>>> 「世界ふしぎ発見」が発見した「本能寺の変の真実」本
** 『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著、文芸社文庫) 40万部突破!! **
>>> 「織田信長」の虚像を暴く!『信長脳を歴史捜査せよ!』
>>> サンテレビ「カツヤマサヒコSHOW」対談YouTube動画はこちら
『本能寺の変 431年目の真実』の読者の分析を以下にご紹介します。
戦国時代は「兵は詭道なり」、すなわち陰謀が大前提でしょう。武将たちの陰謀や策謀を抜きにして戦国を語るのには限界があり、だから桶狭間や本能寺を偶然とか幸運とかで片付けてしまうのでしょう。
呉座氏が明智憲三郎氏を批判する6章と終章を読みましたが、「家康黒幕説」と言う時点で明智氏の著作を読んでいないことがわかってしまう残念な代物でした。明智氏のデータフロー分析を無視して、明智説の一部分を切り取って「想像に想像を重ねた推理」とか「一目で荒唐無稽と分かるような話」などといい加減な評価をする姿勢に、呉座氏はまったく信頼の置けない人だと思いました。他の根拠に乏しい怨恨説や野望説、黒幕説とざっくり同列に扱って明智説を相対化しようとする呉座氏の陰謀が見え隠れします。呉座氏ご自身の首にも鈴をつけておきましょう。
愛宕百韻の連歌の規則、順慶と忠興の上洛命令無視、吉田兼見6月1日不参、日記の改竄、家康の伊賀越えから東陣西陣の二方面作戦、旧武田領の織田軍切り崩しに至るまでの周到な準備、津嶋への陣替え、秀吉による細川藤孝と松井康之の論功行賞、安国寺恵瓊の処遇等々、本能寺の変は光秀だけを見ていては何も見えてこないです。『431年目の真実』が40万部売れたのは、明智説に他に類を見ない確からしさ、蓋然性、網羅性の高さを読み取ったからに他なりません。40万人の読者はフェイクに惑わされないでしょう。
【2010年4月22日記事】
日本史の最大の謎は本能寺の変と邪馬台国といわれています。
本能寺の変の謎は2009年3月出版の拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』によって427年目にして遂に謎が解かれました。
★ 本能寺の変:真実解明の手法『歴史捜査』
★ 本能寺の変の定説は打破された!
いよいよ残るのは邪馬台国の謎のみ。と、思っていたのですが、実は既に18年前の1992年に謎が解かれていたことを最近知りました!!
張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』(久保書店刊)に書かれています。著者は台湾人で、魏志倭人伝の邪馬台国についての記述(漢文)を読み解いて、その位置をずばりと書いています。
★ Wikipedia「張明澄」記事
何故、この著者に解読できたかといえば、漢文に長けていたからです。日本人では正しく読むことのできなかった魏志倭人伝の記述を正確に読み取ることで、邪馬台国の位置を特定したのです。
この著者の素晴らしいのは「邪馬台国の本当の場所を見つけたのではない。魏志倭人伝が書いた邪馬台国の場所を見つけたのだ」という立場を鮮明にしていることです。魏志倭人伝がひょっとしたら邪馬台国の場所を書き誤っている可能性もある、という科学的・論理的スタンスをとっているのです。
そして、魏志倭人伝という書物に書かれていることを忠実に読み取ることに徹しています。正に本ブログの「天下布文」の精神です。
★ ブログ始めました!(天下布文命名の経緯)
それではどうして謎が解けたのか、エッセンスをご紹介しましょう。
魏志倭人伝の邪馬台国についての記述の中に、現在の韓国のソウルあたりから邪馬台国にいたる道筋が順を追って書かれています。その順を正確に追っていけば必然的に邪馬台国の場所に行くつくのですが、従来は日本人の研究者が漢文の意味を様々に誤読していたために正しく行き着くことができなかったのです。
誤読の主因となったものが「到」と「至」の意味の違いを日本人研究者が知らなかったということです。実に単純なことだったのです。丁度、本能寺の変の研究者が土岐氏について理解していなかったのと似ています。
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
「いたる」を漢字変換すれば「到る」も「至る」も出てきます。日本人には全く同じ意味にしか思えません。ところが、中国人であれば、この2つに重大な意味の違いがあることがわかるのです。
「到」は「○○へいたる」、英語ではreachまたはarrive to。
「至」は「○○まで」、英語ではtillまたはuntil。
これでもわかりにくいかと思いますが、次のような例で説明するとはっきりします。
aさんがA点からB点に「到」するのは、aさんがA点にいなくなってB点に移動する。つまり、B点が最終目的地であって、B点が新たな出発点にはならない。
一方、「至」するのはaさんがA点からいなくならずにB点に及ぶ。つまり、B点は最終目的地ではなく、B点が新たな出発点となる。
この考え方は日本人にはピンとこないところですが、中国人には常識のようです。
この「到」と「至」を魏志倭人伝は使い分けています。たとえば、順に「又渡 一海 千余里 至末慮国」、「東南 陸行 五百里 到伊都国」、「東南 至奴国 百里」という記述が出てきます。
この意味は次のようになります。
「海を千余里行くと末慮国までいたる(末慮国が次の出発点になる)」、「(末慮国から)東南に陸を五百里行くと伊都国へいたる(伊都国は次の出発点とならない)」、「(伊都国は次の出発点とならないので末慮国から)東南に百里行くと奴国までいたる(奴国が次の出発点となる)」
