帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百八)蛙のあまた鳴く田には水こそ増され

2016-08-03 18:57:57 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみで「心におかしきところ」の無い味気ないものにしてしまった。


 伊勢物語
(百八)かはづのあまたなくたには水こそまされ


 昔、女、ひとの心をうらみて(男の心を恨んで…男の情愛を裏も見て)、

 風吹けばとはに浪こす岩なれや わが衣手のかわく時なき

  (君の心に飽きの・風吹けば永遠に波が越えゆく岩なのか・わたしは、わが衣の袖、涙で・乾くときがない……心に春の・風吹けば、永遠に汝身越す井端なのね、わたしの心と身の端が、汝身唾で・乾く時がないわ)と、つねのことぐさにいひけるを(いつもの言いぐさで言ったので…当たり前のような言い方で言ったので)、きゝおひけるおとこ(聞いて感嘆した男…聞いて負担になったおとこ)、

 夜ゐ毎にかはづのあまた鳴く田には水こそ増され雨はふらねど

  (宵毎に蛙があまた鳴く田には、蛙の涙で・水かさが増す、雨は降らなくとも……好いごとに・そのたび毎に、川津の・おんなの、あまた泣くたには みつこそ、増さる、おとこ雨は降らなくとも)

 


 紀貫之は、歌言葉の「言の心」心得よという。清少納言は、言葉は「聞き耳異なるもの」というほど多様な意味が有るという。藤原俊成は、歌言葉の戯れに歌の趣旨が顕れるという。

「心…情…情愛…思い」「うらみて…恨みて…恨んで…裏見て…二見して…裏返して見て…再三見て」「見…覯…媾…まぐあい」。

「風…心に吹く風…飽き風・春情の風など」「なみ…浪…波…片男波…おとこの一過性の波…汝身…おとこ」「いは…岩…石・磯などと共に言の心は女…井端…おんな」「衣手…袖…衣の端…心の端…身の端」「ころも…衣…心身を包んでいるもの…心身の換喩…心身」「おひ…おい…追い…ものごとが極まる…負い…負担…負いめ」。

「よゐ…宵…好い」「ごと…事…言…毎」「かはづ…蛙…鳴く虫類…川津…言の心は女」「なく…鳴く…泣く」「たに…田に…多に…谷…言の心は女」「水…言の心は女…みづ…みつ…蜜」「雨…おとこ雨」「ねど…ずとも…ぬとも」「ね…ず…打消しを表す」「ど…のだが…けれども」。

 

当時の言葉は、上のような多様な意味をそれぞれ孕んでいた。国文学的解釈では、この意味候補から下半身を削除するのである。ほぼ字義通り上澄みの意味に聞いて、女の歌は「男の心に吹く飽き風または冷淡な寒風を恨んで、我が袖は涙で乾く時がない」となる。公任の言う「心におかしきところ」が聞こえないが、公任の歌論など全く無視しているので、この歌は表向きの意味だけがまかり通ることになる。男歌は「貴女の袖が乾かないのは、田んぼの蛙のように、やたら泣くからだ、我が雨降らせたわけでは無いわいな」という事になるだろう、それで歌の贈答の意味は完了する。平安時代の人々は、これだけしか聞こえていなかったか。伊勢物語第百八章は、これだけの物語だったのか。国文学的解釈が間違っているのではないのか、もはや、このような疑問は湧かないようである。

 

この二首には、女の心根と男の心根が顕われている。前章につづく性愛についての指南とすれば、女と男の性の格差を示したのである。おとこのさがは、一過性のはかないお雨が降り濡れれば終わるが、女のそれは、永久に汝身が井端を越え濡れつづけるべきものである。この女優男劣の性の格差を、あらかじめ知っていなければ、和合は難しいぞということを教示したようである。


 
2016・8月、旧稿を全面改定しました)