※
「これは、複数のものが追いかけてきて、着物の裾を引きちぎったとしかおもえないな」
と、董和は怒りを込めてつぶやいた。
面倒見のよい董和にしてみれば、一人息子の休昭の親友である文偉もまた、息子同然の者なのだ。
「伯仁殿のお屋敷には、人を遣りました。平和に寝静まっていたようですよ」
孔明は、寝入った文偉から、紙燭を遠ざけてやる。
「文偉はどこで襲われたのだろう?」
「村に出かけていたと申しておりましたな。おそらく、その帰りに襲われて、その足で、我が屋敷にやってきたのでしょう。どうだ、偉度、表に曲者はいたか?」
その声に、董和はぎょっと身を引いた。
董和がぎょっとしたのも無理はない。
孔明と自分と、眠り込んだ文偉しかいないとおもい込んでいた部屋に、いつの間にか孔明の主簿・胡偉度がいたのだから。
偉度は、音もなく戸口を開けて、董和が気づかないうちに、部屋に入り込んでいたらしい。
秀麗な顔に、相も変らぬ不敵な笑みを浮かべ、孔明の問いに答える。
「呉と魏の細作以外は、だれも」
「呉と魏の細作? なんと、そんなものがウロウロしているのか」
董和が驚くと、孔明は肩をすくませた。
「いつものことです。むしろ、連中がいなくなったら、そのときは異常事態ということですよ」
「連中は、どうせ中には入ってこられやしませんのでご安心を。それに、こちらとて、それぞれ曹公と孫権のところに、似たように人を配しておりますゆえ、お互いさまでございます。やあ、費家のおぼっちゃまはご就寝か。毒を飲まされたって?」
「これ、笑い事ではない。呉と魏の細作がいつものとおりだとすると、かれらが文偉に何かを仕掛けた、というわけではないか」
「文偉のような下官に、連中がなにをする、というのだ」
董和が反駁すると、孔明はわかっていないな、というような目線を送ってよこした。
「お忘れか。文偉は劉璋の一族に連なる者。劉璋はいまだ存命で、政治的に利用しようとかんがえる者が跡を絶たない状態なのですぞ。
本人の意おもに関係なく、文偉を使って、敵が、何がしかの工作をしかけてきてもおかしくはございませぬ」
「む…そうであったな。伯仁殿と文偉がいつも慎ましくしているので、その事実をついつい忘れがちになるが」
費家は、劉備が益州を治めることになる直前まで、劉璋の姻戚として、かなり裕福な暮らしをしていた一族なのだ。
それが一転、劉備に従うことになった費家は、一族の大半は成都から追放される憂き目にあった。
そのうえ領地のほとんどを没収されてしまって、びんぼう暮らしを余儀なくされている。
董和は、費伯仁は野心のない堅実な男であるし、文偉自身も有望で素直な青年で、しかも孔明がいたく気に入っているようであるから、以前に没収した土地の、半分でも還してやったらどうかと孔明に打診したことがあった。
だが、孔明には素っ気なく、
「わが主公の治世下にあって、費家になんら功労のない以上、特別扱いはできませぬ」
と突っぱねられた。
たしかに道理はそのとおりだ。
地位や報酬の点で、費家は特別扱いをされていないが、そのかわり、孔明は文偉を非常にかわいがっている。
文偉や伯仁も、それで特に不満はない様子だ。
「村、と文偉はいいましたね。もしかして、広漢の村のことではありませぬか」
と、偉度が言った。
この、いまもって前身の不明な青年は、文偉の身にまとっていた衣を見て、つぶやく。
文偉より、いくつか年上の、いささか老成している感のある、容姿は水仙の花のような青年は、やはり文偉を気に入って、友のようにおもっているようだ。
「なにか知っているのか」
「ええ。広漢のほうは、最近は盗賊がひどく周囲を荒らしまわっております。たしか終風村というのが、むかし費家が所有していた村のはずでございます」
「賊だと? 広漢一帯の治安を担当しているのは、だれだ?」
董和の険しい顔に、偉度は、孔明そっくりの仕草で肩をすくめてみせる。
「李厳(字を正方)殿ですよ。あのひとは、相変わらず、仕事が遅い。周りの迷惑もかえりみず、派手な一発を狙っておられる様子」
「口が過ぎるぞ、偉度。おまえは表へ行き、曲者がいないか、皆を統率して、もう一度よく調べるように」
偉度は、孔明に言われて、さすがに口を尖らせたが、それでもすなおに表に出て行った。
孔明は、やれやれ、というふうに肩をまわし、董和のほうに向き直る。
