本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

本能寺の変:定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」

2010年07月04日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 >>> 本能寺の変の定説は打破された
 >>> 「織田信長」の虚像を暴く!『信長脳を歴史捜査せよ!』
 

 本能寺の変が勃発すると堺にいた徳川家康一行は直ちに脱出を図り、途中一揆に襲われながらも伊賀を越えて三河の岡崎まで命からがらたどり着いた。一行に同行していた穴山梅雪(あなやま・ばいせつ)は家康一行と離れたため一揆に殺された。岡崎に帰りついた家康は光秀討ちに動こうとしたが「中国大返し」をした秀吉に先をこされてしまった。
 これが世にいう「神君伊賀越え」の顛末として誰も疑わない定説となっています。
 軍記物や歌舞伎を通じて広まっていた、この通説を本能寺の変研究界で定説にしたのは高柳光寿氏です。高柳氏とその著『明智光秀』がいかに研究界で権威あるものとなっているかは本ブログでも紹介したとおりです。
 ★ 定説の根拠を斬る!「中国大返し」

 高柳氏の『明智光秀』の記述をご紹介します。
「そして翌二日朝、本能寺の変報に接したのであった。そこで彼は信長に面会の必要があるといってすぐ堺を発し、伊賀越をして岡崎に帰ることができたが、それは非常の困難を極めたものであった。家康とともに堺に赴いた駿河江尻の城主穴山信君(梅雪のこと)は途中で一揆に殺された。フロイスはこのことについてその書状の中で、家康は引連れていた兵士も多く金子(きんす)も十分であったので、あるいは脅し、あるいは物を与えて通過することを得たが、信君は出発が遅れた上に部下の人数も少なかったために、たびたび一揆に襲撃され、部下と荷物とも失い、最後には自分も殺されたといっている。これは恐らくは事実であったろう(『家忠日記』『三河物語』『日本耶蘇会年報』)。
 家康は六月四日岡崎に帰ると居城浜松には赴かないで、翌五日すぐに光秀に対して敵対行動に出た。けれども、彼はそれよりも甲斐・信濃の経営を主としたのであって、十四日には自分で兵を率いて尾張の鳴海(名古屋市緑区)まで到るという有様であったが、その行動は緩慢であり、十九日になって、秀吉から光秀の滅亡を通知し帰陣するようにいって来たので、二十一日には兵をかえしたのであった(『家忠日記』『当代記』『三河物語』『寛永諸家系図伝』『古今消息集』『深沢文書』『一蓮寺文書』『吉村文書』『高木文書』)」

 以上の記述によって家康は命からがら「神君伊賀越え」をして堺から逃げ帰ったこと、同行していた穴山梅雪が一揆によって殺されたこと、そして家康が光秀に対して敵対行動に出たことが定説となりました。もちろん、こういった話は軍記物がいろいろ書いて世の中に広まった通説になっていましたが、これを史実と認定したことになったのです。
 それでは、穴山梅雪が一揆に殺されたとする「史実」の裏付けから確認してみましょう。
 高柳氏は本文中でフロイスの書状の記述を引用して「これは恐らくは事実であったろう」と書いています。「あったろう」ですから断定したわけではないですが、歴史学界の権威者がこう書けば誰もが「史実と認定された」と受取ってしまうのでしょう。
 ところが、当時九州にいたフロイスがどのようにしてこの情報を入手したのかを考えると、果たして「事実であったろう」と言ってしまってよいのかと疑問に思いませんでしょうか。フロイスの文章を読むと実に奇妙なことに気が付きます。あたかも穴山梅雪一行に同行していた人物が話したような内容になっています。梅雪本人と最後まで行動を共にして生き残った人物が存在することになりますが、そのようなことがありえるのでしょうか。

 「事実であったろう」の直後に根拠史料が3つ書かれています。3つ目の『日本耶蘇会年報』にフロイスの書状が掲載されているわけですが、この書き方だと残りの2つにもフロイスの記述を裏付けることが書かれていると思ってしまいます。私も自分で確認するまではそう思い込んでいました。
 それでは家康の家臣で、岡崎に近い深溝(ふこうず)城主・松平家忠が書き残した『家忠日記』を見てみましょう。天正十年六月四日の日記に次のように書かれています。(現代語に訳しています)
 「家康以下、伊勢地をたって、大浜に上陸したので、町までお迎えに行った。穴山は腹を切った。帰り道の途中で織田信澄が謀反に加わったのは噂にすぎないと聞いた」

