国際サービスマネージメント協会の会合にて「SE(システム工学)手法で解き明かす本能寺の変」と題して講演いたしました。場所は代々木公園の側の国立青少年センター。出席者は30名弱で、皆さん同じIT業界の方々でしたので、大変興味深く聴いていただきました。ミーティング後の懇親会でもいろいろな方が話しかけてくださり、大いに盛り上がりました。「安住紳一郎の日曜天国」の放送を聞いてくださっていた方も1人いらっしゃり、この番組の人気の高さをあらためて実感しました。
★ 「安住紳一郎の日曜天国」出演
よい機会を作ってくださった国際サービスマネージメント協会事務局の方々に感謝しております。
【2010年5月22日記載】
国際サービスマネージメント協会というIT関連の保守サービスを事業とする企業の協会で講演することになりました。第129回定例ミーティングで「仮想化技術を要件に進展するクラウドコンピューティング市場」という別の方の講演のあとに「SE手法で解き明かす本能寺の変」というテーマでお話をさせていただきます。ちょっと変わった組み合わせですね。
私にはSE(システムエンジニア)という職業にかなり思い入れがあります。私が会社に入った1970年代は日本のコンピュータ・ソフトウェア開発事業の創生期でした。SE作業の教科書がない時代でしたので、どうすればよいかを自分で全て考えて工夫しました。とても苦労しましたが、そのお陰で工夫する楽しさとその結果の成功の感激をたくさん味わいました。自分の工夫したやり方にも自信を持ちました。
その当時に培った能力が30年近くたって、本能寺の変の真相解明という畑違いのことに生かせました。SEの経験がなければ、おそらく解明はできなかったと思います。
歴史上の事件に関する大量の史料を読み解いて、そこから本当に起きたことを復元する作業は、大量のプログラムを読み解いて、そこからシステムの仕様を復元する作業と極めて似ていました。加えて、情報を取り扱う厳密性において、SEは職業柄、極めて厳密であることが大いに生きたと思います。
講演では、SEの能力が歴史研究という全く無縁に思われる領域においても成果を生み出しえるものであることを「本能寺の変の謎解き」という具体的な事例でご紹介して、SEの方々の参考にしていただこうと思います。短時間(質疑応答含めて50分)ですので解き明かした真実の説明は簡単にして(通常1時間以上かける話を5分程度に)、実際に活用したSE手法を中心にご説明します。
IT業界は3K職場だとして昨今の学生には就職先として人気がないと聞きます。誠に残念なことです。SEという仕事の楽しさを少しでもお伝えできれば、と考えております。
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
★ 本能寺の変の真実解明に駆り立てたもの
★ 本能寺の変の真実解明に駆り立てたもの(続き)
★ 真実解明に駆り立てた「子孫の思い」
★ 真実解明の手法「歴史捜査」
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』あらすじ
★ 著者のプロフィール
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ連載中!】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続きの続き)
★ 「安住紳一郎の日曜天国」出演
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【2010年5月22日記載】
国際サービスマネージメント協会というIT関連の保守サービスを事業とする企業の協会で講演することになりました。第129回定例ミーティングで「仮想化技術を要件に進展するクラウドコンピューティング市場」という別の方の講演のあとに「SE手法で解き明かす本能寺の変」というテーマでお話をさせていただきます。ちょっと変わった組み合わせですね。
私にはSE(システムエンジニア)という職業にかなり思い入れがあります。私が会社に入った1970年代は日本のコンピュータ・ソフトウェア開発事業の創生期でした。SE作業の教科書がない時代でしたので、どうすればよいかを自分で全て考えて工夫しました。とても苦労しましたが、そのお陰で工夫する楽しさとその結果の成功の感激をたくさん味わいました。自分の工夫したやり方にも自信を持ちました。
その当時に培った能力が30年近くたって、本能寺の変の真相解明という畑違いのことに生かせました。SEの経験がなければ、おそらく解明はできなかったと思います。
歴史上の事件に関する大量の史料を読み解いて、そこから本当に起きたことを復元する作業は、大量のプログラムを読み解いて、そこからシステムの仕様を復元する作業と極めて似ていました。加えて、情報を取り扱う厳密性において、SEは職業柄、極めて厳密であることが大いに生きたと思います。
講演では、SEの能力が歴史研究という全く無縁に思われる領域においても成果を生み出しえるものであることを「本能寺の変の謎解き」という具体的な事例でご紹介して、SEの方々の参考にしていただこうと思います。短時間(質疑応答含めて50分)ですので解き明かした真実の説明は簡単にして(通常1時間以上かける話を5分程度に)、実際に活用したSE手法を中心にご説明します。
IT業界は3K職場だとして昨今の学生には就職先として人気がないと聞きます。誠に残念なことです。SEという仕事の楽しさを少しでもお伝えできれば、と考えております。
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【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ連載中!】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
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6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
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展示品の中に藤孝が所領としていた京都山城の地図もあったのですが、ちょっとひらめいたことがあります。
山崎の合戦の現場も光秀が逃げ込んだ勝龍寺城も坂本までの逃走経路も全て藤孝の領地なのです。拙著をお読みになった方はひらめきませんでしょうか?