「さて、幼宰殿、すっかり目が覚めてしまったから、さきほどの話の続きとまいりましょうか。此度の工事の経費についてなのでございますが…」
※
文偉が二度目に目が覚めると、董和が呼んだらしい、かれの息子で文偉の親友である休昭がいた。
そのおなじみの人の良さそうな顔を見て、文偉はようやく生きた心地がした。
「毒を飲まされたのだって? 朝餉はどうする? 軍師は、粥を用意してくださったようだが」
「すこし食べる。なにせ、村から逃げたあとは、なにも食べていないのだ」
「村か。たしかおまえ、終風村に行くと言っていなかったか。そこか?」
「ああ。まったくひどい目にあった。命があるだけでも奇跡のようだ…」
そこまで言って、文偉は、不意に涙をこぼした。
いつもは明朗で、どこか抜けているのではとさえおもえるほどの文偉の気弱な様子に、休昭はうろたえる。
「どうしたの? どこか痛むの?」
「痛むのではない…休昭。俺についてきてくれた従者は、みんな死んでしまった。やつらがやったのだ」
「やつらとは、村人?」
身を乗り出し、自分の腕に掻きこむようにして、涙をながす文偉をなだめる休昭に、文偉は子供のようにうなずいた。
「なにがあったのかは知らぬが、自分を責めるな。おまえの着ていた衣を、わたしも見た。あんな狼藉を働く者たち相手に、毒を飲まされながらも、よく逃げ切って、もどってこられたものだ。自分の勇気を誉めてやれ」
文偉は、涙しながらも、おもわず笑みをこぼした。
この友は、だんだんと自分の父親に物言いが似てきているが、それに自分で気づいているのだろうか。
「大丈夫だ、落ち着いてきた」
「文偉、軍師将軍は、おまえの目が覚めたら、すぐに左将軍府に来るようにと言っていた。表には、父上が用意してくださった兵卒がいるから、安心しろ。立てるか?」
「すまないな、不様なところを見せた。俺も混乱しているのだな。しっかりしなくては」
※
文偉は、休昭に助けられるようにして、起き上がると、表に待機していた兵卒たちに囲まれるようにして馬車に乗り、そして左将軍府へと向かった。
さすが慎重で賢明な董和が用意しただけあり、一部隊がそっくりそのままやってきていた。
これでは、どんな刺客も自分を狙うことはできまいと、心強く文偉はおもった。
左将軍府に到着すると、孔明の主簿である偉度が待ち受けていた。
柱にもたれた格好で、いつものように、戸惑うくらいに意味ありげな笑みを浮かべている。
「やあ、坊ちゃんがた、お待ちしておりましたよ」
「偉度殿、軍師将軍は?」
「あちらでお待ちかねですよ。あんたたちの友だちの蒋公琰も一緒だけれど」
おもわず、文偉と休昭は、顔を見合わせる。
「公琰殿は、いつもどってきたのだろう?」
「やはりあのひとが、軍師将軍の直命で各地を放浪している、という噂は、ほんとうらしいな」
「腕に覚えのある人は羨ましいよ」
休昭に助けられながら廊下を歩きつつ、文偉は苦笑する。
そうだ、もし自分の腕っ節が強ければ、こんなことにはならなかったのに。
そうして、孔明と公琰?いるところへ行かなければならない、ということも、文偉の心を重くした。
孔明は上役であるから別格として、文偉は、公琰がいささか苦手であった。
もちろん、表面上は親しくしているのだが。
理由は、ほぼ同年の公琰の能力の高さであった。
文偉は、目に見える形で、自分以上の能力を備えている公琰が苦手であった。
公琰はどっしり構えた風格をそなえ、冷静沈着。
中華の大半の言語を難なく使いこなすことができ、加えて、博識。
剣の腕も、いっぱしの武人はだしである。
一見すると朴訥で、冴えているように見えないのであるが、付き合ってみると、公琰がどれほど優れているか、そしてどんなに『イイヤツ』かがすぐにわかってくる。
その人柄に魅了される者は多い。
周囲は、孔明が目をかけている若者のなかでは、費文偉、つまり自分が一番目をかけられている、とおもっているようだが、そうではないことを、文偉は感づいている。
一番ではないからなんだ、という話でもあるが、周囲がおもっている以上に孔明に心服している文偉としては、孔明の信頼を自分より勝ち得ている公琰を妬ましくおもう。
事情があり、公琰は公務につくことなく、成都を離れていることが多いのが幸いだ。
もし、公琰が自分と同等の線に並んでいたら、文偉は嫉妬のあまり、道を踏み外しているかもしれない。