 この記述はフロイスの記述を裏付けているでしょうか?
 私にはフロイスの記述を全面否定していると読めます。穴山梅雪は一揆に殺されたのではなく、自分で腹を切ったのです。しかも、家忠の記述の順に従えば、大浜に帰り着いてから切腹したと読めます。また、信澄謀反は噂に過ぎないと「聞いた」という伝聞の書き方をしているのに対して、梅雪切腹は伝聞の書式をとっていません。自分自身で確認できたこととして書いています。これも聞いた話であれば家忠はきちんと「穴山は切腹と聞いた」と書いたでしょう。フロイスが言うように梅雪が家康一行に遅れてしまい、離れ離れになったために一揆に殺されたり切腹したのであれば、先行した家康一行がどうやってその情報を入手できるのでしょうか?
 つまり、穴山梅雪は一揆に殺されたのではなく、徳川家康によって切腹させられたのです。
 家忠が直接的に家康一行と接触できたこと、その内容をその当日に日記として書き残していること、さらに家忠がビジネス文書のような極めて正確な記述で日記を書いていることを考えるとフロイスの伝聞による記述とは比べようもなく信憑性の高い記述です。
 それでは、何故梅雪は切腹させられたのかという話は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みいただくことにして、次回はさらに「神君伊賀越え」の定説を斬っていくことにします。

 >>>続き
 
【定説の根拠を斬る!シリーズ】
   定説の根拠を斬る!「中国大返し」
   定説の根拠を斬る!「安土城放火犯」
   定説の根拠を斬る!「岡田以蔵と毒饅頭」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)
   定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(最終回)
   定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その2
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その3
   定説の根拠を斬る!「光秀の敗走とその死」その4 

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本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
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19 コメント

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RE:興味深い情報 ()
2015-09-05 20:30:21
当時の噂でも「家康が信君を殺したのではないか?」と言われて見性院もその噂自体は知っており、また家康や伊賀越えに従事してきた重臣たちの態度から、うすうす気付いていた。が、武田の実家は滅んでしまっている現状から、再興のため(身内の親戚の子がいるだろうけどそれよりも)、なんといっても時の最高権力者である徳川家の子を得ることで、自家の存続・繁栄を保証される道を選んだ、と理解いたしました。素早い返答と捜査をいただき、誠にありがとうございました。
返信する
興味深い情報 (明智憲三郎)
2015-09-05 11:49:50
 興味深い情報をいただきありがとうございます。
 見性院が梅雪謀殺の事実を知っていたのかどうか?
 おそらく「薄々知っていた」という状態だったのではないでしょうか。
 武田信玄が諏訪頼重を降伏させた後、甲府に連行して幽閉した後に自害させていますが、その際に子の安全を保証しています。後に娘は信玄の側室となり勝頼を生んでいます。この例のように家の存続の保証と引き換えに梅雪も自害したのではないでしょうか。
 梅雪自害後に武田家の家督は梅雪の子の勝千代が継ぎ、勝千代早世後の天正十五年(1587)には家康の五男万千代が継いでいます。ご紹介いただいたブログの3番目に「保科正之を養子にもらった見性院は武田幸松君と呼んだ」旨が書かれているように、時の最高権力者である徳川家の子を得て、自家の存続・繁栄を保証されることは見性院にとって「ありがたいこと」だったのでないかと思われます。
返信する
家康と見性院 追跡捜査 ()
2015-09-05 08:08:00
