2019年12月に河出書房新社より『明智家の末裔たち 本能寺からはじまった闘いの記憶』を出版しました。読者の書評をいくつかご紹介します。
amazonのカスタマーレビューに投稿された読者の書評「他の類書を寄せ付けない圧倒的な真実味、それゆえの面白さ」をまずご紹介します。
【抜粋】
歴史捜査から家系捜査へ。前作『光秀からの遺言』で土岐明智系図を解明し「光秀以前」に決着をつけた明智氏は、自身のルーツの検証も含めた「光秀以後」の研究に乗り出します。光秀に関する玉石混交の諸説に翻弄されている他の研究者の一歩先を行く、真実探求への気概に満ちた執念の作品です。「代々継承されているという事実」の強さ、重みが、今回も読んでいてひしひしと感じられます。(中略)
最後に、本作の山場となるのは、頼芸の子・頼次(小次郎)の長男と次男をめぐる推理です。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する最後の土岐守護・頼芸の系図をずっと下っていくと、ある著名人にたどり着きます。彼はなぜ「美濃守護」でも「幕府旗本の高家」でもなく、「光秀の子孫」だと聞かされてきたのか。家系捜査の締めくくりに大きな収穫が待ち受けていました。
そして最後の最後。再び550年ばかり遡って、前作で一躍キーパーソンとして登場した明智玄宣(光高)についての驚きの報せ。幕府奉公衆、連歌の素養、「光」の系譜。玄宣の兜が静かに光る。光秀のルーツのほうも今後目が離せません。 (後略)
【全文はこちら】
>>> amazonカスタマーレビューのページ
なりゆきさんのブログ「読まずに死ねない」から
【抜粋】
とても冷静な方で、「歴史というもの、それが大衆の人気をアテにした歴史物という商品になるとどうなるか?」が書いてありまして。
本能寺の変から110年以上、経ってから刊行された「明智軍記」という物語が江戸時代に創作され、当時の木版出版の普及による出版ブームによって大ベストセラーとなり、歴史の常識として広まったという。
1960年だいに司馬遼太郎さんが「国盗り物語」を書いたが、これもこの話を元に書かれてベストセラーとなり、これを原作として1973年に大河ドラマが放映された。その結果、「明智軍記」のストーリーが日本中に広まった。 とのことで。 (中略)
拡大主義の戦国武将は一代で滅び、家康のように儒教に理念を転換した覇者は長期に安定した社会を築いた。現代社会も拡大を追求することから、持続することに理念を転換する時期にあるのではないか。
と、あとがきは終わるのですが。
時代は麒麟を求めている。
光秀の子孫、憲三郎さんの想いは、光秀の安寧の世を願う祈りと一致するのです。
今回、大河ドラマの主人公を光秀にするあたり、制作側のコメントは、「従来の価値観を見直す時代だから」というもので。
一致していますよね。
「麒麟がくる」も楽しみですし、このドラマを今の日本人がどう感じるか、それを知るのも楽しみです。
明智憲三郎さん、ありがとうございます。
【全文はこちら】
>>> ブログのページ
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謎とされてきた光秀の前半生・系譜・享年などに決着がつきます。「斎藤道三に仕えた」なんてありえない。「道三と死に物狂いで戦った」のですから。
定説では、明智光秀は弘治2年に斎藤道三が息子の義龍に討たれた戦いで道三に加担して落城し、越前に落ち延びて朝倉義景に仕えた。その後、永禄9年に織田信長に仕え、信長と義昭の間を取り持って上洛させた。ということになっています。
ところが私の歴史捜査では、弘治2年光秀は義龍に加勢して道三を討ち、その後、越前の朝倉家を頼り、舟寄の黒坂備中守に仕えて10年間長崎称念寺のそばに居住しました。永禄8年に近江で足利義昭に加勢したのち、義昭らと越前に戻り、東大味(現在、明智神社のあるところ)に居住しました。そして、永禄11年に義昭らと上洛しました。その間、信長には仕えていません。細川藤孝に仕えて、幕府の足軽衆だったのです。
このことは9月出版の新刊にも書いたことですが、光秀は永禄8年に近江で足利義昭の加勢として戦っています。それを示す史料の情報がようやく脚光を浴びました。2014年に発見されたものですが、今まで無視されてきたのは定説に合わないからでしょうか。実はこの史料とは別の史料もあるのですが、従来元亀3年の史料だと誤った年代比定が行われていたために気づかれないままだったものです。まさに「436年後の発見!」です。