このように読めない日本人は奴国は伊都国から東南に百里にあると解釈してしまいます。本当のところは奴国は末慮国から東南に百里にあるのですが。その結果、正しい邪馬台国の場所に行き着かないということです。
さて、それでは魏志倭人伝の書いた邪馬台国の場所はどこでしょうか。
その答は鹿児島県北西部の「阿久根市!!」
★ Wikipedia「阿久根市」記事
私は非常にすっきりした論理と思います。これで日本史最大のなぞの二つともが解明されたと思います。
ところが、この邪馬台国阿久根市説は全く広まっていません。阿久根市はこれを売り物にしたらよいのに、と思いますが市のホームページにも書かれていないようです。
この本の存在も全く知られていないといってよいでしょう。amazonでも現在取り扱っていませんし、インターネットの中古書店を検索しても売っていません。とても残念なことです。「素人研究家が何を言うか!」という研究界の反動でもあったのでしょうか?
インターネットでも未だに「本能寺の変の黒幕は?」とか「邪馬台国はどこにあったか?」といった話が飛び交っていますが、「二つとも既に答が出ていますよ!」と是非教えてさしあげたいです。
【2012年6月8日追記】
昨日、BSプレミアム「BS歴史館」で「古代史最大のミステリー 邪馬台国の魔力に迫る」が放送されました。3人の研究者がいろいろなことを述べていましたが、張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』については一切触れられませんでした。
検証すべき最も肝心なものをはずして議論が交わされている様子は、本能寺の変について拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をはずして論じているのを見るのと同じような感じがしました。
【2012年7月18日追記】
ご紹介した『誤読だらけの邪馬台国』は絶版で中古市場でも手に入らないと書きましたが、amazonで1冊中古本が売りに出ています。なんと13,280円!
既に売れているかもしれませんが、下記のページです。
★ amazon『誤読だらけの邪馬台国』ページ
国会図書館には蔵書があります。
★ 国立国会図書館のページ
【お知らせ】
本ブログは『本能寺の変 四二七年目の真実』、『本能寺の変 431年目の真実』著者のブログです。通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。
★ このブログの説明のページ
★ このブログの目次(サイトマップ)
★ 怨恨説を斬る!
★ 野望説を斬る!
★ 本能寺の変は三面記事?!
★ 通説の創作者は秀吉!
★ ノイローゼ説を斬る!
★ 発作的犯行説を斬る!
★ 朝廷黒幕説を斬る!
★ 朝廷黒幕説を斬る!(続き)
★ 足利将軍黒幕説を斬る!
★ 足利将軍黒幕説を斬る!(続き)
★ イエズス会陰謀説を斬る!
★ イエズス会陰謀説を斬る!(続き)
★ イエズス会陰謀説を斬る!(続きの続き)
★ 日光東照宮桔梗紋説を斬る!
★ 「敵は本能寺にあり」を斬る!
★ 「是非に及ばず」を斬る!
★ 安土城放火・織田信雄の冤罪を晴らす!
★ 安土城放火・織田信雄の冤罪を晴らす!(続き)
***************************************
>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
** 『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著、文芸社文庫) 40万部突破!! **
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戦国時代は「兵は詭道なり」、すなわち陰謀が大前提でしょう。武将たちの陰謀や策謀を抜きにして戦国を語るのには限界があり、だから桶狭間や本能寺を偶然とか幸運とかで片付けてしまうのでしょう。
呉座氏が明智憲三郎氏を批判する6章と終章を読みましたが、「家康黒幕説」と言う時点で明智氏の著作を読んでいないことがわかってしまう残念な代物でした。明智氏のデータフロー分析を無視して、明智説の一部分を切り取って「想像に想像を重ねた推理」とか「一目で荒唐無稽と分かるような話」などといい加減な評価をする姿勢に、呉座氏はまったく信頼の置けない人だと思いました。他の根拠に乏しい怨恨説や野望説、黒幕説とざっくり同列に扱って明智説を相対化しようとする呉座氏の陰謀が見え隠れします。呉座氏ご自身の首にも鈴をつけておきましょう。
愛宕百韻の連歌の規則、順慶と忠興の上洛命令無視、吉田兼見6月1日不参、日記の改竄、家康の伊賀越えから東陣西陣の二方面作戦、旧武田領の織田軍切り崩しに至るまでの周到な準備、津嶋への陣替え、秀吉による細川藤孝と松井康之の論功行賞、安国寺恵瓊の処遇等々、本能寺の変は光秀だけを見ていては何も見えてこないです。『431年目の真実』が40万部売れたのは、明智説に他に類を見ない確からしさ、蓋然性、網羅性の高さを読み取ったからに他なりません。40万人の読者はフェイクに惑わされないでしょう。
【2010年4月22日記事】
日本史の最大の謎は本能寺の変と邪馬台国といわれています。
本能寺の変の謎は2009年3月出版の拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』によって427年目にして遂に謎が解かれました。
★ 本能寺の変:真実解明の手法『歴史捜査』
★ 本能寺の変の定説は打破された!
