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帯とけの枕草子〔百五十四〕故殿の御服のころ (その二)
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔百五十四〕ことのゝ御ふくのころ
人と物いふこと(人と言葉を交わすこと…異性と情を交わすこと)を碁用語にして、親しく語らったりしたのを「手ゆるしてけり」「けちさしつ」などと言い、男は「手うけむ」などと言うことは、ふつう女の知り得ることではない。私は・この君(斉信)と心得て言うのを、「なにぞなにぞ(何だ、何だ)」と源中将は私に付きっきりで聞くけれど言わないので、彼の君に、「いみじう、猶これの給へ(ひどい、やはり、それ言ってよ)」という。恨まれてはと仲良しだから言って聞かせたという。あっけなく男女が親しくなってしまうのを「おしこぼちのほどぞ」などと言う。源中将は自分も知ったことを、どうしても知ってもらおうと、「碁盤はございますか、貴女と・まろと碁をうとうとですね思いまして。てはいかゞ、ゆるし給はんとする(手合いはいかが、お手柔らかにね……手はいかが、ゆるしてくださるでしょう・親しくしてくれますよね)、頭の中将と同じ程度の碁です。別け隔てなさらないように」と言うので、「さのみあらば、さだめなくや(それならば定めなしでね・平手で……そんな身であれば定める男なしではありませんか)」と言ったことを、彼の君(斉信)に言い知らせたら、うれしういひたり(嬉しいことを言ってくれる)と喜ばれた。やはり、過ぎ去ったことを忘れない人は、とってもすばらしい。
斉信が・宰相になられたころ、主上の御前にて、「詩をとっても上手にうたわれるものを、宰相になってお見えにならなくなれば・蕭会稽之過古廟(蕭さん会稽郡の古廟をよぎれば……――)なども誰が言いだしましょうか。しばらくとは言わず久しくお側にお仕えなされればねえ、残念ですわ」と申し上げると、いみじうわらはせ給て(たいそうお笑いになられて)、「さなんいふとてなさじかし(そう言うからと、しないよ……少納言がそう言うからと、中将を宰相にしないよ)」などと仰せられたのも、をかし(おかしい)。
それでもおなりになられたので、ほんとうに寂しかったところ、源中将が斉信に劣らずと思って、風流ぶっているので、宰相の中将(斉信)のことを言い出して、「いまだ三十の期にをよばずという詩を、そのうえに他の人には似ずおうたいになったわよ」などというと、「どうして彼に劣ろうか、優ってうたってみせる」と言って、うたうので、「全然、似ているなんてものじゃありません」と言えば、「がっかりなことだな、どうして彼のようにうたおうか」とおっしゃるので、「三十期(三十歳の時…三十回目…三十歳の御)というところがね、すべていみじうあいぎやうづきたりし(すべて、たっぷり愛敬があったわ)」などと言うと、ねたがりてわらひありくに(くやしがって笑っているうちに)、宰相の中将が近衛の陣に着かれたのを、脇に呼び出して、少納言がこんなことを言うのだ。やはり君、教えてくれ給えとおっしゃったので、笑って教えたというのは知らなかったところ、局のもとに来て、たいそうよく似せてうたうので、おかしくて、「そこにいるのは誰です」と問うと、笑い声になって、「大事なことをお聞かせしよう。このようなことでしてね、昨日、宰相の中将が陣に着いたので問い、うたい方は聞いたのです、まずは似ていたようですね、誰ぞ、と憎からぬ様子でおたずねになったのは」というのも、わざわざ習ったというのもおかしくて、これさえうたえば、出て話などをするので、「宰相の中将の人徳を見る思い。その方に向かって拝まなければ」などと言う。局に下がっているのに、「上にいらっしゃいます」と取り次ぎに言わせるときに、この詩をうたい出せば「ほんとうはここに居ましたの」などという。宮にも、こうなのですと申し上げると、わらはせ給(お笑いになられる)。
