赤峰和彦の 『 日本と国際社会の真相 』

すでに生起して戻ることのできない変化、重大な影響力をもつ変化でありながら一般には認識されていない変化について分析します。

悪政と左翼メディアの報道が戦争と大災害を呼び起こす コラム(253) 

2018-03-21 14:14:52 | 政治見解



コラム(253):
悪政と左翼メディアの報道が戦争と大災害を呼び起こす



メディアの扇動がもたらすもの

紛争や戦争、大規模災害は、人びとの怒り、憎しみ、悲しみ、恐怖の心が社会全体に蓄積され、一定の臨界点に達した時に起きているように思います。

科学的なメカニズムは研究結果を待つとして、心を科学する学者の多くが「一人ひとりの意識の集合エネルギーが、人びとの行動や国家の方向性、ひいては地球の気象活動に影響を与えている」と指摘しています。

人びとの思考や価値観のもとは、たいていの場合、生まれてから現在まで受けてきた教育や、書籍、新聞、テレビなどのメディアからの情報から成り立っています。

つまり、そうした情報が人々の心を特定の方向に誘導しているのです。

特にメディア自体が、人と人、組織と組織、国と国の対立や争いなどの騒動を煽りたてる特性を持っているため、メディア情報が紛争や戦争を誘発し、さらに人々の憎悪や悲しみを増幅し、そのエネルギーが世界のあちこちに鬱積するという悪循環が繰り返されています。


熊本大地震

2016年4月の熊本大地震、その前年9月には、関東・東北で歴史的な豪雨(鬼怒川決壊)という大規模災害がありました。政府の対応が早く人災とならずに済んだとは言え甚大な被害に見舞われました。

この年の政治情勢は、安全保障政策を大きく転換させる安保法制をめぐり、国会が騒然とし、野党による審議の妨害や政権打倒の集会などが繰り返され、これを応援する朝日新聞はじめ左翼メディアは意図的に政権批判の方向に世論誘導しました。新聞の社説や報道番組では「違憲法案」「民意無視」「国民の声を聞け」、さらに、「戦争法案」「徴兵制の復活」等の言葉で煽りたて、国民の不安を増幅させたのです。

メディアによる真偽混在の情報が国民のいら立ちと不安を臨界点に誘導したことは記憶に新しいと思います。


東日本大震災

2009年に発足した民主党政権は、外交・安全保障政策の迷走、選挙公約の破棄、経済政策の失敗など、わずかな期間の間に国民の期待を失望に変えました。鳩山政権を引き継いだ菅直人政権のときには、民主党内の対立が深刻化し16名もの会派離脱者が出るなど政治は混迷を極め、人心は政治不信の頂点に達していました。そんなときに東日本大震災が起きたのです(2011年)。

この大災害に際し官直人総理は、自身の保身を優先させ、何ら有効な手を打てず、歴史上まれにみる人災となったことは記憶に新しいと思います。

民主党政権は朝日を筆頭とする左翼メディアの肝いりで発足した政権です。民主党政権が発足した当時の朝日新聞記事では、「民主党圧勝、政権交代―民意の雪崩を受け止めよ」との大見出しを載せ新聞社挙げて喜びを表しました。

東日本大震災被害発生と被害拡大の遠因が民主党政権と朝日新聞社にあることを決して忘れてはなりません。


阪神淡路大震災


1995年の阪神淡路大震災時は、自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の時代に起きました。思想的に対極にある自民党と社会党が、政権奪取という利益のために野合し村山政権が発足したのです。

したがって、外交政策は社会党の方針である中国や韓国に傾斜し、経済政策は自民党の利権政治という党利党略や国会議員の利権保全のために利用する政治が幅をきかせていました。そのため、国民にとっては将来の展望が全く見えない政治状況がつづき、政治への失望感が人心を荒廃させていました。

大震災の起きた当日は、社会党の山花貞夫氏が社会党の枠を超えたリベラル勢力を結集する新党の結成を図り、24名の国会議員が院内会派からの離脱を届け出た日でもありました。社会党出身の総理大臣村山富市氏は、政局に気を取られ、震災初動の対応をせず、大規模な人災を引き起こしてしまいました。

なお、大震災やオウムサリン事件以降、村山内閣は朝日新聞に支配されたようで、それまでの自衛隊容認、日米安保堅持などの保守的な見解よりも、左派政権としての色合いを強く出し始めています。その典型が、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議(衆議院)」や「戦後50周年の終戦記念日にあたって(村山談話)」で、文中には「日本の植民地支配」「アジア諸国への侵略」という朝日新聞の歴史観が随所に見られます。

