【2011年8月20日追記】
紹巴の第三の句の解釈を次のように変えるべきと考えました。2010年5月2日記事中の緑字部分を以下の文に置き換えてください。
「斉藤道三に美濃守護職を追放された土岐池田氏の系統に成り代わって、土岐明智氏が土岐氏を背負っていってください」
③第三の「花」とは桜です。「花が落ちた」ということで「栄華を失った」、具体的には「美濃守護職を失ってしまった」土岐池田氏の流れをせきとめてと、と解釈しました。
【2010年5月2日記事】
愛宕百韻解読捜査の結果をシリーズで報告してきましたが、今回がいよいよ最終回です。
★ 愛宕百韻の解読捜査(捜査開始宣言)
★ 愛宕百韻の解読捜査(標的の確定)
★ 愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
★ 愛宕百韻の解読捜査(土岐氏の流れ)
★ 愛宕百韻の解読捜査(完全解読の意義)
光秀の発句は通説となっている「ときは今 あめが下しる 五月かな」ではないこと、連歌に込められた祈願は発句・脇句・第三・挙句の四つの句を解読すればわかること、そして解読のキーとなる土岐氏の歴史について解説してきました。
それでは四つの句の裏の意味を読み解きましょう。
発句 「時は今 あめが下なる 五月かな」 光秀
「土岐氏は今、この五月雨(さみだれ)にたたかれているような苦境に立たされている五月だ(六月になればこの苦境から脱したい)」
脇句 「水上まさる 庭の夏山」 行祐
「土岐氏のご先祖をはるかに上回る勢いの光秀様の権勢を持ってして(苦境を脱してください)」
第三 「花落つる 池の流れを せきとめて」 紹巴
「土岐康行の乱の結果、土岐氏の本流を継いだ土岐池田氏の系統に成り代わって、土岐明智氏が土岐氏を背負っていってください」
挙句 「国々は 猶(なお)のどかなるころ」 光慶
「そして、国々がのどかに治まる太平の世をもたらしてください」
少し解説を付けたいと思います。
光秀の発句は「ときは今」と始めていますので、主題は土岐氏です。そのことは愛宕百韻の参加者全員がすぐにわかったでしょう。参加者は土岐氏の歴史とその再興を担っている光秀の立場を十二分に理解していたからです。
ただし、光秀の発句の「土岐氏の苦境」が光秀個人の苦境とはとらえず、足利三代将軍義満によって勢力を削がれ、斎藤道三によって守護職を追われて衰退した土岐氏の歴史的な苦境ととらえたはずです。
なぜならば、光秀の詠んだ句では「光秀の苦境=謀反」というニュアンスが全くないのです。秀吉がわざわざ「下しる」と改竄した理由がそこにあります。
愛宕百韻は光秀の中国出陣に際しての戦勝祈願として詠まれました。愛宕山の住職行祐(ぎょうゆう)も連歌師紹巴(じょうは)も光秀の謀反の心は知る由もなく、中国における光秀の戦勝を祈願する素直な気持ちで詠んだのです。
なお、私も和歌・連歌・百韻についての専門知識があるわけではないので、解読文の細部に渡って、この通りと決め付けるつもりはありません。ただし、大意はこれが正解という自信があります。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』では状況証拠しかなかった「光秀による土岐氏再興」が愛宕百韻で裏付けられたことになります。
解読文の作成にあたっては、次の点に考慮しました。
①上の句と下の句の対(つい)で構成される和歌としての意味のまとまりを意識しました。発句に対する脇句の解読文がそれに該当します。
②神への祈願文であることも意識しましたので、各句の文末をそのような表現にしました。
③第三の「花」は桔梗という解釈もあるかもしれません。康行の乱で崩壊した土岐桔梗一揆を花にたとえた可能性もあります。ただ、「花」というと通常、春の花、特に桜を意味するのではないかと考えました。そこで、土岐氏の栄華や美濃守護職を表わしていると解釈しました。したがって「足利義満によって土岐氏の栄華を与えられて流れ出した池田氏の流れ」としたわけです。
