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帯とけの「伊勢物語」
在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみで「心におかしきところ」の無い味気ないものにしてしまった。
伊勢物語(百八)かはづのあまたなくたには水こそまされ
昔、女、ひとの心をうらみて(男の心を恨んで…男の情愛を裏も見て)、
風吹けばとはに浪こす岩なれや わが衣手のかわく時なき
(君の心に飽きの・風吹けば永遠に波が越えゆく岩なのか・わたしは、わが衣の袖、涙で・乾くときがない……心に春の・風吹けば、永遠に汝身越す井端なのね、わたしの心と身の端が、汝身唾で・乾く時がないわ)と、つねのことぐさにいひけるを(いつもの言いぐさで言ったので…当たり前のような言い方で言ったので)、きゝおひけるおとこ(聞いて感嘆した男…聞いて負担になったおとこ)、
夜ゐ毎にかはづのあまた鳴く田には水こそ増され雨はふらねど
(宵毎に蛙があまた鳴く田には、蛙の涙で・水かさが増す、雨は降らなくとも……好いごとに・そのたび毎に、川津の・おんなの、あまた泣くたには みつこそ、増さる、おとこ雨は降らなくとも)
紀貫之は、歌言葉の「言の心」心得よという。清少納言は、言葉は「聞き耳異なるもの」というほど多様な意味が有るという。藤原俊成は、歌言葉の戯れに歌の趣旨が顕れるという。
「心…情…情愛…思い」「うらみて…恨みて…恨んで…裏見て…二見して…裏返して見て…再三見て」「見…覯…媾…まぐあい」。
「風…心に吹く風…飽き風・春情の風など」「なみ…浪…波…片男波…おとこの一過性の波…汝身…おとこ」「いは…岩…石・磯などと共に言の心は女…井端…おんな」「衣手…袖…衣の端…心の端…身の端」「ころも…衣…心身を包んでいるもの…心身の換喩…心身」「おひ…おい…追い…ものごとが極まる…負い…負担…負いめ」。
「よゐ…宵…好い」「ごと…事…言…毎」「かはづ…蛙…鳴く虫類…川津…言の心は女」「なく…鳴く…泣く」「たに…田に…多に…谷…言の心は女」「水…言の心は女…みづ…みつ…蜜」「雨…おとこ雨」「ねど…ずとも…ぬとも」「ね…ず…打消しを表す」「ど…のだが…けれども」。
当時の言葉は、上のような多様な意味をそれぞれ孕んでいた。国文学的解釈では、この意味候補から下半身を削除するのである。ほぼ字義通り上澄みの意味に聞いて、女の歌は「男の心に吹く飽き風または冷淡な寒風を恨んで、我が袖は涙で乾く時がない」となる。公任の言う「心におかしきところ」が聞こえないが、公任の歌論など全く無視しているので、この歌は表向きの意味だけがまかり通ることになる。男歌は「貴女の袖が乾かないのは、田んぼの蛙のように、やたら泣くからだ、我が雨降らせたわけでは無いわいな」という事になるだろう、それで歌の贈答の意味は完了する。平安時代の人々は、これだけしか聞こえていなかったか。伊勢物語第百八章は、これだけの物語だったのか。国文学的解釈が間違っているのではないのか、もはや、このような疑問は湧かないようである。
この二首には、女の心根と男の心根が顕われている。前章につづく性愛についての指南とすれば、女と男の性の格差を示したのである。おとこのさがは、一過性のはかないお雨が降り濡れれば終わるが、女のそれは、永久に汝身が井端を越え濡れつづけるべきものである。この女優男劣の性の格差を、あらかじめ知っていなければ、和合は難しいぞということを教示したようである。
(2016・8月、旧稿を全面改定しました)