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帯とけの「伊勢物語」
在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみである。
伊勢物語(百十四)けふばかりとたづもなくなる
むかし、仁和の帝、芹川に行幸された時、今はもう、そのようなことは似つかわしく思わなかったけれど、元その役に付いていた事なので、大鷹の鷹飼として仕えさせておられた・その鷹飼の翁、摺り染めの狩衣の袂に書きつけていた。
翁さび人なとがめそかり衣 けふばかりとぞたづもなくなる
(翁じみていると、人よ咎めるな、この狩衣、着るのも・今日が限りねと、哀れがって・鶴も鳴いている……老いぼれていると人よ咎めるな、かりする身と心・かり頃も、京近かしと・感の極みごろと、女も泣く、成る)。
おほやけの御けしきあしかりけり(帝と公卿たちの御気色お悪かった)。をのがよはひを(翁は・おのれの年齢を…翁は・おのれの夜這いを)思ったのだけれど、若くはない人々は、きゝおひけりとや(聞いて老いを感じたとか…聞いて負い目を感じたとか)。
紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。
「かり衣…かりごろも…かりする心身」「かり…猟…めとり…まぐあい」「衣…ころも…心身を被うもの…心身の換喩…身と心…頃も」「けふ…今日…京…山ばの頂上…絶頂…感の極み」「ばかり…だけ(限定する意を表す)…ほど(程度を表す)」「たづ…鶴…鳥の言の心は神世から女である」。
「よはひ…年齢…夜這い…まぐあい」「おひ…老い…負い…負担…負い目」「おおやけ…天皇と朝廷…天皇を取り巻く公卿たち…仁和の帝・太政大臣藤原基経・左大臣源融ら」。
古事記などを、そのつもりになって一読すれば鳥は女であると心得ることが出来る。八千矛の神のみことが、高志の国の沼河ひめを娶ろうとして、その家に至って詠まれた歌、「高志の国に、賢し女をありと聞かして、麗し女をありと聞こして、さよばひいにありたたし、よばひにあり通はせ、太刀が緒も未だ解かずて、襲緒も未だ解かねば、をとめの寝すや板戸を押そぶらひ我が立たせれば、引こずらひ我が立されれば、青山に鵺(ぬえ)は鳴きぬ、さ野つ鳥雉(きぎす)はとよむ、庭つ鳥鶏(かけ)は鳴く、心痛くも鳴くなる鳥か、この鳥もうち止めこせね」とある。鳴く鳥の声は、沼河ひめの女房や女官たちの泣き騒ぐ声である。戸を開けず、内よりお応えになられた沼河ひめの歌は、「ぬえ草の女にしあれば、我が心浦洲の鳥ぞ、今こそは我鳥にあらめ、後は汝鳥に吾らむを、命はな死せ給ひそ」という。ここで鳥は女以外の何であろうか、ただの鳥としか聞こえないならば、歌を聞く耳を持たない、大和言葉圏外の人となってしまったのである。清少納言はそのような人を外衆(げす)という。
さて、陽成天皇(御母は二条の后)に良からぬことがあって、若くして退位させられ、代わって仁和の帝(光孝天皇)が即位された。太政大臣藤原基経の権力と計らいであった。仁和の帝は御年五十七。時の左大臣源融(六十三歳)は、『大鏡』によると、この時「位につかせたまはん御心ふかくて『いかがは、近き皇胤をたづねば、融らもはべるは』と言ひ出で給へる」とある。自ら即位する意欲深かった。それを押し止めたのも、藤原基経(五十歳)であったという。
仁和の帝の即位一年後の芹川行幸のとき、業平はすでにこの世にいなかった。この翁は兄の在原行平(六十八歳)であろう。伊勢物語の業平の意志は受け継いで、この奇妙な退位と即位を秘かに風刺した章である。その対象の中心人物こそ、高子の兄、藤原基経で、帝をはじめその周辺の、老人ぶりを風刺した。風刺は相手に突き刺さらなければ面白くない。ご機嫌が悪くなるほど帝・太政大臣・左大臣には効目が有ったらしい。
大役を仰せつかった翁の狩衣の袂に、この歌の文字が書きつけられてあった。業平の形見の狩衣かもしれない。
歌の「清げな姿」は、これが最後のご奉仕であるという邪気のない心である。歌の「心にをかしきところ」は、我がおとこは、老いても、感の極みの京へ女を喜びに泣いて成らせられるぞという、業平的心が顕れている。
(2016・8月、旧稿を全面改定しました)