ともかく、新刊に書いた光秀の前半生が裏付け強化されたことは大変結構なことです。
>>> 「明智光秀の動静を示す最古の史料発見」記事
>>> 熊本県立美術館「ガラシャ展」
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ
舟寄館から長崎称念寺の林を遠望
東大味の明智神社
>>> YouTube「光秀プロジェクト始動」動画 謀反人か英雄か、それとも
>>> 河出書房新社特設サイト「光秀からの遺言」
>>> 河出書房新社特設サイト内「明智光秀全史料年表」
9月27日河出書房新社より発売『光秀からの遺言 436年後の発見』
>>> 河出書房新社のページ
【東京新聞2018年7月21日10面記事】
歴史を捜査する手法は仮説推論法(アブダクション)という手法です。歴史学者の方々の論説を見てると、残念なことに、この手法を理解している歴史学者がいないのではないかと思わざるを得なかったのですが、その手法を理解し、駆使している学者の存在を東京新聞の記事で初めて知りました。どうやら理解していないのは日本中世史の正統派の方々の特殊性のように見受けられます。あるいは古代史でも事情は同じなのかもしれませんが。
>>> 邪馬台国の会:東京新聞の記事
邪馬台国の研究者の安本美典氏です。
記事の中で次のように語っています。安本氏は仮説検証法と書いていますが、仮説推論法と同じものです。
私は仮説検証法という方法を取ります。かつては絶対正しいという公理(前提)を設けて定理に進み議論を展開していたのですが、現代では仮説の前提は絶対に正しいものではなくてもよく、その前提から矛盾のない大きな大系がどれだけできるかによって、価値が決まることになりました。
「ある一部分の事実だけをとりあげて、マスコミ報道に持ち込むという方法をとりません。それは宣伝であって、証明にはなりません」とも語っています。
まことに同感です。
私が歴史捜査と名付けた仮説推論法について、本能寺の変を例に以下に解説いたします。
従来の本能寺の変研究は光秀が謀反に及んだ動機論に終始し、謀反の実行プロセスの解明は行われてこなかった。当日起きた出来事はすべて偶然で片付けられている。光秀が信長や信忠を討てたのは信長が油断して、あの日の京都に軍事空白が生じたからであり、光秀は「偶然・幸運」にもこの機会を得て、謀反を思い立った。そのため準備も不十分で「無策・無謀」な行為だったため、味方もないまま中国大返しを行った秀吉に敗れて滅亡したという理解である。これを、仮に「偶発説」と名付けておく。
現代に起きている犯罪を考えてみていただきたい。動機があれば犯罪が成立するわけではない。成功させる見込みが立たずに実行に至らないケースの方がはるかに多いはずだ。
つまり、光秀が謀反の実行に踏み切ったということは謀反成功の見込みが立って、謀反の実行計画が立案できたのだ。この計画がいかなるもので、どのように実行されたのかを解明しなければ本能寺の変を解明したことにはならない。現代の犯罪捜査が動機の解明だけでは立件に至らないのと全く同じだ。
歴史の真実を信憑性ある史料の記述から復元する実証主義史学の基本姿勢は肯定すべきものである。しかし、歴史の真実について確定的な事実を直接的に書き残した史料が存在しないケースは多々ある。書かれていない史実を推理して埋める必要がある。この事情は現代に起きている犯罪でも同じだ。確定的な証拠のない事件も多い。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を次のように設定している。
「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明することができない」。
この手法を歴史に適用した実証的手法を私は歴史捜査と名付けた。具体的には論理学で用いられる仮説推論法(アブダクション)という手法だ。
仮説推論法は、関連する証拠を最もよく説明する仮説を選択する推論法である。仮説推論法は観察された事実の集合(証拠群)から出発し、それらの事実についての最も辻褄の合う、ないしは最良の説明へと推論する。
私は25件の証拠から、9個の疑問を抽出し、その疑問のすべてに辻褄の合う答として、「信長による家康討ちの計画が立案されて進行していた」という答を出した。
