帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百九)いづれを先にこひむとかみし

2016-08-04 19:11:40 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみで「心におかしきところ」の無い味気ないものにしてしまった。


 伊勢物語
(百九)いづれを先に恋ひむとか見し

 
 昔、男、ともだちの人をうしなへるがもと(友達が女人をなくした許…伴立ちがおんなを失った許)に、やりける(言い送ったのだった…言ってやったのだった)。

 花よりも人こそあだになりにけれ  いづれをさきに恋ひんとか見し

(花よりも、妻女こそ先に、亡くなられたのだなあ、どちらを先に、恋しいと見初めたことか・はかない命だったなあ……おとこ花の散るよりも、女が先に、むなしくなってしまったのだ・珍しいなあ、どこを先に乞いしいよと、咬んだのか)

 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る。

 「ともだち…友達…共立ち…伴立ち…一生伴なっているもの…おとこ」「立ち…位置を占めている…立って居る」「うしなへる…亡くした…失った…逝ってしまった」「花…木の花…おとこ花…散りやすいもの…はかないもの」「こひんとかみし…恋しいようとか見た…乞いしいよと咬んだ」「見し…思った…覯した・まぐあった」「かみ…かむ…噛む…咬む…甘咬みする」「し…強意を表す」。

 

この歌の趣旨は、はかなく散る木の花に喩えられる男の性(さが)と、比較的長寿の女のさがを前提にした「心におかしきところ」にある。

 

歌は古今和歌集に、紀望行作としてある。紀望行に贈られた業平作の歌とすると、つじつまが合う。紀望行は紀貫之の父で、業平とほぼ同じ時代を生きた人。望行も亡くなった後、その文箱から出てきた歌だろうと推定される。

古今和歌集 巻第十六哀傷歌の詞書は、

「桜を植えてありけるに、やうやく花さきぬべき時に、かの植えけん人、身まかりにければ、その花を見てよめる」。ほぼ、次のように読める(庭に桜を植えてあったので、ようやく咲いた時に、その木を植えた人(妻女)が、亡くなったので、その花を見て、四十九日に、夫が・夫の友人が詠んだ)。

はなよりもひとこそあだになりにけれ  いづれをさきにこひんとかみし

 

歌をどのように聞くか、どのように聞こえるかは、結局、聞き手の耳に委ねられる。清少納言が、我々の言葉は「聞き耳異なるもの」であると言うのは、そのことである。この言語観は、西洋の哲人たちが二十世紀になって、気づきはじめた言語観に近いであろう。人間が紡ぎ出した言葉とは言え、その理性的論理ないし論理的理性が言語の成り立ちのすべてを把握することは出来ないのである。発せられた言葉の意味を後の人が、その意味を確定的に一つに決めつけることなどできないのである。ではどうすればいいか、紀貫之の教える通り、「言の心」を心得ることである。言の心は、その言葉が発せられた文脈で通用していた意味である。それを心得ることである。

例えば「花」と言えば「木の花…桜…男花…おとこ花」と言う意味がまかり通っていた時の歌であるから、そうと心得て聞くべきである。それを「花」と言えば美しいものとして女性的イメージを持ってしまった文脈でこの歌を解けば、解釈を誤解の彼方に追い遣るだけである。


 
2016・8月、旧稿を全面改定しました)