光秀は土民に殺されたのではなく、藤孝の軍勢に殺されたのではないかと。
藤孝に関する閃き、何故かゾクゾクと来ました。
3月に山崎から勝龍寺城、山科の明智藪と呼ばれる場所まで行ってきたのですが、
どうも勝龍寺城に引いてからの光秀の通説にも腑に落ちない部分がありました。
藤孝の軍勢説も今後の展開、期待しています。
「細川家の至宝」展で絵地図をご覧ください。思わず私もゾクゾク来たのです。不知火様のように実際に歩いたら、何か発見があるような気がしました。
仕事でいつも言われていたのは「三現主義」、現地・現物・現実です。あらためて、その重要性を実感いたしました。
そしてもう一つが、勝龍寺城は生き残った明智軍を収容するのは難しいと感じるほど小さい城だということでした。
当然今の勝龍寺城址は模擬城と公園になっていますのでそれをもって大きさの判断は出来ないのですが、資料館で頂いた細川時代の復元図を見てみても、とてもこの城に軍を収容して秀吉軍を迎え討てる公算を持てるような大きさの城ではないと感じました。
この距離、この小さい城では勝龍寺城に引いても、秀吉軍に包囲されてしまうのは容易に想像出来ました。
何故光秀は山崎合戦で敗北して(もしくは戦局が不利になったと判断して)勝龍寺城に入ることにしたのかがすごく疑問に感じました。
そうなってくると一気に疑問が噴出してきました。
箇条書きしますとこんな感じの疑問でした。
○何故敗北した光秀は、残った軍全てを収容出来る見込みのない勝龍寺城に引いたのか。
→敗北後、何故光秀は山崎から坂本へ直行しなかったのか。
→諦めて切腹の場所として選ぼうとした?
→坂本から、もしくは細川、筒井などの援軍待ち?援軍が来る見込み(もしくは約束・予定)があった?
→収容出来ず解放したとされる丹波明智軍などは、いったいどうなったのか。秀吉軍包囲網の中を逃げれる可能性はあるのか?秀吉軍に捕獲された?秀吉軍に寝返った?
○よく「夜陰に紛れて」と表現されているが、光秀はこの勝龍寺城からどうやって脱出出来たのか?
→山城だったり、数ヶ月に渡るような籠城戦ならわかるが、こんな小さな平城で、包囲している秀吉軍の目を掻い潜って脱出など可能なのか?抜け穴等があったのか?
→半日で決着した山崎合戦の、敵軍の大将を小さい城からみすみす逃がすような気の緩みなどがあるのか?
→信長の首の存在が最重要だったように、また光秀の首を獲ることは秀吉にとって非常に大きな意味があったはず。
○山科で農民の落武者狩りは、実際にはどうだったのか。
→光秀が勝龍寺城を出たら「坂本へ向かう」選択肢は真っ先に思い浮かぶはず。ならば勝龍寺城から坂本までの道のりは秀吉軍側の厳戒態勢が敷かれるのでは?
→秀吉軍、もしくは寝返った明智軍に殺られた可能性は?
→真犯人を隠すために、落武者狩りという都合の良い犯人をでっち上げていないか?
→光秀討ちを公にしたくない存在がいるとしたら?
