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帯とけの「伊勢物語」
「伊勢物語」は在原業平(825~880)原作の歌物語である。平安時代の歌論と言語観に従って歌の奥義を明らかにしつつ読み、歌の「清げな姿」だけではなく、深い主旨や妖艶な趣旨が歌言葉の戯れに顕れる様子を示してきた。歌に顕れる色好みで妖艶なエロス(性愛・生の本能)が、一千数百年経っても残っているので、今の人々の心に直に伝わるはずである。「清げな姿」しか見えていなかった国文学的解釈による「伊勢物語」は氷山の一角であった。
もとより和歌はエロチシズムの有る文芸である。人麻呂・赤人の歌をはじめ、全ての和歌の底辺にはエロスが満ちている。ただ、業平の歌のそれ(性愛・生の本能)は、怨念が加わって最も淫らな和歌である。伊勢の海の底へ沈めてしまいたくなる代物である。とはいえ、この世から消してしまえるような単純で軽薄なものではないと思えるならば、紫式部の「伊勢物語」読後感と一致する。
伊勢物語(百二十四)止みぬべき我とひとしき人しなければ
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、いかなりける事を思ひけるおりにか(如何なる事を思った折りだったのか…井か成りける事を思った折りにか)、よめる(詠んだと思われる・歌…詠んだ・歌)、
思ふこと言はでぞただに止みぬべき 我と等しき人しなければ
(思うことを言わないで、ただこのまま止めてしまうのがいいだろう、我と同じ志の人はいないので……思いを交わせず、ただ止んでしまうのだろう、我と等しい思いの女なんていないので)
言葉の多様な意味を知る
「いかなりける…如何なりける…井か成りける」「井…言の心はおんな」「なり…断定の意を表す…成り…思ひが成就する」。
「思ふこと…藤原氏の或る一門の専制的摂関政治を憂える思い…その一門への怨念…その一門の或る女人への愛憎…女と男に関する思い」「我とひとしき人しなければ…この体制に抵抗する同志はいないのだから…孤独な闘争だから…我と等しい思いの女なんていないのだから…女のさがは、武樫おとこといえども太刀打ちできない程のものだから」。
「伊勢物語」は業平の孤独な葛藤の日記である。同志はいない、憎き相手を打ち負かすことは出来ない。女性と等しい思いの男性はいない、和合成る事は難しい。これを結論にして、物語も、そそそろ終りにしようという歌のようである。
「伊勢物語」のここ数章には、女の思いの現実的で強力な様子が語られてあった。「這い伏せば、絶えぬという心が嬉しくもない」「形身(片身)こそ、いまはあだなれ、これ無くば、和するる時もあらましものを」「契れること忘れたのかと、未練がましいおとこに、応えもせず」「疾し尽きを経てしまったおとこに、いでてゆけば折るという深草の女の、思いの深さ」など、おとこの思火の遠く及ばないところだろう。
国文学は以下に示す平安時代の歌論と言語観を曲解するか無視してきた。
原点に帰って古典和歌を解き直せ、国文学的解釈から脱却せよと、警鐘を鳴らしつづける。
○紀貫之のいうように、「歌の様」を知り「言の心」を心得る人になれば、歌が恋しくなるという。
○藤原公任は歌の様(表現様式)を捉えている、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしき所ある、すぐれたりといふべし」と。優れた歌には複数の意味が有る。
○清少納言がいう、聞き耳異なるもの、それが・われわれの言葉であると知ろう。発せられた言葉の多様な意味を、あれこれと、決めるのは受けての耳である。今の人々は、国文学的解釈によって、表向きの清げな意味しか聞こえなくなっている。
○藤原俊成は「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕われる」という。顕れるのは、藤原公任のいう「心におかしきところ」で、エロス(性愛・生の本能)である。俊成は「煩悩」といった。
(2016・8月、旧稿を全面改定しました)