>>> 本能寺の変の定説は打破された!
【2012年6月30日初稿 2013年5月20日修正】
現代の本能寺の変について広く信じられている通説は江戸時代に書かれた軍記物が創作したもの。その作り話の多くを歴史学界の権威者・高柳光寿氏が公認してしまい、その権威にすがる研究者たちがいまだに通説を支えている。
このことについては本ブログに具体的に書いてきました。下記のページをご参照ください。
★ 信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
今般、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に続く第2作の執筆開始にあたって、光秀に関係する年表を整理していて、あらためて気付いたことがあります。
私が調べて整理した年表の中に「信長が岐阜から上洛した際に光秀の屋敷に宿泊した」という記録が漏れているのです。この記録は高柳光寿氏『明智光秀』の中に書かれていたものとして記憶にしっかり残っていました。
高柳氏の著書を読み直すと公家の山科言継の書いた『言継卿記』の元亀元年(1570)2月30日と7月4日に光秀の屋敷に宿泊したことが書かれているとありました。
ところが、私が調べて整理した年表には同じ『言継卿記』の記述から2月30日「信長が上洛し、言継が出迎えて同行して光秀の所へ行った」、7月4日「信長が上洛し将軍義昭の所に参上、次に光秀の所へ行った」書かれていました。どこにも「宿泊した」という文字はありません。単に「行った」だけです。
漢字かな混じりの古文を読むのは英文和訳と同じようなもので、日本人といえども現代人にとってはそれなりに難しいものです。私も自信があるわけでもないので、何度も読み直してみました。『言継卿記』の他の文例なども参考にして確認しましたが、どう読んでも私の解読の方が正解です。高柳氏は光秀はそれ以前に信長の家臣になっていたと思い込んでいたので、そのように誤読したのではないでしょうか。
本能寺の変の研究本が高柳氏の著書を参考にして「信長は光秀の屋敷に宿泊した、だから光秀は・・・」と推理を展開しているのを見かけます。
誤った前提から推理をしても全く無意味です。本能寺の変研究を行う方々には、高柳氏の著書に頼らずに、光秀関係の史料の原本を自ら読んで史実を確認していただきたいと思います。
そうすれば、高柳氏の主張の誤りも見えてきます。たとえば、光秀が信長の家臣になった時期が高柳氏の主張する時期では早すぎることもわかると思います。
>>> 本能寺の変の定説は打破された!
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『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
また、読者の書評はこちらです。
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
【2012年6月30日初稿 2013年5月20日修正】
現代の本能寺の変について広く信じられている通説は江戸時代に書かれた軍記物が創作したもの。その作り話の多くを歴史学界の権威者・高柳光寿氏が公認してしまい、その権威にすがる研究者たちがいまだに通説を支えている。
このことについては本ブログに具体的に書いてきました。下記のページをご参照ください。
★ 信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
今般、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に続く第2作の執筆開始にあたって、光秀に関係する年表を整理していて、あらためて気付いたことがあります。
私が調べて整理した年表の中に「信長が岐阜から上洛した際に光秀の屋敷に宿泊した」という記録が漏れているのです。この記録は高柳光寿氏『明智光秀』の中に書かれていたものとして記憶にしっかり残っていました。
高柳氏の著書を読み直すと公家の山科言継の書いた『言継卿記』の元亀元年(1570)2月30日と7月4日に光秀の屋敷に宿泊したことが書かれているとありました。
ところが、私が調べて整理した年表には同じ『言継卿記』の記述から2月30日「信長が上洛し、言継が出迎えて同行して光秀の所へ行った」、7月4日「信長が上洛し将軍義昭の所に参上、次に光秀の所へ行った」書かれていました。どこにも「宿泊した」という文字はありません。単に「行った」だけです。
漢字かな混じりの古文を読むのは英文和訳と同じようなもので、日本人といえども現代人にとってはそれなりに難しいものです。私も自信があるわけでもないので、何度も読み直してみました。『言継卿記』の他の文例なども参考にして確認しましたが、どう読んでも私の解読の方が正解です。高柳氏は光秀はそれ以前に信長の家臣になっていたと思い込んでいたので、そのように誤読したのではないでしょうか。
本能寺の変の研究本が高柳氏の著書を参考にして「信長は光秀の屋敷に宿泊した、だから光秀は・・・」と推理を展開しているのを見かけます。
誤った前提から推理をしても全く無意味です。本能寺の変研究を行う方々には、高柳氏の著書に頼らずに、光秀関係の史料の原本を自ら読んで史実を確認していただきたいと思います。
そうすれば、高柳氏の主張の誤りも見えてきます。たとえば、光秀が信長の家臣になった時期が高柳氏の主張する時期では早すぎることもわかると思います。
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おかげで、他の史料と見比べることによって、いろいろなことがわかりました。光秀が足利義昭の足軽衆だったこと、など。
世の中にはまだ埋もれていて、活字にされていない貴重な古記録・古文書があるのではないか?と期待もし、それらが発見させずに失われてしまうという不安・焦りも感じています。
話は変わりますが最近明治天皇は偽物であったという説を見かけました。この説によりますと本物の孝明天皇の子は暗殺されており、明治以降の天皇は南朝系だというのです。この説の信憑性について明智先生はどう思われますか?ぜひご意見をお伺いしたいです。