明朗な性格こそ、一番の特徴であることは、おおいに自負するところであるが、その自分に、こんな暗い部分があるということを、いちいち気づかせてくれる公琰が、文偉は苦手なのだ。
イイヤツだとおもっているだけに、余計に辛い。
おもわずうめくと、肩を貸している休昭が、不安そうに顔をのぞきこんでくる。
「どうしたの、どこか痛いのか?」
さすがに、心が、などときざなことは言えず、文偉は、大丈夫だよ、と答えるしかなかった。
※
孔明の執務室に入ると、中央に孔明、その脇の、文偉から見て左側の席に、公琰は座っていた。
旅装のままで、侠客のような、髪を粋に結った、なんとも洒脱な格好をしている。
髪をむすんでいるのも、玉が先端についた派手な紐だ。
傍らには愛用の剣が置かれており、鋭くもどこか優しげな瞳が、文偉とぶつかった。
孔明と公琰は、文偉がやってくると、ほぼ同時に腰を浮かせ、文偉を助けようとした。
なんとありがたい方々か、と感動しつつ、文偉は休昭の手を借りながら、何とか自力で孔明の前に進みでた。
「楽にするがよい。無理をしてはならぬぞ。本来ならば、わたしがおまえの元に行かねばならぬが、このとおり身動きが取れないのでな」
と、孔明はかたわらに積まれた竹簡を軽く叩いてみせた。
「お気遣い、かたじけなく存じます。怪我はほとんどございませぬ。ただ、毒が抜けきっていないだけのこと」
「毒、か。熱もさほどない様子。しびれ薬の類いであったのかな」
公琰が、孔明と文偉を交互に見比べつつ、言った。
「文偉をなんとしても成都に返したくなかったのであろう。
しかし、殺すつもりはなかった、ということか」
「いいえ、連中は、わたくしを殺めるつもりでございました」
文偉の言葉に、今度は孔明と公琰が顔を見合わせる。
「本来ならば、命を奪う毒を飲まされるはずであったのです。それを、摩り替えてくれた者がおりまして、わたしはその者に命を救われたのでございます」
そうして、文偉はこれまでのことを話し始めた。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初出・2005/04/30)
「これは、複数のものが追いかけてきて、着物の裾を引きちぎったとしかおもえないな」
と、董和は怒りを込めてつぶやいた。
面倒見のよい董和にしてみれば、一人息子の休昭の親友である文偉もまた、息子同然の者なのだ。
「伯仁殿のお屋敷には、人を遣りました。平和に寝静まっていたようですよ」
孔明は、寝入った文偉から、紙燭を遠ざけてやる。
「文偉はどこで襲われたのだろう?」
「村に出かけていたと申しておりましたな。おそらく、その帰りに襲われて、その足で、我が屋敷にやってきたのでしょう。どうだ、偉度、表に曲者はいたか?」
その声に、董和はぎょっと身を引いた。
董和がぎょっとしたのも無理はない。
孔明と自分と、眠り込んだ文偉しかいないとおもい込んでいた部屋に、いつの間にか孔明の主簿・胡偉度がいたのだから。
偉度は、音もなく戸口を開けて、董和が気づかないうちに、部屋に入り込んでいたらしい。
秀麗な顔に、相も変らぬ不敵な笑みを浮かべ、孔明の問いに答える。
「呉と魏の細作以外は、だれも」
「呉と魏の細作? なんと、そんなものがウロウロしているのか」
董和が驚くと、孔明は肩をすくませた。
「いつものことです。むしろ、連中がいなくなったら、そのときは異常事態ということですよ」
「連中は、どうせ中には入ってこられやしませんのでご安心を。それに、こちらとて、それぞれ曹公と孫権のところに、似たように人を配しておりますゆえ、お互いさまでございます。やあ、費家のおぼっちゃまはご就寝か。毒を飲まされたって?」
「これ、笑い事ではない。呉と魏の細作がいつものとおりだとすると、かれらが文偉に何かを仕掛けた、というわけではないか」
「文偉のような下官に、連中がなにをする、というのだ」
董和が反駁すると、孔明はわかっていないな、というような目線を送ってよこした。
「お忘れか。文偉は劉璋の一族に連なる者。劉璋はいまだ存命で、政治的に利用しようとかんがえる者が跡を絶たない状態なのですぞ。
本人の意おもに関係なく、文偉を使って、敵が、何がしかの工作をしかけてきてもおかしくはございませぬ」
