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帯とけの平中物語
「平中物語」は、平中と呼ばれた男の詠んだ古今和歌集には載せられない和歌を中心にして、その生きざまが語られてある。平中は、平貞文のあだ名で、在中将(在原業平)に次ぐ「色好みける人」という意味も孕んでいる。古今集の編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。
色好みな歌と物語を紐解いている。言の戯れを知り、字義とは別に孕んでいる言の心を心得て読むことができれば、歌の「清げな姿」の裏に「心におかしきところ」が見える。物語の帯はおのずから解ける。
平中物語(十九)また、この男の家には、前栽好みて造りければ
また、この男の家(父は平好風、祖父は桓武天皇の御孫)には、前栽を好んで造っていたので、趣きのある菊など、とっても多く植えてあったのだった。(家人のいない)間をうかがって、月がとっても明るいので、女たちが集まって来て、前栽などを見物して、花の中でとっても(背丈の)高いのに、つけていひける(ことよせて詠んだ……かこつけて言った)、
ゆきがてにむべしも人はすだきけり 花は花なる宿にぞありける
(通り過ぎ難くて、なるほどねえ人は集まることよ、すばらしい・花は、花のある宿にこそあったのだった……平中は・逝き難いので、なるほどねえ女は集まったことよ、女花は、女花の成る宿に居たのだった・中には身分の高い人も)。
言の戯れと言の心
「ゆき…行き…逝き」「花…菊…草花…女花…女」「なる…なり…所在を表す…成る…(山ばの頂上高く)成る」。
と言って、皆帰ったのだった。そうあったので、この男(平中)、もしや、また来て、花を・取るかもしれないということで、花の中に、立札・立てたのだ、
わが宿の花は植ゑしに心あれば 守る人なみ人となすにて
(わが宿の花は、植えたうえに、われは・心あれば、門・守る人は居ない、花を女人とみなすので・引抜き、略奪禁止……わが宿の女花たちは、たね植え付けても、われは・心あるので、門・守る人は居ない、女花を女と成すことによって・卒業する、姫君募集中)。
「花…草花…女」「植えしに…植えたうえに…(種・苗)植え付けたうえに」「なす…みなす…成す…成人と成す」。
とぞ、書いて立てていたのだった。取りに来るかと窺わせていたけれど、たゆみたるにぞ(心緩んだときに……怠けていたので)、取ったのだった。口惜しく、しらせでやみにけり(知らせられずに止めたのだった……女たちに・告知できずじまいだった)。
この歌と物語は、「菊…草花…女花…女」という言の心を心得えてこそ享受できる。
古今和歌集の躬恒の菊の花の歌を同じ言の心で聞きましょう。
心あてに折らばや折らむ初霜の をきまどはせる白菊の花
(あて推量に折ろうかな折ろう、初霜がおりていて、惑わせる白菊の花)、これは「清げな姿」。(心のままに逝こうかな逝こう、初しものおくのを、惑わせる無垢なひと)、これが「心におかしきところ」。「余情妖艶」なるところが享受できれば、この歌を『百人一首』に撰んだ藤原定家(父は俊成)と、ほぼ同じ聞き耳を持ったことになる。
「折る…逝く」「しも…霜…下…おとこのものの色」「白…清純…無垢」。
原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。
以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。
古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。
「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。
歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。
歌の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。