これにより、日本の近現代史の歴史観は歪められただけでなく、近隣諸国からの対日要求をエスカレートさせる原因をつくりました。それが、国民の苛立ちを一層つのらせるものとなり、東日本大震災の遠因にもなっています。


伊勢湾台風

60年安保の時代、国論は二分していました。安保改定前年の1959年には、全学連はブント(共産主義者同盟)が主導権を握り、警官隊と衝突、国会乱入、羽田空港座りこみなどの行動を起していました。また、社会党と総評が組織した安保改定阻止国民会議が一斉行動を起し、39都道府県で160万人が参加(主催者発表)との記録があります。

これらの事件を通じて、左翼メディアは連日の報道で大衆行動を加速させました。その背景にはソ連のプロパガンダ工作があり、ナショナリズムを反米へと転換させたものと言えます。

そのような騒乱状態の1959年9月、日本列島に伊勢湾台風が発生。犠牲者5,098人(死者4,697人・行方不明者401人)・負傷者38,921人にも上る大災害となりました。ほぼ全国に及んだ経済的被害は阪神淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵するものでした。


関東大震災


関東大震災の淵源は、日露戦争の講和条約に反対する国民集会で発生した日比谷焼き討ち事件(1905年)です。その原因をつくったのが朝日新聞でした。

朝日新聞は「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと戦争継続を主張。この扇動により暴徒化した民衆が内務大臣官邸、国民新聞社、交番などを襲撃し、死者17名、負傷者は500名を数えました。東京は無政府状態のため戒厳令が敷かれました。当然のように人びとの怒りや不満が蓄積していました。

第一次世界大戦後の日本は、中国山東省のドイツ権益を確保しましたが、ワシントン会議(1922年)では、アメリカから、山東省権益放棄、海軍の縮小、日英同盟の破棄などの要求を突きつけられました。加藤友三郎首相はこれを受け入れましたが、山東省権益が喪失したこと、海軍軍縮条約に協調外交への不満、普通選挙法の否決などをめぐり、人びとの怒りが限界に達した1923年9月1日、関東大震災が起きました。加藤友三郎首相はその数日前に急逝していたため、後継総理が決まらないままの中での大災害となりました。


大東亜戦争の原因をつくった朝日新聞


日本が満州事変から大東亜戦争にいたるまで、戦争の道の進んで行ったのは、朝日新聞の扇動によるものです。朝日新聞は、満州事変が始まると戦争推進派の評論家などを動員し全国で講演会や戦地報告会を開催や、朝日のカメラマンが現地で撮影してきたニュース映画を上映することで、戦意高揚をはかるなど、軍の広報の役割を積極的に演じ戦争世論を形成しました。

1940年時点で、軍部は、戦争継続可否を悩んでいる中、朝日新聞に扇動された人びとによる戦争継続の声に押され、1941年12月大東亜戦争の開戦を選択しました。

朝日新聞は、その後戦況が不利になっても「神風が吹く」「敵が来たらば一億総特攻で追い落とそう」などと人びとを煽り続けたのです。

戦争における日本人犠牲者数は、兵員1,740,955人、民間人393,000人に及び、国土にも甚大な被害が及びました。

なお、終戦前後の4年間では1000名を超える死者を出す4大地震(鳥取地震、三河地震、東南海地震、昭和東南海地震)が起きています。1947年には死者 1,077名、行方不明者 853名を出したキャサリン台風に襲われました。怒りや悲しみの想念の蓄積が戦争にも自然災害にも大きく影響を及ぼしていることがよくわかると思います。


さらに、1703年に関東地方を襲った元禄大地震、1707年の全国規模の宝永大地震は、1702年12月の赤穂浪士の討ち入り、その翌年の赤穂浪士の切腹と遺児の島流しが世の中を騒然とさせた時代でした。


過去の大規模災害や、飢饉などの事例は、必ずその背景に戦乱や精神の荒廃がありました。無関係であるとは言い切れないと思います。

その意味で現下の日本の人心の動きを見ると、大災害の危険性がかつてないほどに高まってきたように思えてなりません。

国会では野党が問題の本質を政権打倒目的にすり替え、騒ぎを大きくしたいメディアが煽るため、多くの人びとの心の中が怒りで満ちるようになりました。すでに人びとの怒りは臨界点近づき、いつ大規模な災害が起きても不思議ではない状況にあります。

国民のだれもが本当は災害を望んではいません。

政治家は政治信念と政策で議論し低次元の争いをやめ、メディアは扇動をやめていただきたい。

そして、私たちは冷静になって、「平和や安全はまず自分の心の中で築くものである」ことを信じたいと思います




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