※
成都から任地たる臨沮に帰る前日、馬超は思い立ち、もう一度だけ、あの山に登ってみようと思った。
任地に戻っても、いまの心を忘れないように、あの山で終わりにしないために、しっかりと、あの風景を目におさめておきたかった。
そうして、久しぶりに見る断崖絶壁と、屏風のようにつらなる切り立った崖のおもしろさは、やはり変わらぬものであった。
こうして、この大地は、この身が朽ちたあとも、変わらず、ここにこうしてあるのだろう。
馬超は、けじめや逃避としての『死』ではなく、人の生活のその果てにある『死』というものを、意識するようになっていた。
そして、その日が来たなら、きっと穏やかに受け入れられるであろう自分にも、気がついていた。
目を閉じると、風の音が聞こえる。
轟々とうなり、吹きつけてくる風の音。
いまやなつかしい光景となった、草原を渡る風の音に、やはりよく似ている。
けれど、わたしはもう、おまえたちの元には戻れないのだよと、馬超は心の中でつぶやいた。
あの青い玻璃の子馬と同じように、わたしの足は折れてしまった。
おまえたちとは一緒に走ることは、もうできないのだ。許してくれ。
そうして、目を開く馬超の耳に、さくさくと、青草を踏み分けてやってくる足音が聞こえてきた。
まさか。
思わぬことに振り返れば、やはり、杖を頼りにして山をのぼってきた、青翠であった。
馬超が沈黙していると、青翠は、気配でそれと知れたのであろうか、足を止めて、たずねてきた。
「そこに、どなたかいらっしゃいますか」
馬超は答えなかった。
青翠は、変わらず、地味で清楚な衣裳に身をつつんでいた。
安堵したことに、ずいぶんと血色がよくなり、すこし太ったようである。
「いらっしゃいますね。お返事はけっこうです。いつか、かならずまたお会いできると思って、お待ちしておりました。ようやくお会いできた」
青翠は、そうして笑顔を向けるのであるが、しかし、馬超がいる位置とは、すこしばかりずれている。
それでも、その笑顔は、馬超が女人の中にみるもののなかでも、美しいと手放しで褒めちぎることのできる、晴れ晴れとした、そして優しいものであった。
「あれから、どなたか知りませんが、物好きな方が、わたくしの家の借財を、すべて肩代わりしてくださいました。そして、高大人が、二度とわたくしに手を出せないようにまでしてくださった。
わたくし、もう自由です。いただいた自由を、どうやって使おうか、毎日、けんめいに考えておりますの。それがとても楽しいのです」
それはよかったと、馬超は心の中で返事をした。
女の身、まして盲目となれば、自由と言っても、制限は多かろう。
それでも、父の死をおのれのものとしてしっかり受け止め、屈辱にも耐え、一度は死の淵をみずから覗きこんだ娘である。この娘であれば、きっとおのれの力で、おのれの幸せを掴み取ることができるだろう。
「ありがとうございました。わたくし、あなたに頂いたこの命を、もう二度と、けっして、粗末に投げ出そうとは思いません。
あなたは、わたくしにとって、二番目の父です。生きます。どんなことがあっても、もう、逃げたりいたしません」
青翠はそういうと、深々と頭を下げた。
「さようなら、名前のわからない父上さま」
そう言って、青翠は、来た道を、ふたたびひとりで、戻って行った。
あの娘も、二度と、この山には戻ってこないだろう。
その背中に、馬超も言った。
さようなら、と。
※
山を下りると、どこかで見たような安車が停まっている。
思わず馬超は口元に笑みをはき、そして、おっかなびっくりと身を縮ませている御者に言った。
「おい、おまえだけ、先に帰れ」
「へ?」
目をぱちくりとさせている御者をよそに、馬超は安車の幌をかきわけると、中にいた習氏に言った。
「そこは狭かろう。出てくるがいい」
安車には、習氏だけしか乗っていなかった。
ためらう習氏に、馬超は手を差し伸べる。
すると、ようやく習氏は心を決めたようにして、外に出てきた。
無言のまま、馬超がなにを考えているのかと、怪訝そうにしている習氏の手を、馬超は、なかば強引につかむと、御者に言った。
「おい、言っただろう。先に帰ってよし。わたしたちは、あとから帰る」
御者がうろたえて習氏を見る。
すると、習氏も、それでよい、というふうにうなずいて見せた。
そこで、御者はやっと納得して、空の安車を走らせ、屋敷に戻っていく。
その後塵を見つめながら、習氏は呆れたように言った。
「なにを考えてらっしゃるのです」
「なに、歩いて帰るのもよかろう。思えば、わたしはこうして、おまえと一緒に歩いたことがない」
「馬はどうなさいますの」
「預けている家の小僧に小遣いをやれば、うちまで届けてくれるであろう。このわたしの馬を盗もうなどという者は、成都にはおるまいし、大事無い」
「屋敷まで、だいぶありますわ」
「かまわぬ。日が沈むまでにつけばよい」
「このように、いい年をして、手をつないで歩いていたら、だれに見咎められますことやら」
「知ったことか。このわたしに意見できるものなど、この世におらぬわ。おまえくらいなものだ」
「呆れた方」
「前から知っていただろう」
習氏が吹き出したので、馬超も、それにつられて、声をたてて笑う。
笑いながら、馬超は習氏の手を取ったまま、ゆっくりと、足を進めた。
二度と、振りかえることはない。
こうして生きていく。
今度こそ、おのれと、おのれを取り巻くものと、しっかり向き合いながら。
おしまい
おまけにつづきます。
