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帯とけの「伊勢物語」
在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみである。
伊勢物語(百十七)住吉の岸の姫めまついくよへぬらん
むかし、みかど住吉にみゆきしたまひけり(昔、帝、住吉に行幸された……武樫・おとこ、身門すみ好しに見行きし、玉ひけり)。
我見ても久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いく世経ぬらん
(我が・帝になって、見てからも久しくなった、住吉の岸の姫松、幾代経たのだろうか……我が見てからも久しくなった、す見好しのきしの姫まつ・あの夜心は、幾夜経たものだろうか)
おほんかみ、げぎやうしたまひて(御神、姿形を現されて…御本神、姿を表わされて・お告げになられた)、
むつましと君はしらなみみづ垣の 久しき世よりいはひ初めてき
(睦ましい仲と、帝は、お知りにならない・白波、瑞垣の久しい神代より、姫松と白波は・祝ごとはじめていた……睦ましい仲と、帝は、お知りにならない・白汝身と姫まつ、神世の久しき夜より、井這い初めていた)
紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。
「みかど…帝…清和帝」「住吉…所の名、住吉神社、名は戯れる。住み吉し、住み好し、す身良し、す見好し」「す…洲…おんな」「みゆき…行幸…見行き…見幸…身幸」「見…覯…媾…まぐあい」。
「我…帝」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「きし…岸・浜・渚などの言の心は女…(よろこび)来し…(和合)来し」「姫松…若い女…女御…后」「ひめ…姫…秘め」「松…松の言の心は女…待つ」「よ…代…世…夜」。
「おほん神…御本神…神の化身…住吉の神は男神」「げぎやう…現形…姿を現された」「神…住吉の神は筒男命三柱で男神である」「むつまし…親密である…むつみあう仲」「白浪…言の心は男…おとこ波…白汝身…知らなみ…知らない所為で」「いはひ…斎…祝…喜びの意を表すこと…祝言・祝事…井這い…まぐあい」。
松の「言の心」を女であると心得ることは、この歌と章段を読むための必修条件である。貫之の土佐日記をそのつもりになって読めば、帰京した時、わが家の小松を、亡き女児に喩えて詠んだ歌に当面すれば、松の「言の心」に確信が持てるでしょう。
さて、成人したばかりの頃の帝にとって、周囲の大人たちの、はかりごとや計らい事は、承知されていなくて当然であった。帝の御疑問は、姫松の長寿と、姫の夜の秘めごとの「す見好し」有様であったことである。
住吉の神の化身は、帝にほんとうのことをお告げになられた、住吉の神の歌に、ひめまつ(姫松…秘め女…妃め)の正体が顕れている。
業平原作「いせのものがたり」であるから、この章は業平の告白である。その裏には、策謀した藤原氏一門の或る人々に対する怨念が漂っている。
(2016・8月、旧稿を全面改定しました)