さて、皆さんの解釈はいかがだったでしょうか。当然、いろいろな解釈の仕方があると思います。是非コメントの投稿をお願いいたします。
★ 愛宕百韻の解読捜査シリーズ
①捜査開始宣言
②標的の確定
③表の意味解釈
④土岐氏の流れ
⑤完全解読の意義
⑥遂に完全解読
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
紹巴の第三の句の解釈を次のように変えるべきと考えました。2010年5月2日記事中の緑字部分を以下の文に置き換えてください。
「斉藤道三に美濃守護職を追放された土岐池田氏の系統に成り代わって、土岐明智氏が土岐氏を背負っていってください」
③第三の「花」とは桜です。「花が落ちた」ということで「栄華を失った」、具体的には「美濃守護職を失ってしまった」土岐池田氏の流れをせきとめてと、と解釈しました。
【2010年5月2日記事】
愛宕百韻解読捜査の結果をシリーズで報告してきましたが、今回がいよいよ最終回です。
★ 愛宕百韻の解読捜査(捜査開始宣言)
★ 愛宕百韻の解読捜査(標的の確定)
★ 愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)
★ 愛宕百韻の解読捜査(土岐氏の流れ)
★ 愛宕百韻の解読捜査(完全解読の意義)
光秀の発句は通説となっている「ときは今 あめが下しる 五月かな」ではないこと、連歌に込められた祈願は発句・脇句・第三・挙句の四つの句を解読すればわかること、そして解読のキーとなる土岐氏の歴史について解説してきました。
それでは四つの句の裏の意味を読み解きましょう。
発句 「時は今 あめが下なる 五月かな」 光秀
「土岐氏は今、この五月雨(さみだれ)にたたかれているような苦境に立たされている五月だ(六月になればこの苦境から脱したい)」
脇句 「水上まさる 庭の夏山」 行祐
「土岐氏のご先祖をはるかに上回る勢いの光秀様の権勢を持ってして(苦境を脱してください)」
第三 「花落つる 池の流れを せきとめて」 紹巴
「土岐康行の乱の結果、土岐氏の本流を継いだ土岐池田氏の系統に成り代わって、土岐明智氏が土岐氏を背負っていってください」
挙句 「国々は 猶(なお)のどかなるころ」 光慶
「そして、国々がのどかに治まる太平の世をもたらしてください」
少し解説を付けたいと思います。
光秀の発句は「ときは今」と始めていますので、主題は土岐氏です。そのことは愛宕百韻の参加者全員がすぐにわかったでしょう。参加者は土岐氏の歴史とその再興を担っている光秀の立場を十二分に理解していたからです。
ただし、光秀の発句の「土岐氏の苦境」が光秀個人の苦境とはとらえず、足利三代将軍義満によって勢力を削がれ、斎藤道三によって守護職を追われて衰退した土岐氏の歴史的な苦境ととらえたはずです。
なぜならば、光秀の詠んだ句では「光秀の苦境=謀反」というニュアンスが全くないのです。秀吉がわざわざ「下しる」と改竄した理由がそこにあります。
愛宕百韻は光秀の中国出陣に際しての戦勝祈願として詠まれました。愛宕山の住職行祐(ぎょうゆう)も連歌師紹巴(じょうは)も光秀の謀反の心は知る由もなく、中国における光秀の戦勝を祈願する素直な気持ちで詠んだのです。
なお、私も和歌・連歌・百韻についての専門知識があるわけではないので、解読文の細部に渡って、この通りと決め付けるつもりはありません。ただし、大意はこれが正解という自信があります。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』では状況証拠しかなかった「光秀による土岐氏再興」が愛宕百韻で裏付けられたことになります。
解読文の作成にあたっては、次の点に考慮しました。
①上の句と下の句の対(つい)で構成される和歌としての意味のまとまりを意識しました。発句に対する脇句の解読文がそれに該当します。
②神への祈願文であることも意識しましたので、各句の文末をそのような表現にしました。
