帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(三十一)また、この男、人とものいひけり

2013-11-29 00:06:03 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた平貞文の詠んだ色好みな歌を中心にして、平中の生きざまと人となりが語られてある。

 
 歌も地の文も、聞き耳によって意味の異なるほど戯れる女の言葉で綴られてあるので、それを紐解けば、物語の帯は自ずから解ける。



 平中物語(三十一)また、この男、人とものいひけり


 また、この男(平中)、人とものいひけり(人と言葉を交した……女と情けを交した)。とくに心に入れて、思いを懸けていないことなので、いひさして(言いかけたまま……交情半ばで)、ものもいいやらでありければ(言葉も掛けなくなっていたので)、女「などかおとづれぬ(どうして訪れないのよ……どうして、おと、つれないのよ)」と言った。
 はふりべのしめやかきわけいひてけむ 言の葉をさへわれに忌まるる

(神官がしめ縄、二人を・かき分けて、結うたのでしょうか、言葉をさえ、わたしに対して、かけること・忌み嫌うのは……葬り人が標の縄、二人を・かき分けて、結うたのでしょうか、殊の端おさえ、わたくしにたいして、忌み嫌うのは)。


 言の戯れと言の心

「おと…妹…いも…乙女…弟…子…おとこ」「つれぬ…連れない…共に行かない…連れて逝かない」。

歌「はふりべ…祝部…神職…葬り部…埋葬人…墓守」「ことのは…言の葉…言葉…ことの端…殊の身の端…きみのおとこ」「を…対象を示す…お…おとこ」「いまるる…忌まるる」「忌む…忌み嫌う…嫌って避ける」「る…自然にそうなる意を表す」。


 男、返し、
 ゆふたすきかけてはつねに思へども とふこと忌みのしめは結はぬを

(木綿襷のように、懸けては常に思っているけれども、訪うこと忌むような標縄は結ばないのに……結う多好き、掛け持ちでは常に、あなたを・思えども、訪うこと忌み嫌う標は結ばないのになあ)。


 言の戯れと言の心

「ゆふたすき…木綿襷・かけの枕詞…結う多好き」「ゆふ…結う…ちぎり結ぶ」「かけて…(襷を)掛けて…(思いを)懸けて…兼ねて…掛け持ちで」「を…のに…なあ…詠嘆を表す」。

 

さてすさびてやみけり(こうして言葉遊びやめたのだった……こうして、もてあそんでやめたのだった)。



  古今和歌集 恋歌一 よみ人しらずの、「ゆうたすき」の詠み込まれた歌を聞きましょう。歌の言葉は同じように戯れていて当然であるが、どうだろうか。

 ちはやぶる賀茂の社のゆふたすき ひと日も君をかけぬ日はなし

 (千早ぶる、賀茂の社の木綿襷、一日も君に思いを懸けない日はない……血早ぶる、かもの屋代の結う多好き、一日も君に思いを懸けない日はない)。 

 「ちはやぶる…神にかかる枕詞…千早ぶる…血早ぶる…荒々しい・威力のある・血気盛んな」「かも…賀茂…神…上…女」「社…屋代…家…女」「ゆうたすき…木綿襷…結う多好き…結う大好き」。



  原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。

 


 以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。


 古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。

 
歌の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。