いよいよ残るのは邪馬台国の謎のみ。と、思っていたのですが、実は既に18年前の1992年に謎が解かれていたことを最近知りました!!
張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』(久保書店刊)に書かれています。著者は台湾人で、魏志倭人伝の邪馬台国についての記述(漢文)を読み解いて、その位置をずばりと書いています。
★ Wikipedia「張明澄」記事
何故、この著者に解読できたかといえば、漢文に長けていたからです。日本人では正しく読むことのできなかった魏志倭人伝の記述を正確に読み取ることで、邪馬台国の位置を特定したのです。
この著者の素晴らしいのは「邪馬台国の本当の場所を見つけたのではない。魏志倭人伝が書いた邪馬台国の場所を見つけたのだ」という立場を鮮明にしていることです。魏志倭人伝がひょっとしたら邪馬台国の場所を書き誤っている可能性もある、という科学的・論理的スタンスをとっているのです。
そして、魏志倭人伝という書物に書かれていることを忠実に読み取ることに徹しています。正に本ブログの「天下布文」の精神です。
★ ブログ始めました!(天下布文命名の経緯)
それではどうして謎が解けたのか、エッセンスをご紹介しましょう。
魏志倭人伝の邪馬台国についての記述の中に、現在の韓国のソウルあたりから邪馬台国にいたる道筋が順を追って書かれています。その順を正確に追っていけば必然的に邪馬台国の場所に行くつくのですが、従来は日本人の研究者が漢文の意味を様々に誤読していたために正しく行き着くことができなかったのです。
誤読の主因となったものが「到」と「至」の意味の違いを日本人研究者が知らなかったということです。実に単純なことだったのです。丁度、本能寺の変の研究者が土岐氏について理解していなかったのと似ています。
★ 土岐氏を知らずして本能寺の変は!
「いたる」を漢字変換すれば「到る」も「至る」も出てきます。日本人には全く同じ意味にしか思えません。ところが、中国人であれば、この2つに重大な意味の違いがあることがわかるのです。
「到」は「○○へいたる」、英語ではreachまたはarrive to。
「至」は「○○まで」、英語ではtillまたはuntil。
これでもわかりにくいかと思いますが、次のような例で説明するとはっきりします。
aさんがA点からB点に「到」するのは、aさんがA点にいなくなってB点に移動する。つまり、B点が最終目的地であって、B点が新たな出発点にはならない。
一方、「至」するのはaさんがA点からいなくならずにB点に及ぶ。つまり、B点は最終目的地ではなく、B点が新たな出発点となる。
この考え方は日本人にはピンとこないところですが、中国人には常識のようです。
この「到」と「至」を魏志倭人伝は使い分けています。たとえば、順に「又渡 一海 千余里 至末慮国」、「東南 陸行 五百里 到伊都国」、「東南 至奴国 百里」という記述が出てきます。
この意味は次のようになります。
「海を千余里行くと末慮国までいたる(末慮国が次の出発点になる)」、「(末慮国から)東南に陸を五百里行くと伊都国へいたる(伊都国は次の出発点とならない)」、「(伊都国は次の出発点とならないので末慮国から)東南に百里行くと奴国までいたる(奴国が次の出発点となる)」
このように読めない日本人は奴国は伊都国から東南に百里にあると解釈してしまいます。本当のところは奴国は末慮国から東南に百里にあるのですが。その結果、正しい邪馬台国の場所に行き着かないということです。
さて、それでは魏志倭人伝の書いた邪馬台国の場所はどこでしょうか。
その答は鹿児島県北西部の「阿久根市!!」
★ Wikipedia「阿久根市」記事
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ところが、この邪馬台国阿久根市説は全く広まっていません。阿久根市はこれを売り物にしたらよいのに、と思いますが市のホームページにも書かれていないようです。
この本の存在も全く知られていないといってよいでしょう。amazonでも現在取り扱っていませんし、インターネットの中古書店を検索しても売っていません。とても残念なことです。「素人研究家が何を言うか!」という研究界の反動でもあったのでしょうか?
