで欲しいが、俺はあっさりと想像できてしまう。俺は、やっぱりどこからか妻をもらって、子どもを儲けて、長兄の手伝いをしながら、廃れかけている家門をなんとかしようと、躍起になっていただろう」
「うむ、いまのは上向きに考えるのはむずかしいな。いささか傷ついた」
「だから、うまく言えないが、なんというかな、つまらない毎日だから、簡単に想像がついてしまうのだ。
俺は楽しい想像はできない。おまえは逆に、つまらない想像はできないだろう」
「うむ、言われてみれば、わたしの想像はいつも楽しい。新しい発見だ。あなたはいつも、わたしの知らないわたしの美点を見つけてくれる」
「また、よせというのに」
「成都で言えないから、いま言うのさ。やはり旅はいいな。のびのびできるから」
「まったく。しかし、新野にいたときが嘘のようだな。まさかおまえが、これほどに俺になつくとは、夢にも思っていなかった」
「なつくだなんて、どうぶつみたいに」
「不貞腐れるなというのに。ほら、これをやろう」
「なんだ、唐突に。これは、石? 薄桃色の玉石ではないか。めずらしいな」
「葬式を手伝った礼にもらった」
「へえ、卵のような形をしている。こんなに美しいのに、面白いな、なにか細工を施そうとした痕があるが、途中でやめたらしい。
この亀裂のような傷さえなかったら、もっとよかったのに。
でも、細工を途中でやめた気持ちもわかる。たしかに、これだけきれいな石だもの。下手に手を加えないほうがいい。
それにしても、これは高いぞ。手伝っただけだというのに、なぜもらえたのだ」
「死んだ老夫婦は、たがいに手を握り合って死んでいた。あまり時間が経つと硬直がひどくなり、二人を離すことがむずかしくなると思ったので、おれが手を分けたのだが、その掌から、これがでてきた。
見るからに高価そうだし、遠縁の遠縁という男に、事情を話して、渡そうとしたら、断られたのだ」
「へえ、なぜ? 大切なものだからこそ、石を握りしめていたのではないのかな」
「そこがよくわからん。遠縁の遠縁が言うには、その石はただの飾り物ではなくて、なにかの証だったそうなんだ。奥方がとても大切にしていたものだという。
ならば、なおさら、形見になるだろうと思ったのだが、どうしてもいやだというのだ。この石は、奥方がどこからか貰ってきて、いつも肌身離さず持っていたものらしい。
そのせいかはわからないが、いろいろと奇妙なことがあって、家にのこすと不吉な気がするし、かといって一緒に墓に入れるのもどうかと思うので、持って行って、適当なところで捨ててくれないかというのだ。けれど、捨てるのも惜しい。
おまえなら、これを持っていても、なぜだか問題ない気がする」
「気になる話だな。この石に、奇妙なことって?」
「触ってみて、おかしいと思わないか。その石には、熱がある。まるで本物の卵のようだから、嫌なのだと」
「ああ、もしかして、葬式のときにきいた、あの話かな。
奥方が、行き倒れになりかけていた旅の者に親切にしてやったら、そのお礼にお守りをもらった。そのお守りの効果があったから、夫は戻ってきたが、しかし家門は傾いてしまったうえに、家も絶えてしまったわけだから、あまりお守りの意味はなかったようだと。
そういえば、奥方は、旅に出たいとずっと言っていたそうだよ。なぜだろうね」
「さあ。それは聞いたことがなかったな。
で、嫌な感じはするか? ならば、あの男が言っていたとおり、どこかで適当に捨てるが」
「これに、嫌な感じはしないけれど、なぜだろう、たしかに掌にずっと持っていたからというだけの温かさではないな。ほんとうに卵かもしれないぞ」
「なにが生まれるというのだ」
「さて、わからないけれど、すこし持ってみよう。危険な感覚が兆したら、すぐに捨てればいいだろう。
面白いものをもらったな。これだから、旅はおもしろい」
「おまえ、不安とかないのか」
「なぜ? あなたが同行しているのに不安の要素がどこにある」
「……………もういい」
つづく……