「む…そうであったな。伯仁殿と文偉がいつも慎ましくしているので、その事実をついつい忘れがちになるが」
費家は、劉備が益州を治めることになる直前まで、劉璋の姻戚として、かなり裕福な暮らしをしていた一族なのだ。
それが一転、劉備に従うことになった費家は、一族の大半は成都から追放される憂き目にあった。
そのうえ領地のほとんどを没収されてしまって、びんぼう暮らしを余儀なくされている。
董和は、費伯仁は野心のない堅実な男であるし、文偉自身も有望で素直な青年で、しかも孔明がいたく気に入っているようであるから、以前に没収した土地の、半分でも還してやったらどうかと孔明に打診したことがあった。
だが、孔明には素っ気なく、
「わが主公の治世下にあって、費家になんら功労のない以上、特別扱いはできませぬ」
と突っぱねられた。
たしかに道理はそのとおりだ。
地位や報酬の点で、費家は特別扱いをされていないが、そのかわり、孔明は文偉を非常にかわいがっている。
文偉や伯仁も、それで特に不満はない様子だ。
「村、と文偉はいいましたね。もしかして、広漢の村のことではありませぬか」
と、偉度が言った。
この、いまもって前身の不明な青年は、文偉の身にまとっていた衣を見て、つぶやく。
文偉より、いくつか年上の、いささか老成している感のある、容姿は水仙の花のような青年は、やはり文偉を気に入って、友のようにおもっているようだ。
「なにか知っているのか」
「ええ。広漢のほうは、最近は盗賊がひどく周囲を荒らしまわっております。たしか終風村というのが、むかし費家が所有していた村のはずでございます」
「賊だと? 広漢一帯の治安を担当しているのは、だれだ?」
董和の険しい顔に、偉度は、孔明そっくりの仕草で肩をすくめてみせる。
「李厳(字を正方)殿ですよ。あのひとは、相変わらず、仕事が遅い。周りの迷惑もかえりみず、派手な一発を狙っておられる様子」
「口が過ぎるぞ、偉度。おまえは表へ行き、曲者がいないか、皆を統率して、もう一度よく調べるように」
偉度は、孔明に言われて、さすがに口を尖らせたが、それでもすなおに表に出て行った。
孔明は、やれやれ、というふうに肩をまわし、董和のほうに向き直る。
「さて、幼宰殿、すっかり目が覚めてしまったから、さきほどの話の続きとまいりましょうか。此度の工事の経費についてなのでございますが…」
※
文偉が二度目に目が覚めると、董和が呼んだらしい、かれの息子で文偉の親友である休昭がいた。
そのおなじみの人の良さそうな顔を見て、文偉はようやく生きた心地がした。
「毒を飲まされたのだって? 朝餉はどうする? 軍師は、粥を用意してくださったようだが」
「すこし食べる。なにせ、村から逃げたあとは、なにも食べていないのだ」
「村か。たしかおまえ、終風村に行くと言っていなかったか。そこか?」
「ああ。まったくひどい目にあった。命があるだけでも奇跡のようだ…」
そこまで言って、文偉は、不意に涙をこぼした。
いつもは明朗で、どこか抜けているのではとさえおもえるほどの文偉の気弱な様子に、休昭はうろたえる。
「どうしたの? どこか痛むの?」
「痛むのではない…休昭。俺についてきてくれた従者は、みんな死んでしまった。やつらがやったのだ」
「やつらとは、村人?」
身を乗り出し、自分の腕に掻きこむようにして、涙をながす文偉をなだめる休昭に、文偉は子供のようにうなずいた。
「なにがあったのかは知らぬが、自分を責めるな。おまえの着ていた衣を、わたしも見た。あんな狼藉を働く者たち相手に、毒を飲まされながらも、よく逃げ切って、もどってこられたものだ。自分の勇気を誉めてやれ」
文偉は、涙しながらも、おもわず笑みをこぼした。
この友は、だんだんと自分の父親に物言いが似てきているが、それに自分で気づいているのだろうか。
「大丈夫だ、落ち着いてきた」
「文偉、軍師将軍は、おまえの目が覚めたら、すぐに左将軍府に来るようにと言っていた。表には、父上が用意してくださった兵卒がいるから、安心しろ。立てるか?」
「すまないな、不様なところを見せた。俺も混乱しているのだな。しっかりしなくては」
※
文偉は、休昭に助けられるようにして、起き上がると、表に待機していた兵卒たちに囲まれるようにして馬車に乗り、そして左将軍府へと向かった。
