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帯とけの平中物語
「平中物語」は、平中と呼ばれた平貞文の詠んだ色好みな歌を中心にして、その生きざまが語られてある。古今集編者の貫之や躬恒とほぼ同世代の人である。
言の戯れを知らず言の心を心得ずに、君が読まされ読んでいたのは、歌の「清げな姿」である。「心におかしきところ」を紐解きましょう。物語の帯は自ずから解ける。
平中物語(二十三)また、この男、知れる人ありけり
また、この男(平中)、しれる人(人に知られた愛人……痴れる愛人)がいたのだった。それに、「久しく逢っていない、来いよ」など、言い遣ったので、いとをかしき(とっても可愛い……とっても趣のある)友だちを、つれて来たのだった。このつれて来た友だち、「送りはしつ、いまは帰りなむ(送りましたので、すぐに帰ります)」と言ったので、「今宵だけは、やはり、泊りなさいよ」「あな、むくつけ、こは、なにしに(あらまあ、こわいわ、それってなにするために)」と言いながらも、言った、
難波潟おきてもゆかむ葦鶴の 声ふりいでてなきもとどめよ
(難波潟、見おいて行こうとする、葦鶴が声ふりだして、鳴いて留めるよ・留まるしかないわ……難のお方、置いて行こうとする、あしたづが声ふりだして、泣きとどめればよ・泊るわ)。
言の戯れと言の心
「なにはかた…難波潟…何は方…難なお方…痴れる人」「かた…潟…方(敬称)…お方」「あし…葦…悪し」「たづ…鶴…鳥…古来より言の心は、女」「なき…鳴き…泣き」。
男、返し、
難波江の潮満つまでになく鶴を またいかなればおきてゆかなむ
(難波江の潮満つまでに、目に涙ためて・鳴く鶴を、またどうして、見置いて行くだろうか……何のえが、しほ満つほどに、泣くひとを、そうえに、どうして置き去りにするだろうか・我は有頂天へ送り届けるよ)。
言の戯れと言の心
「なにわ…難波…難所…難物…何は」「江…女」「しほ…潮…肢お…子お…おとこ」「なくたづ…鳴く鶴…泣く女」。
「あなそらごと(あら、空言)、つゆだにおかざめるものを(ほんの少しもおかないでしょうに……つゆほどもおとこ白つゆは贈り置かないでしょうに)」とは、言ったけれど、その夜、留まったのだった。後、いかがなりけむ(どうなったのだろうか)。
「嬲」は「なぶる」と読むらしい。その情態は想像がつくでしょう。「女男女」を一つにした漢字は無いようだけれども、そのような、あそびの痴態があることは、今も昔も変わらない。
その夜、その後は、「いかがなりけむ」と作者が言うのは、読者の想像に期待してのことである。
つくも髪の老女でも、痴れる女でも見境なく、頼まれればめんどう見て、よろこびを共にしてこそ、業平に次ぐ「色好みける人」と言われるのである。
原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。
以下は、平安時代の物語と歌を読むための参考に記す。
古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。
「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。
歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。
歌の の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。