帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(百十八)玉かつら這う木あまたになりぬれば

2016-08-13 19:22:24 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈に顕れるのは、歌や物語の「清げな姿」のみである。


 伊勢物語
(百十八)玉かつら這う木あまたになりぬれば


 昔、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、ひさしくをともせで(久しく便りもしないで…久しくおとづれもせず)、「わするゝ心もなし、まいりこむ(忘れる心はない参るつもりだ…見捨てる心はない、和するる情は尽きた、有頂天へ・共に参るつもりが)」と言ったので、

 玉葛はふきあまたになりぬれば 絶えぬ心のうれしげもなし

  (庭荒れて・玉葛這う木が多数になったので、いまさら仲・絶えないという心が、嬉しくもないわ……玉且つら・立派な且つら木、這い伏すけはい多くなったので、貴身の・絶えないという心が、嬉しくもないわ・和する見こみ無しね)


 

紀貫之のいう「言の心」を心得て、枕草子に「聞き耳異なるもの」というほどの言葉の戯れを知りましょう。

「わするゝ心…忘れる心…みすてる気…和するゝ情…和合する気」「まいりこむ…参り来るつもり…(感の極み)やって来るだろう…尽き果てるだろう」。

「玉かづら…玉葛…這う木…男木…玉かつら…玉且つら」「玉…美称」「且つ…またも…復数…繰り返し」「ら…情態を表す」「はふ木あまた…這う木多数…わが庭荒廃…這い伏す気多数」「木…言の心は男…気…おとこ」。

 

歌の清げな姿は、浮気な男に、訪問お断りの容赦のない女の返事である。

歌の心におかしきところは、たぶん老いて、這い伏し、見捨てるおとこに、和する見こみ無しねと、おんなの本音での冷たい通告である。

 

おとこの性の衰えに、女のほんとうの心を言葉にて表した業平作の女歌だろう。


 歌詠みと言われる人は、他人の立場でその人に相応しい心情の歌を詠むことが出来るのである。業平「伊勢物語」、貫之「土佐日記」、紫式部「源氏物語」の登場人物のほとんどの歌は物語の作者が詠んでいるのである。

 

この歌は、古今和歌集、恋歌四に詠み人知らずとしてある。大方の国文学的解釈では、この詠み人知らずの歌を用いて、誰かが、この章段を作り、伊勢物語を増補したと意見が一致しているようである。平安時代の歌論と言語観を無視して、歌と歌物語の「清げな姿」しか見え無いままに導き出された結論の定説化にも、警鐘を鳴らす。


 (
2016・8月、旧稿を全面改定しました)