私の出した答だけを見れば「ありえない」と誰もが叫ぶ。私自身、出てきた答に初めはそう思ったのだから、読者がそう思うのは当然である。しかし、これは憶測で出した答ではない。憶測とは不確かな根拠をもとに推測することだ。私の出した答は25件の具体的かつ確かな証拠から推論したものである。逆に偶発説には何も根拠がない。どの証拠をもってして偶然と立証するのか妥当な説明を見たことがない。
また、光秀の謀反の動機を野望とする説の根拠はこの説の提唱者の「信長は天下が欲しかった、秀吉も天下が欲しかった、光秀も天下が欲しかったのである」という主観的な説明だけしか存在しない(高柳光壽著『明智光秀』吉川弘文館)。これが実証的であろうはずがない。それこそ憶測としか言えない。怨恨とする説も同様だ。光秀が信長を恨んでいたとする明確な証拠が存在しない。また、恨んでいたから謀反を起こすという推論の妥当な説明もない。
私の推論は『織田信長 435年目の真実』幻冬舎文庫・二〇一八年四月発行の第七章に詳述したのでお読みいただけると幸いである。その推論に誤りがあるのであればご指摘いただきたい。
なお、信長が家康討ちを光秀に命じたとする兵の証言を以って信長が家康討ちを企てた決定的な証拠だとしているわけではない。光秀が兵に対して、このような命令を下したというのではなく、兵が勝手にそう思っただけだからだ。兵の証言が本当のことだったと仮定する(仮説を立てる)と、他の証言の辻褄が合うことを検証できたことを決め手としているのだ。
仮説推論法や蓋然性ということを理解せずに答だけ読んだ読者は残念だが「奇説」と叫び続けるしかないであろう。
また、「家康黒幕説」というレッテルを貼っている読者がいるようだが、どう浅読みしてみても明らかに光秀が主犯で家康は従犯だ。従犯の黒幕はあり得ない。どうやら誤解というよりも、何か裏の意図があるようだ。家康黒幕説だと主張している人にその理由を質問してみて、その論理性を確認していただきたい。
>>> 歴史に学ぶ、とは?
>>> 信長に何を学ぶか?
>>> 怨恨・野望・偶発説は完全フェイク
>>> 隠蔽された謀反の動機
amazonのカスタマーレビューに投稿された読者の書評「他の類書を寄せ付けない圧倒的な真実味、それゆえの面白さ」をまずご紹介します。
【抜粋】
歴史捜査から家系捜査へ。前作『光秀からの遺言』で土岐明智系図を解明し「光秀以前」に決着をつけた明智氏は、自身のルーツの検証も含めた「光秀以後」の研究に乗り出します。光秀に関する玉石混交の諸説に翻弄されている他の研究者の一歩先を行く、真実探求への気概に満ちた執念の作品です。「代々継承されているという事実」の強さ、重みが、今回も読んでいてひしひしと感じられます。(中略)
最後に、本作の山場となるのは、頼芸の子・頼次(小次郎)の長男と次男をめぐる推理です。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する最後の土岐守護・頼芸の系図をずっと下っていくと、ある著名人にたどり着きます。彼はなぜ「美濃守護」でも「幕府旗本の高家」でもなく、「光秀の子孫」だと聞かされてきたのか。家系捜査の締めくくりに大きな収穫が待ち受けていました。
そして最後の最後。再び550年ばかり遡って、前作で一躍キーパーソンとして登場した明智玄宣(光高)についての驚きの報せ。幕府奉公衆、連歌の素養、「光」の系譜。玄宣の兜が静かに光る。光秀のルーツのほうも今後目が離せません。 (後略)
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なりゆきさんのブログ「読まずに死ねない」から
【抜粋】
とても冷静な方で、「歴史というもの、それが大衆の人気をアテにした歴史物という商品になるとどうなるか?」が書いてありまして。
本能寺の変から110年以上、経ってから刊行された「明智軍記」という物語が江戸時代に創作され、当時の木版出版の普及による出版ブームによって大ベストセラーとなり、歴史の常識として広まったという。
1960年だいに司馬遼太郎さんが「国盗り物語」を書いたが、これもこの話を元に書かれてベストセラーとなり、これを原作として1973年に大河ドラマが放映された。その結果、「明智軍記」のストーリーが日本中に広まった。 とのことで。 (中略)
