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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで解き直している。早春の清げな情景を詠んだ歌は、人の青春の心を詠んだ歌である。
「古今和歌集」巻第一 春歌上(4)
二条の后の春の初めの御歌
雪の内に春はきにけり鶯の こほれるなみだいまやとくらむ
(雪降る内に、暦の・立春はやってきたことよ、鶯の・春告げ鳥の、凍っていた涙、今、融けているのでしょうか……白ゆきのうちに、情の・春は来たことよ、うくひすの・女の、こほれる汝身唾、井間、とけるのでしょうか)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。
「雪…冬の風物…逝き…白ゆき…おとこの情念」「春…暦の春…季節の春…心の春…春情」「鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…古事記・万葉集・土佐日記などを、その気になって読めば、和歌の文脈では、鶏(かけ)、郭公(ほととぎす)、鶴(たづ)、千鳥などなど、鳥は、女という言の心があって通用していたことがわかるはずである。なぜ、女なのかは、人の理性や論理で把握できることではないので、知らないとしか言えない。言葉の意味などは、皆そういうものである」「こほれる…凍っている…こ掘っている…まぐあっている」「なみだ…目の涙…身の汝身唾」「とく…融ける…解ける」「らむ…推量する意を表す…事実を婉曲に表わす」。
季節の春はまだなのに、立春が来た、春告げ鳥の凍っている涙、今とけているでしょうか。早春の風情は、歌の清げな姿である。
白ゆきの内に訪れた、女の初めての春情のありさま。――これが、公任のいう「心におかしきところ」である。
「うくひすの、こほれるなみだ、いまや、とくらむ」、女のエロス(性愛・生の本能)の表現に、天才的ひらめきが感じられる。初めて訪れた春情をこのように表現できる人はただ者ではない。「鶯の凍れる涙」というおんなのエロスを孕んだ言葉は、もはや誰も、これを用いて歌を詠むことは出来ない。暗黙のうちに、汚さぬように、このまま永久保存されて来たようである。
二条の后が、まだお若くて、ただの人であられたころの、藤原高子(たかいこ)の青春の歌である。「伊勢物語」の女主人公(ヒロイン)として、業平との愛は引き裂かれたが、自ら愛を絶ち切ったようでもある。見目麗しく才たけて自立した、心豊かな女性であったのだろうと想像される。伊勢物語によれば、業平が死ぬまで愛し憎んだ人である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)