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帯とけの「伊勢物語」
在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみである。
伊勢物語(百十五)かなしきは宮こしまべのわかれなりけり
むかし、みちのくにゝて(陸奥の国に…未知の世界にて)、男女すみけり(男と女が住んでいた…おとことおんな済んだのだった)。男「宮こへいなん(都へ行くつもりだ…感の極みへ否だろう)」と言う。この女、とっても悲しくて、餞別の宴だけでもしょうと、おきのゐてみやこしま(沖の井手宮古島…起き退いて宮こしま辺)というところで、男に・酒を飲ませて詠んだ。
をきのゐて身を焼くよりも悲しきは 宮こしまべの別れなりけり
(起き退いて、君恋しさに・身を焼くよりも悲しいのは、宮古島辺の別れだったわ……有頂天の宮こに・置きざり退いて、身を焼くよりも哀しいのは、宮こしまの近辺での、果てた貴身との・別れだったわ)
紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。
「すむ…住む…済む…夜の仲は終わった」「みやこへいなん…都へ行くつもり…宮こへ逝くだろう…宮こへ否む…有頂天まで行けないで逝くだろう」「宮こ…都…感極まるところ…絶頂…有頂天」「いなむ…往くだろう…否む…だめなようだ…逝くだろう」「むまのはなむけ…馬の鼻を行き先へ向けること…門出の餞別…退き逝くものへの餞別の宴」「おきのゐて…地名(所在地・漢字表記不明)、名は戯れる。おきのいて、朝起きて寝床を退いて、白つゆ贈り置き退いて、有頂天へ送り置いて退いて」「宮こしまべのわかれ…宮古島辺りでの離別…宮こ近くでの別れ…絶頂に至らぬ辺りでの別れ」。
「女と男の物語」に相応しい味わい深い歌である。旅だつ男との別れ歌としての「清げな姿」がある。「心におかしきところ」は、男女の性の違いによる女性の不満が本音として、言の戯れに顕れている。業平作の女歌のようである。
この歌は、古今和歌集「墨滅歌」に、詠み人は小野小町とある。歌の家々の証本には書き入れられてありながら、墨で消してある歌という。田舎女の歌とは思えないし、小町の歌にしては妖艶さの質が異なるからだろう。
小町の歌の妖艶な余情は弱々しさが魅力。貫之は仮名序で小町の歌を評して「あはれなるやうにて、つよからず、いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり」と記している。今の人々は、言の戯れを知らず、言の心を心得ていないために、「聞き耳」が異なってしまったので、残念ながら、歌の「心におあしきところ」が聞こえない。妖艶な余情が感じられないので、貫之の小町評も意味不明となる。
(2016・8月、旧稿を全面改定しました)