家康と見性院のつながりを調べてみると、家康から厚遇はしていたようです。
http://blog.livedoor.jp/kinginsango/archives/1945142.html
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub1sizu.htm
http://homepage3.nifty.com/orimoto/newpage14.html
保科正之の養育が、家康の指図ではなく黙認だとしても、幕臣が根回ししているし、伊賀越えの参加者が信君暗殺を黙秘していても、見性院はその関係者の態度から察知するだろうから、いや、お詫びのつもりで厚遇したのか、資料が少ないのも困りますが沢山あっても逆に情報の取捨選択に困るというか、私には捜査しきれないです。
返信する
穴山信君の未亡人ルートから検討 ()
2015-09-04 20:40:40
大変興味深いコメントのやりとりだと思いました。穴山信君の未亡人が将軍秀忠の子を預かっているので(保科正之3歳 1613年)、この点から私は切り込んでみました。家康が信君を切腹させたのなら、孫を未亡人には預けまい、との仮説です。もっとも滅ぼした諏訪家の娘を室にした信玄ですから、あまり気にしない家だったのかもしれませんが。
氷川神社の祈願文(ネット上に有)を見ると、信玄の子である見性院と信松院が中心になって活躍したことがわかりましたが、この祈願文書内のやりとりには、家康の指図が含まれていたようには見えません。信君未亡人からの検討切り込みは、あいにく行き詰まりでした。以上。
返信する
御礼 (明智憲三郎)
2013-01-18 14:16:03
 歴史の専門家の方に同じ土俵に降りていただいて、証拠と論理のレベルでの対論を提示いただいて、議論させていただいたことに深く感謝しております。
 拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いた結果(答)を出すにあたって、私は「蓋然性」を評価の軸に置きました。可能性のある複数の答を考え、それぞれの蓋然性の高さを評価して一番高い答を選んでいく方式です。
 したがって、様々な想定される答の評価は行ったつもりでいましたが、他者の目であらためて「想定される答」を提示いただいたことによって、より検討を深めることができました。
 たとえば、梅雪切腹の時点と場所についてです。私は『家忠日記』の記述から家康一行が帰着してから切腹が行われ、家忠がそれを目撃した蓋然性が一番高いと判断していました。しかし、今回ご指摘いただいたように家康が梅雪を処分するのであれば、何も帰着後に切腹させなくてもよく、伊賀越えの道中で切腹させた可能性もあり、そこまで広げて考えるべきと気付きました。
 このような具体的な成果がありましたことにも感謝しております。
返信する
再度ご疑問について (aki)
2013-01-17 20:16:50
 生き残りの証明をしないと論拠にならないのであれば、家康によって切腹させられたという証明もされていませんので論拠にならなくなってしまいます。どちらも史料しての可能性があるというレベルで一緒です。穴山一行の数は分かりませんが、相手側を殲滅するような戦闘が起きるのはごくまれだと思います。本能寺の変ですら生き残りが多くいるのですから。一揆側は皆殺しにしたと放言するかも知れませんが。
 一揆に襲撃されていて、すぐに隠れた従者が一部始終を目撃して、一揆が去った後に急いで家康たちに合流した。別にありえない光景ではありません。当然、威張れる行動ではありませんから、誇るわけがありません。名のある武士として生き残らなければ、逸話も残りません。上記のような事態がなかったと断言できるでしょうか?
 一揆の目的は金品を奪うだけではないでしょう。名のある武将と見て首を取り明智方に報償をもらいにいったと考えるのは自然です。その際に顛末を話した。こう考えることは十分可能です。イエズス会が京都周辺からその情報を入手することも可能でしょう。おっしゃるようにあくまでも、史料では証明できない想像レベルです。しかし、それは明智さんの家康による切腹説も同じです。
  いずれにしても史料解釈についての論点は出尽くし、明智さんが史料解釈の前提とする状況について、妥当かどうかの域にきていると感じます。まだ、ご高著を確認できていませんので、またの機会としたいと思います。ご対応いただきありがとうございました。