インターネットでも未だに「本能寺の変の黒幕は?」とか「邪馬台国はどこにあったか?」といった話が飛び交っていますが、「二つとも既に答が出ていますよ!」と是非教えてさしあげたいです。
【2012年6月8日追記】
昨日、BSプレミアム「BS歴史館」で「古代史最大のミステリー 邪馬台国の魔力に迫る」が放送されました。3人の研究者がいろいろなことを述べていましたが、張明澄著『誤読だらけの邪馬台国』については一切触れられませんでした。
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【2012年7月18日追記】
ご紹介した『誤読だらけの邪馬台国』は絶版で中古市場でも手に入らないと書きましたが、amazonで1冊中古本が売りに出ています。なんと13,280円!
既に売れているかもしれませんが、下記のページです。
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まあ邪馬台国は普通に考えたら九州ですよねえ。東を南と2回も書き間違えるという解釈はかなり厳しいですしね。
あと、卑弥呼がTopの女系首長制なので、縄文系じゃないの?っていうのも昔から言われていたので、熊襲=邪馬台国というのが普通に考えてありそうだと思ったのです。
んで、別民族が邪馬台国を襲ってその権威を奪って東征と。
なにはともあれ、明智さんの理路整然とした思考方法は素晴らしいと思います。
「誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば…」
は日本人の解釈と同じレベル。誤訳だらけの 張明澄さんで、中国人でも解けないの。
サイズ
214P 17cm
販売価格
816円
それがこの本の土俵であり、この土俵の上では蓋然性が高いのです。その土俵の上での蓋然性を検討すれば、さらに研究が進むはずです。乗ってもいない土俵へずらして「乗っていない」と言うのは歴史研究を前に進める態度ではなく、素人が何を言うのかという門前払いに見えます。
著者の主張する土俵で、著者の論理に矛盾・齟齬があるのか、別の解があるのか。これをお聴きしたいです。
『「到」は最終目的地であって新たな出発点にはならない。』
ということなのですが、狗邪韓国へは「到」が使われています。
ということは狗邪韓国は、始度一海の出発点とはならないということだと思いますが
張氏は、始度一海の出発点は帯方郡とおっしゃられてるのでしょうか?
それとも韓国を歴た途中のどこかが出発点であると書かれているのでしょうか?
狗邪韓国が出発点ではないとすると「千余里」はどうなるのかとか色々考えてしまい、伊都国の「到る」は分かるのですが、狗邪韓国の「到る」がどのように書かれているのか知りたくて、現状本が手に入りませんので教えていただければ幸いです。
帯方郡(今のソウル)から朝鮮半島を南へ行き東へ行くと(乍南乍東)狗邪韓国(今の釜山)に着くと書いてあります。 狗邪韓国までの距離が七千里であるとは書いてありません。半島をずっとめぐっていくと狗邪韓国に着くのですから、七千里+αです。狗邪韓国へ「到」ったのですから、この行程はもう終りとなります。
元へ戻って、帯方郡から南へ行き東へ行き(「乍南乍東」)七千里の位置で海を渡ると一千里で対海国(対馬)へ着きます。対馬とは対馬の港、厳原(いずはら)を意味します。
対馬から一千里で一大国(壱岐、郷ノ浦)へ着きます。このあたりで一千里とは約60キロであることが明らかになります。
従って、次に一大国から一千里で末廬国へ着くというのですから、壱岐の郷ノ浦から末廬国までは60キロであることが明らかとなります。これまでの説では、末廬国は唐津であるというのが有力になっていますが、壱岐から唐津までは40キロ(七百里)ほどしかありませんから、末廬国が唐津では明らかに矛盾します。
そこで様々な条件を検討すると、末廬国は佐世保という結論になります。
対海国から一大国へ渡る時は「南」とあるのに、始度一海の時と、一大国から末廬国へは「南」が無いことが、とても気になっていて、もしかすると張氏は、今までに言われてない所から海を渡ったと解釈(読み取っている)してるのではないかと思ったのですが、千余里がある以上どうしようもないですね。
近隣の図書館には見あたらないのですが、少し足を伸ばして是非原典を読みたいと思います。
丁寧な返信、どうもありがとうございました。
だけど、僕の案は近畿説ですが僕の場合、こう考えています。それから21国も比定してみました。
対馬国 長崎県対馬市
壱岐国 長崎県壱岐市
末盧国 佐賀県唐津市
伊都国 福岡県糸島市
奴国 福岡県福岡市
不弥国 福岡県飯塚市
投馬国 岡山県岡山市
邪馬台国 奈良県桜井市
とまあ、こんなものです。