内裏の御物忌みの日、右近の将監で「みつ」何某という者を使いにして、懐紙に書いて寄越したのを見ると、「参上しようと思うのですが今日明日は物忌みで参れませんが、三十の期におよばず(三十歳の時に及ばず夭折した……三十回のちぎりに及ばず逝った……三十歳の女のお方には及びません)はいかがですか」とあったので、お返しに、「そのごは、すぎ給にたらん。朱買臣がめをゝしへけんとしにはしも(君はその年齢はお過ぎになられるのでしょう、朱買臣が妻を説得したという、年齢はですよ……君はその回数はお過ぎになられるのでしょう、朱買臣が妻を説得したという、疾しものがですよ……君のその女のお方は、お過ぎになるのでしょう、朱買臣が妻を説得した年齢・四十歳はですよ)」と書いてやったところが、また悔しがって、主上の御前でも申し上げたので、宮の御方におわたりになられて、主上、「どうしてそのような詩を、少納言は知っているのか。宣方は『三十九だったとしに、そのように朱買臣は妻を、いましめたのでしょう』といって、ひどいことを、少納言に言われたと言っていたようだが」と仰せられた。物くるほしかりける君とこそおぼえしか(宣方は何かが狂っている男だと思えたのだった)。
和漢朗詠集 交友、
蕭會稽之過古廟、託締異代之交。張僕射之重新才、推為忘年之友
(蕭さんが會稽郡の古廟に立ち寄ると、託宣あって異代と時を超えて交友をむすぶ。張さんは宰相として天子を補佐する任、それが新しい才を重んじ推挙すれば、天子は年の差を忘れ友と為す……斉信がひとたび後宮に立ち寄れば、たちまち人々と交友を結ぶ。宰相として新しい人材を重じ推挙すれば、主上は忘年の友とされる)。
本朝文粋巻一、見二毛と題する詩の一節、
顔回周賢者、未至三十期。潘岳晋名士、早著秋興詞
(わが髪に白いものを見る。顔回は周の賢者、未だ三十歳に及ばず夭折した。潘岳は晋の名士、早く若年にて秋興の詩を著した……白いものを見る。周の国の堅物、未だ三十回の期に及ばず逝った。晋の国の高名なる男、早くも飽きの言葉を表した)。
「顔回(人の名)…回数」「賢者…堅物」「三十…年齢…期の回数」「期…時を期して合うこと…ちぎりのやまばの合致…御…女の敬称」「三十歳の御…清少納言、このとき三十歳」「秋…飽き満ち足り」。
宣方の文「……わがもの二九回も合った、三十回に及ばなかったがね、普通は早く飽き風ふく。強いだろう如何」という「うちとけ文」とみたので、うちとけてやった。「……君なら三十の期はお過ぎになられるでしょう。朱買臣が妻女を説得した、もとより疾しものがですよ」と。宣方は知らず読みしたらしい。「君はその年齢お過ぎになられるのでしょう。朱買臣が貧しさ故に去ろうとした妻を説得して、富貴に当たる五十になるまで待てと言った年齢は、その年はですよ。君の昇進栄達はまだなの」と。
朱買臣と妻の話は前漢書にある。
「あだ名は翁子、呉の人である。家貧しく読書を好み、生産業に励まず、いつも薪を刈り売っては食を得ていた。薪を束ねて担い、歩きながら書を読んだ。その妻もまた薪を頭に戴き伴に従っていた。買臣は、しばしばゆかなくなって(歩みを止めて)、道中、歌をうたわなくなった。朱買臣は、いよいよますます歌のやまい(疾)になった(夫唱婦随できなくなったのだ)。妻はこれを恥じ離婚を求める。買臣、笑って言う『我が年、五十になれば富貴に当たる。今、われは四十余だが、そなたの苦しむ日々は久しい、あとしばらく待ってくれ、我が富貴のときに、そなたの功に報いる」。
笑い話と聞いて、夫婦生活で唱和することがなくなり、夫はますます唱するときが疾く(早く)なった。いま報いるべきは功にではなく女が乞う「交、覯、媾」。
主上の仰せぶりから察しられる宣方の言いぐさは「清少納言にひどいことを言われました。君の富貴に当たる昇進栄達はいつなのさ、朱買臣の年は過ぎるのでしょうと。(たしか朱買臣は三十九歳でしたね)」。
宣方は、このように自らの昇進を訴えたのでしょう。親しくして欲しいと言うので、うちとけた言葉をかけたのに、通じていない。ひどいのは宣方、腹立ちは収まらない。報復するのは当然でしょう。それは次に語りましょう。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。