帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」巻第一春歌上(5)春かけて鳴けどもいまだ雪は降りつつ

2016-08-29 19:19:12 | 古典

               


                            帯とけの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


 「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って解き直す。
 早春の清げな景色などは、歌の「清げな姿」で、「心におかしきところ」が歌言葉の戯れの意味を利して詠み添えられてある。

 

 「古今和歌集」巻第一 春歌上(5)

 

題しらず                 よみ人しらず

梅が枝にきゐるうぐひす春かけて 鳴けどもいまだ雪はふりつつ

(梅の枝に来て居る鶯、春かけて・春よ春よと、鳴いているけれども、未だ雪は降りつづく……わが身の枝に、気入る、うぐひす・をみな、はるよはるよと、泣けども、いまだ・井間だ、白ゆきはふり、つつ・筒)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る。

「梅…木の花…言の心は男花…春のお花」「枝…木の枝…身の枝…おとこ」「きゐる…来て居る…きいる…気入る…気持ちが入る」「うぐひす…鶯…鳥…言の心は女…をみな」「春…季節の春…青春…春情」「かけて…懸けて…心にかけて…心をそそいで…言葉に出して」「鳴けども…泣けども…(感極まって)泣くけれども」「いまだ…未だ…今だ…井間だ…おんなに」「つつ…継続・反復の意を表す…筒…おとこの果ての自嘲的表現」。

 

詠み人知らずとあるが、男の歌として聞いた。

歌の清げな姿の、梅が枝で鳴く鶯の声、降る雪、早春の景色は、歌の氷山の一角で、その底には、色好みな余情が隠れている。

「歌のさま」を知り「言の心」と言の戯れの意味を心得た人に顕れるのは、和合の極致を彷彿させる女の声と、なおもおとこ白ゆきの降る情景である。終に筒となるのは男のさが――これが歌の、心におかしきところと、心深きところである。

 

国文学的解釈により、歌の「清げな姿」しか見えない近代から現代の真摯な人々は、古典和歌にそのような色好みな意味があるわけがないと思われるだろうが、古今集編纂以前の或る時期に、色好み歌の氾濫となっていたのである。古今和歌集に採られたこの歌などは、比較的上品な歌だろう。
 仮名序に、歌の凋落ぶりを嘆いて次のように書かれてある。「今の世中、色につき、人の心、花に成りにけるより、あだなる歌、はかなきことのみ出で来れば、色好みの家に、埋もれ木の、人知れぬことと成りて、まめなる所には、穂に出だすべきことにも有らず成りにたり」。

「いろにつき…色に付き…色を手掛かりとし…色に尽き…色に尽き果て」〔色…好色なこと…色情的なこと」「あだなる歌…不実な歌…不真面目な歌…婀娜な歌…なよなよと色っぽい歌」「はかなきこと…儚き事…儚き言…つまらない言葉、無益な言葉、感動の無い言葉など」「まめなるところ…公の場…真面目な所」。


 色好みの家に埋もれた歌が、実際、どのような歌か想像できるようになって、はじめて、この仮名序の文章を読むことができる。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)