帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(二十九)また、この男、聞きわたる人 ・(その二)

2013-11-26 01:41:12 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた平貞文の詠んだ色好みな歌を中心にして、平中の生きざまと人となりが語られてある。


 歌も地の文も、聞き耳によって意味の異なるほど戯れる女の言葉で綴られてあるので、それを紐解けば、物語の帯は自ずから解ける。


 

  平中物語(二十九)また、この男、聞きわたる人なりけれど・(その二)


  かういへど(こう言ったが……頼もし人の、たばかり・画策によって、女と逢い合ったけれど、女は結果として二股交際となった。たばかりの粗さを、歌でやんわり責めたが)、この元の男が居ると聞き、この今の人(平中)、また、(頼もし人に)言う、
 心もて君が織るてふしづはたの あふ間遠きをだれにわぶるぞ

(心をこめて、きみが織ると言う倭あやの織物が、目の粗いこと、逢う・間隔の遠いことを、誰にお詫びするのだ・被害者三人だぞ……心を込めて、きみが折るという、卑しい身の端の、和合の間遠いのを、誰に詫びるのだ・被害の身の端三つだぞ)。


 言の戯れと言の心

「織る…折る…逝く…逝かせる」「しづ…倭文…卑しい」「はた…機織…端…身の端」。
  言いたいことは、「清げな姿」にして、「心にをかしきところ」を添えて、相手の心に直に伝わるように言う。これが和歌の表現方法である。


 さて、「なほ、いかむ(やはり行こうと思う……汝お、逝こう)」と言ってきても、また、逢えないで止めてしまったので、元より来ていた男も来なくなったので、女、かの後の男(平中)に言い遣る、
 言の葉のうへの緑にはかられて 竹のよなよなむなし寝やする

(言の葉の表面のみどりの色に謀られて、竹の節ぶし・間遠く、夜な夜な虚し寝をしているよ……頼もし人の・言葉の上の未熟さに謀られて、君の節のない節のない夜々、空し寝しているよ)。


 言の戯れと言の心

「みどり…緑色…若い…幼い…未熟」「竹…君…男」「よ…竹の節と節の間…節…節のようなもの」。

 

とある。「謀られたことよとは、いとほしうて(あなたが・可哀そうで……頼もし人が・気の毒で)、あなたの・この文にあること、いとあやし(とってもふしぎ……まったく理解できない)、くれにはかならず(夕暮れには必ず……年の暮には必ず)・(行きます……行きません)」と言ったので、男(平中)、頼もし人にも、「かかりけり(女の文には・こうあったことよ……われは・こう返したことよ)」と言ったので、(頼もし人は)その(夕)暮れにやって来た。さて、ものなどいひて(話などして……情けを交して)、頼もし人、この男を、いとあやしきものに聞きしかど(とてもわけのわからない者だと聞いていたけれど)、見るに(対面すれば……身を合わせれば)そうでもないことよと、いうことで、頼もし人、男(平中)にいう、

 川よきに堰きとどめたる水上の 見るまにまにもまさる君かな

(川、流れ良いのに、堰き留めた水上が見る間にも水嵩増さる、そのようにわたくしのうちで・評価の優る君だことよ……女、好き心地なので、引き留めた女の上が見る間に、間にも増さる貴身だことよ)。


 言の戯れと言の心

「川…女」「よき…(流れ)良き…(心地)好き」「水…女」「見…覯…媾…まぐあい」「間…女」「まさる…(水嵩)増さる…(人徳)優る…(ものの嵩)増さる」「きみ…君…貴身…おとこ」「かな…だなあ…感動の意を表す」。


 返し、(平中)、
 水上の思ひまさらむ川よきて わが田に絶えし堰て留めむ

(上流の人の思い強く増すのだろう、川よけて・我田引水、わが田に、水・絶えた、堰して留めよう……をみなの上の思い増さるだろう、をみな好きて、わが多に堪えし、急きて、我が家に・留めるつもりだ)。


 言の戯れと言の心

「水…女」「水上…男」「た…田…女…多…多情」「たえし…(水が)絶えた…たへし…(多情に)耐えた…堪えた(能力あった)」「せきて…堰き止めて…急きて…あわてて」「む…意志を表す」。

 

それに人々混じって、琴など、をかしう(上手に)弾いて、ものをかしう(ものを可愛らしく)言う女が居たのだった。男(平中)、なほしもあらで(普通ではいられなくて)、「この琴弾くのは誰ぞ」と、頼もし人に問うたところ、「この家に通っておられるご親族の方なのよ」と言えば、それに、この男、いかでかと思ふ(なんとかしてと思う……何としても得たいと思う)、心つきにけり(心が生じたのだった……気に入ったのだった)。

 (つづく)。



  原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。


 

以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。


 古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。

 
歌の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、
「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。