さすが慎重で賢明な董和が用意しただけあり、一部隊がそっくりそのままやってきていた。
これでは、どんな刺客も自分を狙うことはできまいと、心強く文偉はおもった。
左将軍府に到着すると、孔明の主簿である偉度が待ち受けていた。
柱にもたれた格好で、いつものように、戸惑うくらいに意味ありげな笑みを浮かべている。
「やあ、坊ちゃんがた、お待ちしておりましたよ」
「偉度殿、軍師将軍は?」
「あちらでお待ちかねですよ。あんたたちの友だちの蒋公琰も一緒だけれど」
おもわず、文偉と休昭は、顔を見合わせる。
「公琰殿は、いつもどってきたのだろう?」
「やはりあのひとが、軍師将軍の直命で各地を放浪している、という噂は、ほんとうらしいな」
「腕に覚えのある人は羨ましいよ」
休昭に助けられながら廊下を歩きつつ、文偉は苦笑する。
そうだ、もし自分の腕っ節が強ければ、こんなことにはならなかったのに。
そうして、孔明と公琰?いるところへ行かなければならない、ということも、文偉の心を重くした。
孔明は上役であるから別格として、文偉は、公琰がいささか苦手であった。
もちろん、表面上は親しくしているのだが。
理由は、ほぼ同年の公琰の能力の高さであった。
文偉は、目に見える形で、自分以上の能力を備えている公琰が苦手であった。
公琰はどっしり構えた風格をそなえ、冷静沈着。
中華の大半の言語を難なく使いこなすことができ、加えて、博識。
剣の腕も、いっぱしの武人はだしである。
一見すると朴訥で、冴えているように見えないのであるが、付き合ってみると、公琰がどれほど優れているか、そしてどんなに『イイヤツ』かがすぐにわかってくる。
その人柄に魅了される者は多い。
周囲は、孔明が目をかけている若者のなかでは、費文偉、つまり自分が一番目をかけられている、とおもっているようだが、そうではないことを、文偉は感づいている。
一番ではないからなんだ、という話でもあるが、周囲がおもっている以上に孔明に心服している文偉としては、孔明の信頼を自分より勝ち得ている公琰を妬ましくおもう。
事情があり、公琰は公務につくことなく、成都を離れていることが多いのが幸いだ。
もし、公琰が自分と同等の線に並んでいたら、文偉は嫉妬のあまり、道を踏み外しているかもしれない。
明朗な性格こそ、一番の特徴であることは、おおいに自負するところであるが、その自分に、こんな暗い部分があるということを、いちいち気づかせてくれる公琰が、文偉は苦手なのだ。
イイヤツだとおもっているだけに、余計に辛い。
おもわずうめくと、肩を貸している休昭が、不安そうに顔をのぞきこんでくる。
「どうしたの、どこか痛いのか?」
さすがに、心が、などときざなことは言えず、文偉は、大丈夫だよ、と答えるしかなかった。
※
孔明の執務室に入ると、中央に孔明、その脇の、文偉から見て左側の席に、公琰は座っていた。
旅装のままで、侠客のような、髪を粋に結った、なんとも洒脱な格好をしている。
髪をむすんでいるのも、玉が先端についた派手な紐だ。
傍らには愛用の剣が置かれており、鋭くもどこか優しげな瞳が、文偉とぶつかった。
孔明と公琰は、文偉がやってくると、ほぼ同時に腰を浮かせ、文偉を助けようとした。
なんとありがたい方々か、と感動しつつ、文偉は休昭の手を借りながら、何とか自力で孔明の前に進みでた。
「楽にするがよい。無理をしてはならぬぞ。本来ならば、わたしがおまえの元に行かねばならぬが、このとおり身動きが取れないのでな」
と、孔明はかたわらに積まれた竹簡を軽く叩いてみせた。
「お気遣い、かたじけなく存じます。怪我はほとんどございませぬ。ただ、毒が抜けきっていないだけのこと」
「毒、か。熱もさほどない様子。しびれ薬の類いであったのかな」
公琰が、孔明と文偉を交互に見比べつつ、言った。
「文偉をなんとしても成都に返したくなかったのであろう。
しかし、殺すつもりはなかった、ということか」
「いいえ、連中は、わたくしを殺めるつもりでございました」
文偉の言葉に、今度は孔明と公琰が顔を見合わせる。
「本来ならば、命を奪う毒を飲まされるはずであったのです。それを、摩り替えてくれた者がおりまして、わたしはその者に命を救われたのでございます」
そうして、文偉はこれまでのことを話し始めた。
つづく……
(サイト「はさみの世界」 初出・2005/04/30)