思い出のノーサイド

カメラがつなぐパス ラグビーを撮り続けて

網走の思い出1995

2006-07-23 21:13:30 | ラグビー・思い出話

網走に始めて出かけたのは95年の夏でした。

94年に写真展を終えてから派遣会社の短期の仕事を

繰り返しつとめていたものの長期の依頼があり、働いてゆけるめどがついたので決めました。

何度か月寒に来た強豪社会人チームに、夏合宿の撮影許可をいただきました。

93年・94年と作品を送って差し上げていたチームです。

この年は阪神大震災があり、月寒ラグビー場の招待試合は

神戸製鋼と明治大学の試合が組まれた年でもあります。

カメラメーカーでは新機種の発表がありました。被災地から来るチームを

新しいカメラで撮影しようと貯金をくずして買った時、作品も新しくなっていく事を

願わずにはいられませんでした。

 

網走へは行きが夜行列車、

帰りが女満別(メマンベツ)空港から飛行機です。

飛行機は日本エアシステムでした。事務員の私は、自分一人で月末締めをする日に

休みをとることにためらいがあったので、強行スケジュールとなりました。

「また行くのか」という父親の冷たい言葉、母になった友達の

「あべちゃんがカメラを買うお金で、うちは車を買って子供を乗せてるよ。」

という言葉を思い出し、重々しい心のまま列車に乗りました。

 

カメラやレンズがなぜ批判の対象になるのかわかりません。

自分が心から思う人と誰からも祝福され結婚し

子供を持てたということはお金にかえられない幸せであり

私にはその幸せがない分、自分のお金で機材を買っただけなのに・・・。

札幌から距離が進むにつれ少なくなっていく民家の窓明かりを見て思いました。

 

足元に置いたレンズが心配で、なかなか眠れず網走到着。

晴れて涼しい風が吹く朝、ハーフマラソン大会にそなえて

調整に走る集団ランナーの姿が見え

「このすがすがしい風景を見られるだけ幸せ。もう落ち込まない。」

気持ちを切り替え、一歩踏み出しました。練習を見に来る人はごく少数。

主務の方に挨拶をして淡々と進む撮影。 網走トレーニングフィールドは

気持ちが良いくらいボールがよくはずむグラウンドでした。