③第三の「花」は桔梗という解釈もあるかもしれません。康行の乱で崩壊した土岐桔梗一揆を花にたとえた可能性もあります。ただ、「花」というと通常、春の花、特に桜を意味するのではないかと考えました。そこで、土岐氏の栄華や美濃守護職を表わしていると解釈しました。したがって「足利義満によって土岐氏の栄華を与えられて流れ出した池田氏の流れ」としたわけです。
さて、皆さんの解釈はいかがだったでしょうか。当然、いろいろな解釈の仕方があると思います。是非コメントの投稿をお願いいたします。
★ 愛宕百韻の解読捜査シリーズ
①捜査開始宣言
②標的の確定
③表の意味解釈
④土岐氏の流れ
⑤完全解読の意義
⑥遂に完全解読
【お知らせ】
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コメント戴き、ありがとうございました。
よかったですね。わたしは何もわからないものではありますが、秀野の文章を一昔前に読んで以来、なぜかしら光秀がなつかしく思えるようになりました。百姓に優しかった、だから領地の民は光秀を慕っていたし、武運つたなく、なくなった後も燈籠をたいてずうっと彼を祀った。やまとくんなか出身の俳人がそう記しています。今、ブログにうちこみましたので、興味のある方はどうぞご覧ください。
先生のご活躍をいつも楽しみにしています。
たまたま記事を検索中に気付いてしまったので、僭越ながら指摘させていただきます。
このブログ記事「愛宕百韻の解読捜査」の挙句の最後が「ころ」になっていますが、「とき」の間違いではないでしょうか?
先生が正しい知識をお持ちであることは多くの方の知るところですが、重箱の隅をつつく輩もおりますので、一応指摘させていただきましたm(__)m
細かすぎる指摘で申し訳ありませんが、通説の伝搬経路のページの以下の点も修正をお願いします。
絵本太閤記 恵林寺焼打ち制して殴られ 「る」が抜けている
国盗り物語 「濃姫奮戦」は太字になりましたが続く「・討死」が太字になっていません。
川角太閤記 「松山が勝負」は太字になりましたが続く「の分れ目」が太字になっていません。
明智さんは決して勘違いされているわけではありません。
「愛宕百韻の解読捜査(表の意味解釈)」で“連歌研究の第一人者である島津忠夫氏が下記の本に書いた解釈を採用します。”と書かれています。
新潮日本古典集成『連歌集』島津忠夫校注、新潮社刊
「~(表の意味解釈)」では、島津忠夫氏の解釈の説明なので「下しる」「のどかなるころ」が正しいです。(変更してしまう改ざんになってしまいます)
「~(遂に完全解読!!)」では、明智憲三郎氏の解釈の説明なので「下なる」で正しいです。「のどかなるころ」は「のどかなるとき」が適切です。
挙句を含んだ愛宕百韻を検索すると、ほぼ全て島津氏校注の『連歌集』に行き着いてしまいます。
「天が下しる」「のどかなるころ」が刷り込まれ続ける現状をどうにかしたいですね。
勢田勝郭氏の「『愛宕百韻』の注解と再検討」です。
「奈良工業高等専門学校研究紀要 令和元年 第55号」で検索してみてください。
色々な意味で実に興味深い内容です。
勢田勝郭氏の「『愛宕百韻』の注解と再検討」です。
「奈良工業高等専門学校研究紀要 令和元年 第55号」で検索してみてください。
色々な意味で実に興味深い内容です。
わたくしの解釈は先生のそれとは少し違い、あの時点で土岐池田氏を持ち出すことに違和感を感じております。
二の句と三の句は、それまで信長の近くで遊撃隊として存在していた丹羽長秀、池田恒興が水上(海上=長宗我部)に釘付けになって足止めされている事を暗示しているのではないかと考えます。
飛躍しすぎな解釈かもしれませんが先生のお考えもお聞かせいただければ幸いです。
貴解釈には根本的な問題があります。脇句は愛宕神社威徳院院主が詠んでます。第三は連歌の師匠が詠んでます。いわゆる文人です。一方、光秀はバリバリの軍人です。文人が軍人のプロに貴解釈のようなことを教える必要がありますか? 残念ながら貴解釈は高校生でもわかる常識を欠いた思い付きの域を出ない解釈といわざるを得ません。