小説などではさらっと書かれている、敗北後の勝龍寺城のエピソードなので「光秀の最後の場所を見に行こう」くらいの軽い気持ちで訪れたのですが、実際現地に行ってみるとこのような疑問符が一気に沸いてくるような状況でした。
私は、落武者狩り説は「より光秀の死を惨めにするための表現」で実際は秀吉軍か解放された敗軍残党にやられたのではないかと思っておりましたが、明智先生の「細川藤考では?」とのインスピレーションを拝見した時、正直震えが来ました。
「→光秀にとって勝龍寺城に引いたのは細川の援軍が来る見込みがあった。→秀吉は意図的に包囲網の隙を作った。→裏で秀吉と内通していた細川が光秀を誘き出して討った。」
私が現地で感じた疑問に対して、こんな答えをイメージをしてしまって恐怖を感じたからです。
私が感じた疑問は全く的外れなのかもしれませんが、個人的な感想としてはやはり、勝龍寺城から光秀が亡くなるまでの道中にも大きな謎が隠されているように思います。
山崎の合戦から勝竜寺城立て籠もり/脱出などの一連の史実とされていることの最初の記事はやはり『惟任退治記』が書いています。秀吉が本能寺の変の顛末の公式発表として4ヵ月後に書かせたあの本です。
ということは、これも秀吉に都合のよいように書かれていると思ってよいでしょう。
すぐに答は出そうにありませんが、不知火様の持たれた疑問を手がかりに考えてみたいと思います。
藤考が援軍の要請に応じることは無くても、藤考領を退路として使えることの保証めいたものを、光秀は与えられていたのかもしれません。
そもそも山崎を合戦の地として選択したのは光秀だったと言われています。 合戦上の選択に当たっては退路が確保されていることも、条件の一つだったかもしれません。 援軍と合流できなかった場合は、安全な退路をたどって坂本に引き上げる、これは自然な「プラン・B」でしょう。 それが、なんとしても光秀の首を取りたい秀吉と、光秀の口をふさぎたい藤考にとっての好機だったとしたら…、このパターンは「信長の家康討」を逆利用する形で謀反を成功させた光秀のやり方とあまりにも似ていますね。
Wikipediaによれば、山崎の合戦での明智側の損害(戦死?)は3000名となっています。 明智の全軍は16000名、負傷者や脱走兵が多数出たとしても、光秀の下に少なくとも1000名ほどは残っていたと思われます。 「闇に紛れて」などと称して、光秀が少数の供回りだけを連れて落ち延びていく(テレビでは毎回このパターンですが)ことに、どうしてなってしまうのでしょう? これは落ち武者狩りを成功させるために、捏造されたストーリーである可能性が大きいと思います。 その目的は何か? 光秀を討ったものは、光秀との関わりを(あるいは秀吉との関わりを)公にされたくはなかった、つまり光秀の陰謀にある意味加担し、そして秀吉と通じて光秀を裏切った人物である、と考えれば説明がつきます。
藤考にしても、細川家を守るという切実な動機があったのでしょう。 そしてその動機は光秀のそれと全く同質のものだった、それゆえ光秀は、親戚であることを差し引いても、藤考を信頼していたのかもしれません。 それが、まさにその共通の動機によって藤考が光秀を討ったとしたら…、そのときの光秀の心中は察するに余りあります。 「余は余、自ら死を招いたか」、光秀もまたそう思ったかもしれませんね。 まるでシェイクスピア悲劇です。
関西地区では、聞く事が出来なかったラジオ番組!ネットで聞けたので大変嬉しかったです!
私は、小さい頃から、お城ファンで城跡記事なんかをコマ目にチェックしていたのですが、勝竜寺城近くの近隣豪族達は、反信長派の名目で多くの豪族達が、細川藤孝に討たれたとか、読んだ事がありますが、私の感想としては、細川派対反細川派の戦争(応仁の乱での敵討ちでは?)と明智さんの本を読んでから思う様になりました。
最近、明智光秀は竹薮で討たれていない!と確信しました!何故なら、竹薮は防衛には有利で刀や槍・弓矢すら打てない!さらに人影なんか丸見えだからです。
騎馬武者を竹槍で討とうとすると3mクラスの竹槍でないと隠れて打てるハズも無く、昔の人は現代人よりも目が良く暗闇でも遠く離れないと丸見えです。竹薮の竹は不規則に生えており直線で3mmの槍は、まず無理と考えました。
また!手入れの行き届いていない竹薮と仮定しても、人が隠れる足の踏み場も無く攻撃不可とみました。
となると竹林を抜けた場所で、待ち伏せして攻撃されたかもしれませんね。
明らかに通説の根拠は脆弱です。秀吉が都合よく書かせた『惟任退治記』が書いたことが、そのまま通説になっているだけですから。
ところが、こういった通説は本能寺の変研究界では疑いようのない史実として扱われています。この壁を崩すのは容易なことではありません。何しろ四百年間の思い込みがありますから。
本ブログでは引き続き、こういった通説の根拠の脆弱性を切り崩していこうかと思います。