拡大主義の戦国武将は一代で滅び、家康のように儒教に理念を転換した覇者は長期に安定した社会を築いた。現代社会も拡大を追求することから、持続することに理念を転換する時期にあるのではないか。
と、あとがきは終わるのですが。
時代は麒麟を求めている。
光秀の子孫、憲三郎さんの想いは、光秀の安寧の世を願う祈りと一致するのです。
今回、大河ドラマの主人公を光秀にするあたり、制作側のコメントは、「従来の価値観を見直す時代だから」というもので。
一致していますよね。
「麒麟がくる」も楽しみですし、このドラマを今の日本人がどう感じるか、それを知るのも楽しみです。
明智憲三郎さん、ありがとうございます。
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謎とされてきた光秀の前半生・系譜・享年などに決着がつきます。「斎藤道三に仕えた」なんてありえない。「道三と死に物狂いで戦った」のですから。
定説では、明智光秀は弘治2年に斎藤道三が息子の義龍に討たれた戦いで道三に加担して落城し、越前に落ち延びて朝倉義景に仕えた。その後、永禄9年に織田信長に仕え、信長と義昭の間を取り持って上洛させた。ということになっています。
ところが私の歴史捜査では、弘治2年光秀は義龍に加勢して道三を討ち、その後、越前の朝倉家を頼り、舟寄の黒坂備中守に仕えて10年間長崎称念寺のそばに居住しました。永禄8年に近江で足利義昭に加勢したのち、義昭らと越前に戻り、東大味(現在、明智神社のあるところ)に居住しました。そして、永禄11年に義昭らと上洛しました。その間、信長には仕えていません。細川藤孝に仕えて、幕府の足軽衆だったのです。
このことは9月出版の新刊にも書いたことですが、光秀は永禄8年に近江で足利義昭の加勢として戦っています。それを示す史料の情報がようやく脚光を浴びました。2014年に発見されたものですが、今まで無視されてきたのは定説に合わないからでしょうか。実はこの史料とは別の史料もあるのですが、従来元亀3年の史料だと誤った年代比定が行われていたために気づかれないままだったものです。まさに「436年後の発見!」です。
ともかく、新刊に書いた光秀の前半生が裏付け強化されたことは大変結構なことです。
>>> 「明智光秀の動静を示す最古の史料発見」記事
>>> 熊本県立美術館「ガラシャ展」
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』エピローグ
舟寄館から長崎称念寺の林を遠望
東大味の明智神社
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9月27日河出書房新社より発売『光秀からの遺言 436年後の発見』
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【東京新聞2018年7月21日10面記事】
歴史を捜査する手法は仮説推論法(アブダクション)という手法です。歴史学者の方々の論説を見てると、残念なことに、この手法を理解している歴史学者がいないのではないかと思わざるを得なかったのですが、その手法を理解し、駆使している学者の存在を東京新聞の記事で初めて知りました。どうやら理解していないのは日本中世史の正統派の方々の特殊性のように見受けられます。あるいは古代史でも事情は同じなのかもしれませんが。
>>> 邪馬台国の会:東京新聞の記事
邪馬台国の研究者の安本美典氏です。
記事の中で次のように語っています。安本氏は仮説検証法と書いていますが、仮説推論法と同じものです。
私は仮説検証法という方法を取ります。かつては絶対正しいという公理(前提)を設けて定理に進み議論を展開していたのですが、現代では仮説の前提は絶対に正しいものではなくてもよく、その前提から矛盾のない大きな大系がどれだけできるかによって、価値が決まることになりました。
「ある一部分の事実だけをとりあげて、マスコミ報道に持ち込むという方法をとりません。それは宣伝であって、証明にはなりません」とも語っています。
まことに同感です。
私が歴史捜査と名付けた仮説推論法について、本能寺の変を例に以下に解説いたします。
