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師走の九州旅~その6 平戸にて、歴史に浸る

2019年12月24日 08時31分00秒 | 泊りがけの旅行

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前回からの続き~

平戸市内にて。

通りを歩いていたら、英国商館跡の石碑を発見。

直ぐにはピンと来なかった。

江戸時代の初期の頃の話。

さらに歩いて、町家の商家に到着した。

 

行きたかったもう一つの場所は蔦屋さんの直営店「按針の館」。

店舗の脇の座敷はイートイン。

 

お土産のカスドースを買って、別途1つ買って、

200円の珈琲も買って、カフェタイム。

この建物が築何年かは知らない。

もともと建っていた町家をリノベーションしたのかなぁ、という気はする。

昔、イギリス商館があった頃はウィリアム・アダムス、つまり三浦安針が住んでいた場所らしい。

そういえば、安針が乗り組んでいたオランダのリーフデ号が漂着したのは、1600年のことだった。

関ヶ原の戦いがあった年だ。

ちなみに漂着したのは大分の臼杵だったそうで。

当時は豊臣政権だったけど、政務機能は果たしていなかったのだろう。

家康がリーフデ号の乗組員と謁見したのだそうな。

で、ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスが家康に気に入られたそうな。

というところは日本史の授業で習った。

あとは映画で『将軍』ってのがあったなぁ。←テレビで視た。

でも、2人の外国人がその後どうなったかなんて、気にしたことなかった。

ヤン・ヨーステンは屋敷を給わったし、←その場所が八重洲

ウィリアム・アダムスは日本名と領地を与えられたくらいだから、

徳川幕府に仕えて、生涯を終えたのだろうと、なんとなく思っていた。

が、今回改めて確認したら、違ってたね。

ヤン・ヨーステンの方は日本を出て、ジャカルタに渡ったものの、航海中に溺死?したらしい。

三浦安針も家康亡き後は幕府内で居場所を失ったようで、

平戸に移り住み、オランダ商館より安い賃金で母国イギリス商館で働いていたそうな。

そして、1620年に不遇のまま没し、お墓もあるらしい。

じゃあ、京急線の安針塚駅は何?

そっちにもお墓あるらしいけど、実際には領地を与えられただけ~だった?

なんて、歴史のあれこれに思いを馳せる。

そもそも平戸島は遣隋使や遣唐使の寄港地だったそうだ。

鎌倉時代も南宋留学からの帰りに栄西も立ち寄ったらしい。

そうした古くから栄えた貿易港で、松浦氏が水軍の拠点とし、

室町時代末期にポルトガル船が来航した。

フランシスコ・ザビエルも来たらしい。

そういえばカスドースはポルトガルのお菓子からきてるらしい。

ポルトガルはキリスト教の関係で長崎の出島での貿易に制限された挙げ句に撤退し、

イギリスも1923年だっけ?オランダとの競争に敗れ、撤退した。

オランダは1940年にポルトガルが去って空き地ななっていた長崎の出島へ引っ越した。

ポルトガル船来航から約90年間に及んだ南蛮貿易は終焉を迎えてしまったけど、

その名残は街のあちこちに残っている。

束の間のカフェタイムの後、裏から出た。

空き地だけど、かつては商家が建っていたと思われる。

その向こうは運河だったろう河があった。

海に向かって歩くと、古い石橋があった。

 

鏡橋。400年くらいの歴史がありそう。

橋を渡った先に英国商館跡の石碑があった。

ちなみに、石碑の隣に平戸市役所が建っていて、その先が平戸城。

河の底にあった大きな錨も見学して、平戸桟橋のバスターミナルへ戻り始めた。

420~450年前、この港にはこんな帆船が停泊してのねぇ。

時間がまだあったので、バスターミナルを通過してオランダ商館(建物は復元)へ。

 (有料なので、中には入らず)

オランダ商館の前から海を眺めた。

 平戸口桟橋と平戸大橋が見える。

バスターミナルに戻ってバスを待った。ちょうど「今年の漢字」が発表される瞬間を見た。

 やっぱ「令」だよねぇ。

14:26のバスで駅へ戻った。

戻りは貴重なたびら平戸駅前まで行くルート!

次回に続く~
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