帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百十七)住吉の岸の姫松いくよへぬらん

2016-08-12 19:24:32 | 古典

               



                              帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみである。


 伊勢物語
(百十七)住吉の岸の姫めまついくよへぬらん


 むかし、みかど住吉にみゆきしたまひけり(昔、帝、住吉に行幸された……武樫・おとこ、身門すみ好しに見行きし、玉ひけり)。

 我見ても久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いく世経ぬらん

 (我が・帝になって、見てからも久しくなった、住吉の岸の姫松、幾代経たのだろうか……我が見てからも久しくなった、す見好しのきしの姫まつ・あの夜心は、幾夜経たものだろうか)

おほんかみ、げぎやうしたまひて(御神、姿形を現されて…御本神、姿を表わされて・お告げになられた)、

 むつましと君はしらなみみづ垣の 久しき世よりいはひ初めてき

 (睦ましい仲と、帝は、お知りにならない・白波、瑞垣の久しい神代より、姫松と白波は・祝ごとはじめていた……睦ましい仲と、帝は、お知りにならない・白汝身と姫まつ、神世の久しき夜より、井這い初めていた)


 

紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。

 「みかど…帝…清和帝」「住吉…所の名、住吉神社、名は戯れる。住み吉し、住み好し、す身良し、す見好し」「す…洲…おんな」「みゆき…行幸…見行き…見幸…身幸」「見…覯…媾…まぐあい」。

「我…帝」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「きし…岸・浜・渚などの言の心は女…(よろこび)来し…(和合)来し」「姫松…若い女…女御…后」「ひめ…姫…秘め」「松…松の言の心は女…待つ」「よ…代…世…夜」。

「おほん神…御本神…神の化身…住吉の神は男神」「げぎやう…現形…姿を現された」「神…住吉の神は筒男命三柱で男神である」「むつまし…親密である…むつみあう仲」「白浪…言の心は男…おとこ波…白汝身…知らなみ…知らない所為で」「いはひ…斎…祝…喜びの意を表すこと…祝言・祝事…井這い…まぐあい」。


 松の「言の心」を女であると心得ることは、この歌と章段を読むための必修条件である。貫之の土佐日記をそのつもりになって読めば、帰京した時、わが家の小松を、亡き女児に喩えて詠んだ歌に当面すれば、松の「言の心」に確信が持てるでしょう。

 

さて、成人したばかりの頃の帝にとって、周囲の大人たちの、はかりごとや計らい事は、承知されていなくて当然であった。帝の御疑問は、姫松の長寿と、姫の夜の秘めごとの「す見好し」有様であったことである。

住吉の神の化身は、帝にほんとうのことをお告げになられた、住吉の神の歌に、ひめまつ(姫松…秘め女…妃め)の正体が顕れている。

 

業平原作「いせのものがたり」であるから、この章は業平の告白である。その裏には、策謀した藤原氏一門の或る人々に対する怨念が漂っている。

 

(2016・8月、旧稿を全面改定しました)