帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百十九)形見こそ今はあだなれこれなくは

2016-08-14 19:36:03 | 古典

              



                           帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみである。


 伊勢物語
(百十九)かたみこそいまはあだなれこれなくは

 昔、女のあだなるおとこのかたみとて(女が、はかない男が形見といって…女の婀娜なのが男の片身とて)、をきたる物どもを見て(遺し置いた品々を見て…わが中に・置いた物どもを見て)、

 かたみこそ今はあだなれこれなくは 忘るる時もあらましものを

(遺品なんて、今はむなしく無益な物よ、これがなければ、あの人を・忘れる時もあろうものを……片身こそ、今は・井間には、無駄で無益なものよ、これがなければ、和すこと・忘れる時もあるだろうになあ)


 

紀貫之のいう「言の心」を心得ましょう。枕草子にいう「聞き耳異なるもの、それが、われわれの言葉」と知りましょう。

「女の…女が…女の」「の…主語を示す…所有・所属を表す、同格を表す」「あだ…徒…誠実では無い…浮ついてはかない…無駄・無益…婀娜…なよなよと色っぽい…艶めかしい」「かたみ…形見…遺品…片見…中途半端なまぐあい…片身…充実していないおとこ」「おきたる物ども…遺し置いた形見の品々…遺し置いた片身の貴身」「ども…複数を表す…親しみを表す」「見…覯…媾…まぐあい」。

「今は…井間は…おんなにとっては」「わするゝ…忘れる…忘却する…和するる…和合する」「ものを…のに…のになあ…詠嘆の意を含むこともある」。

 

「女のあだなる」から、文も歌も聞き耳により異なる意味にとれるように語られてある。どのように聞くのが正当かは定めることは出来ない。この文脈に居る人の「聞き耳」は、両義とも聞き取るのである。

男のさが()の弱点は、一過性の片見で、片身となって、「ほ伏し」となり「立しない具」と成り、その欲を失くすことである。この女の歌は、それを揶揄した。さすがの「武樫おとこ」も老いたか、自嘲的な業平作の女歌と思われる。

この歌、古今和歌集では巻第十四、恋歌四の巻末に置いて、「題しらず」「よみ人しらず」とする、歌の内容から、勅撰集としてはこのような扱いになるでしょう。


 「伊勢物語」は、「在五中将の日記」とも言われるように「業平の日記」として読めば、土佐日記や後に生まれる女房日記の親である。また、近代の「私小説」の祖である。私的な実録に近いことが語られる。独白の生々しい心音が今の人々にも伝わるはずである。


 
2016・8月、旧稿を全面改定しました)