従来の本能寺の変研究は光秀が謀反に及んだ動機論に終始し、謀反の実行プロセスの解明は行われてこなかった。当日起きた出来事はすべて偶然で片付けられている。光秀が信長や信忠を討てたのは信長が油断して、あの日の京都に軍事空白が生じたからであり、光秀は「偶然・幸運」にもこの機会を得て、謀反を思い立った。そのため準備も不十分で「無策・無謀」な行為だったため、味方もないまま中国大返しを行った秀吉に敗れて滅亡したという理解である。これを、仮に「偶発説」と名付けておく。
現代に起きている犯罪を考えてみていただきたい。動機があれば犯罪が成立するわけではない。成功させる見込みが立たずに実行に至らないケースの方がはるかに多いはずだ。
つまり、光秀が謀反の実行に踏み切ったということは謀反成功の見込みが立って、謀反の実行計画が立案できたのだ。この計画がいかなるもので、どのように実行されたのかを解明しなければ本能寺の変を解明したことにはならない。現代の犯罪捜査が動機の解明だけでは立件に至らないのと全く同じだ。
歴史の真実を信憑性ある史料の記述から復元する実証主義史学の基本姿勢は肯定すべきものである。しかし、歴史の真実について確定的な事実を直接的に書き残した史料が存在しないケースは多々ある。書かれていない史実を推理して埋める必要がある。この事情は現代に起きている犯罪でも同じだ。確定的な証拠のない事件も多い。最高裁は確定的な証拠がなく、状況証拠のみで有罪と判断する基準を次のように設定している。
「被告人が犯人とすると矛盾なく説明することができ、かつ被告人が犯人でないとすると矛盾なく説明することができない」。
この手法を歴史に適用した実証的手法を私は歴史捜査と名付けた。具体的には論理学で用いられる仮説推論法(アブダクション)という手法だ。
仮説推論法は、関連する証拠を最もよく説明する仮説を選択する推論法である。仮説推論法は観察された事実の集合(証拠群)から出発し、それらの事実についての最も辻褄の合う、ないしは最良の説明へと推論する。
私は25件の証拠から、9個の疑問を抽出し、その疑問のすべてに辻褄の合う答として、「信長による家康討ちの計画が立案されて進行していた」という答を出した。
私の出した答だけを見れば「ありえない」と誰もが叫ぶ。私自身、出てきた答に初めはそう思ったのだから、読者がそう思うのは当然である。しかし、これは憶測で出した答ではない。憶測とは不確かな根拠をもとに推測することだ。私の出した答は25件の具体的かつ確かな証拠から推論したものである。逆に偶発説には何も根拠がない。どの証拠をもってして偶然と立証するのか妥当な説明を見たことがない。
また、光秀の謀反の動機を野望とする説の根拠はこの説の提唱者の「信長は天下が欲しかった、秀吉も天下が欲しかった、光秀も天下が欲しかったのである」という主観的な説明だけしか存在しない(高柳光壽著『明智光秀』吉川弘文館)。これが実証的であろうはずがない。それこそ憶測としか言えない。怨恨とする説も同様だ。光秀が信長を恨んでいたとする明確な証拠が存在しない。また、恨んでいたから謀反を起こすという推論の妥当な説明もない。
私の推論は『織田信長 435年目の真実』幻冬舎文庫・二〇一八年四月発行の第七章に詳述したのでお読みいただけると幸いである。その推論に誤りがあるのであればご指摘いただきたい。
なお、信長が家康討ちを光秀に命じたとする兵の証言を以って信長が家康討ちを企てた決定的な証拠だとしているわけではない。光秀が兵に対して、このような命令を下したというのではなく、兵が勝手にそう思っただけだからだ。兵の証言が本当のことだったと仮定する(仮説を立てる)と、他の証言の辻褄が合うことを検証できたことを決め手としているのだ。
仮説推論法や蓋然性ということを理解せずに答だけ読んだ読者は残念だが「奇説」と叫び続けるしかないであろう。
また、「家康黒幕説」というレッテルを貼っている読者がいるようだが、どう浅読みしてみても明らかに光秀が主犯で家康は従犯だ。従犯の黒幕はあり得ない。どうやら誤解というよりも、何か裏の意図があるようだ。家康黒幕説だと主張している人にその理由を質問してみて、その論理性を確認していただきたい。
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>>> 隠蔽された謀反の動機
この部分が特に興味深かったです。どういう歴史資料(同時代史料ではないかもしれませんが)でそれをお知りになられたのか、よろしければ教えてください。
道三に滅ぼされた土岐氏の一族が道三に加担する方が不自然と感じませんか? 司馬遼太郎「国盗り物語」によって日本中の常識が狂ってます。