成都から任地たる臨沮に帰る前日、馬超は思い立ち、もう一度だけ、あの山に登ってみようと思った。
任地に戻っても、いまの心を忘れないように、あの山で終わりにしないために、しっかりと、あの風景を目におさめておきたかった。
そうして、久しぶりに見る断崖絶壁と、屏風のようにつらなる切り立った崖のおもしろさは、やはり変わらぬものであった。
こうして、この大地は、この身が朽ちたあとも、変わらず、ここにこうしてあるのだろう。
馬超は、けじめや逃避としての『死』ではなく、人の生活のその果てにある『死』というものを、意識するようになっていた。
そして、その日が来たなら、きっと穏やかに受け入れられるであろう自分にも、気がついていた。
目を閉じると、風の音が聞こえる。
轟々とうなり、吹きつけてくる風の音。
いまやなつかしい光景となった、草原を渡る風の音に、やはりよく似ている。
けれど、わたしはもう、おまえたちの元には戻れないのだよと、馬超は心の中でつぶやいた。
あの青い玻璃の子馬と同じように、わたしの足は折れてしまった。
おまえたちとは一緒に走ることは、もうできないのだ。許してくれ。
そうして、目を開く馬超の耳に、さくさくと、青草を踏み分けてやってくる足音が聞こえてきた。
まさか。
思わぬことに振り返れば、やはり、杖を頼りにして山をのぼってきた、青翠であった。
馬超が沈黙していると、青翠は、気配でそれと知れたのであろうか、足を止めて、たずねてきた。
「そこに、どなたかいらっしゃいますか」
馬超は答えなかった。
青翠は、変わらず、地味で清楚な衣裳に身をつつんでいた。
安堵したことに、ずいぶんと血色がよくなり、すこし太ったようである。
「いらっしゃいますね。お返事はけっこうです。いつか、かならずまたお会いできると思って、お待ちしておりました。ようやくお会いできた」
青翠は、そうして笑顔を向けるのであるが、しかし、馬超がいる位置とは、すこしばかりずれている。
それでも、その笑顔は、馬超が女人の中にみるもののなかでも、美しいと手放しで褒めちぎることのできる、晴れ晴れとした、そして優しいものであった。
「あれから、どなたか知りませんが、物好きな方が、わたくしの家の借財を、すべて肩代わりしてくださいました。そして、高大人が、二度とわたくしに手を出せないようにまでしてくださった。
わたくし、もう自由です。いただいた自由を、どうやって使おうか、毎日、けんめいに考えておりますの。それがとても楽しいのです」
それはよかったと、馬超は心の中で返事をした。
女の身、まして盲目となれば、自由と言っても、制限は多かろう。
それでも、父の死をおのれのものとしてしっかり受け止め、屈辱にも耐え、一度は死の淵をみずから覗きこんだ娘である。この娘であれば、きっとおのれの力で、おのれの幸せを掴み取ることができるだろう。
「ありがとうございました。わたくし、あなたに頂いたこの命を、もう二度と、けっして、粗末に投げ出そうとは思いません。
あなたは、わたくしにとって、二番目の父です。生きます。どんなことがあっても、もう、逃げたりいたしません」
青翠はそういうと、深々と頭を下げた。
「さようなら、名前のわからない父上さま」
そう言って、青翠は、来た道を、ふたたびひとりで、戻って行った。
あの娘も、二度と、この山には戻ってこないだろう。
その背中に、馬超も言った。
さようなら、と。
※
山を下りると、どこかで見たような安車が停まっている。
思わず馬超は口元に笑みをはき、そして、おっかなびっくりと身を縮ませている御者に言った。
「おい、おまえだけ、先に帰れ」
「へ?」
目をぱちくりとさせている御者をよそに、馬超は安車の幌をかきわけると、中にいた習氏に言った。
「そこは狭かろう。出てくるがいい」
安車には、習氏だけしか乗っていなかった。
ためらう習氏に、馬超は手を差し伸べる。
すると、ようやく習氏は心を決めたようにして、外に出てきた。
無言のまま、馬超がなにを考えているのかと、怪訝そうにしている習氏の手を、馬超は、なかば強引につかむと、御者に言った。
「おい、言っただろう。先に帰ってよし。わたしたちは、あとから帰る」
御者がうろたえて習氏を見る。
すると、習氏も、それでよい、というふうにうなずいて見せた。
そこで、御者はやっと納得して、空の安車を走らせ、屋敷に戻っていく。
その後塵を見つめながら、習氏は呆れたように言った。
「なにを考えてらっしゃるのです」
「なに、歩いて帰るのもよかろう。思えば、わたしはこうして、おまえと一緒に歩いたことがない」
「馬はどうなさいますの」
「預けている家の小僧に小遣いをやれば、うちまで届けてくれるであろう。このわたしの馬を盗もうなどという者は、成都にはおるまいし、大事無い」
「屋敷まで、だいぶありますわ」
「かまわぬ。日が沈むまでにつけばよい」
「このように、いい年をして、手をつないで歩いていたら、だれに見咎められますことやら」
「知ったことか。このわたしに意見できるものなど、この世におらぬわ。おまえくらいなものだ」
「呆れた方」
「前から知っていただろう」
習氏が吹き出したので、馬超も、それにつられて、声をたてて笑う。
笑いながら、馬超は習氏の手を取ったまま、ゆっくりと、足を進めた。
二度と、振りかえることはない。
こうして生きていく。
今度こそ、おのれと、おのれを取り巻くものと、しっかり向き合いながら。
おしまい
おまけにつづきます。