 信澄の件ですが、『家忠日記』で問題となっているのは信澄が本能寺を襲撃したかどうかであり、信澄が光秀に通じているかどうかではありません。家康は信澄が大坂にいるのを知っていたため、襲撃に加わっていないことを伝え、光秀・信澄の襲撃風聞を否定したわけです。信孝らは信澄が光秀に同調することを恐れて殺害したのであり、彼らは信澄が本能寺襲撃に関与していたかを問題としたわけではありません。両者はまったく次元の違う話です。光秀と家康が共謀していたとする先入観があるからそれを混同して、「奇妙」に感じるのではないでしょうか?
 なお、私は通説を擁護しようという視点で史料を読んでいるわけではありません。そもそも本能寺の変を研究しているわけではありませんので、今回俎上に上った史料は、明智さんのブログを拝見し、やりとりをする以前に読んだことはありませんでした。通説は知っていますが、通説が個々の史料をどう評価しているかについては全く知りませんでした。ただ、明智さんの考察から家康の策謀を前提に史料を強引に解釈されている部分が見られましたので、それ以外の読み取り方が可能ではないかという疑問をぶつけました。
返信する
やはり疑問が解消できません (明智憲三郎)
2013-01-17 12:37:20
 一揆に殺されたという情報が梅雪一行の生き残りや一揆側から広まったという点には以下のように疑問が消えません。
 穴山同行者の生き残りがいたという記録は見たことがありません。その存在を立証しないと論拠になりません。また、そもそも一揆に襲われて梅雪が切腹する状況下で、家臣が梅雪を見捨てて家康一行に合流するという状況がどのように成立するのか想像できません。梅雪一行と家康一行は同行していたことになりますが、そのようなことがあったということを家康同行者側の記録には記述が一切ありません。極めて不自然です。
 一揆から梅雪殺害情報がイエズス会へ流れたという説はさらに論拠が乏しいと考えます。一揆の当事者が梅雪を殺した話をどういう理由で誰に報告するのでしょうか?また、その情報を得た人物からイエズス会までどうやって情報がつながるのでしょうか?
 一方、岡崎に帰着した家康一行は徳川家中から質問攻めに合ったことも、そこで説明責任を果たしたことも間違いありません。したがって、徳川家中には家康一行から話が広がったとみるのが当然でしょう。同じように六月十九日に秀吉の使者が家康に帰陣命令を伝えた際に家康に伊賀越えの顛末の報告を求めた可能性は高いでしょう。(この時点でなくとも早晩、家康は秀吉の問いに答えて説明責任を果たしたでしょう) さらに、武田旧臣と接触した徳川家の人間は同じように梅雪の消息を真っ先に質問されたでしょう。そこで、家康家臣は説明責任を果たしたと考えるのが自然です。
 そして、その際に家康一行なり家臣がどのような説明を行ったかは、これも容易に想像ができます。「我々が殺した」などとは口が裂けても言うわけがありません。おそらく、死んだいきさつについて具体的に回答すれば根ほり葉ほり質問されて馬脚が出る危険があるので、「梅雪一行とはいつの間にかはぐれた。おそらく一揆に襲われて殺されたのだろう」といった回答が一番可能性が高いと考えられます。以上は何の無理もなく考えられることです。
 この回答内容は徳川家中の大久保忠教(『三河物語』作者)に日を置かず伝わったでしょう。太田牛一(『信長公記』作者)には秀吉なり織田家から様々なルートで伝わったでしょう。イエズス会のルイス・フロイス( 『日本耶蘇会年報』作者)には太田牛一から伝わった可能性を拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いてありますので、ご覧ください。
 このように見ると、「一揆に殺された」という証言の信憑性は極めて低く、現代の犯罪捜査であればまともな証言として採用されることはないと断言してもよいでしょう。
 一方で、家忠の証言から梅雪が「切腹」したことは極めて確実であり、家康一行と家忠との共通認識であったことが確認できます。
 問題はこの切腹が一気に襲撃されたためのものか、家康から強要されたものか、どちらの可能性が高いかです。
 切腹を決意する状況に至り、切腹という行為を完結するまでの時間がどれだけかかるかはわかりませんが、それが瞬時に終わるものとは思えません。そうすると、確信をもって「切腹也」と言えた人物は至近距離で一定時間、梅雪の行動を見ていたことになります。
 もし、これが一揆に襲われた状況で起きたのなら、その人物は果たしてどうやって無事に脱出できたのでしょうか。なかなか想像できない状況です。また、そこまで危機に見舞われたのであれば、手柄話として語って書き残さないわけがないでしょう。ところが、梅雪が切腹したと証言している家康一行は誰もそのような記録を残していません。
 こうして見ると切腹を目撃した人物は自分が安全な状態で切腹のプロセスの一部始終を観察しえた、だから「切腹也」と言い切れる確信を得たと考えるられます。そのような状況とは家康方に強要されて梅雪が切腹した状況に他なりません。
 その状況として『家忠日記』の書き方からして家忠がその現場を目撃したと私は解釈したわけですが、ご指摘の通り家康一行の話を聞いて確信した可能性がまったくないと決め付けるわけではありません。家忠の文章を素直に読めば、家忠が目撃したと思えるのですが、伊賀越えの道中で梅雪一行を処分してしまう方が、ご指摘のように容易かもしれません。
 なお、以上のような判断の背景には当時の政治状況をどのように見るかという視点が存在します。家康が梅雪を処分したい状況にあったのかどうか。「家康の仕業ともいわれる」「家康を疑って梅雪は家康一行から離れた」という当時の人々の認識は、そういう状況にあったことを示していると考えますが、拙著に書いている全体像の説明もご参照いただけると幸いです。
 別件として書かせていただいた「信澄誤報」の件については「とくに気になりません。家康は信澄が大坂にいることは知っていたので、本能寺襲撃に信澄が関与していないことは明白だと認識していただけでしょう」と書いておられますが、家康同様に信澄が大坂にいることを知っていて、それどころかその信澄と一緒に大坂にいた織田信孝・丹羽長秀が信澄謀反を疑って殺害してしまったわけですから、私には「気になる」どころか、この記述は「奇妙」の感がぬぐえません。おそらく、本能寺の変の通説が軍記物をはじめとする信憑性の乏しい史料の記述を根拠に成立していて、そのような通説の全てをいったん白紙にして証拠の見直しから史実を再構成するというスタンスで私は見ているからだと思います。
 この点、通説が正しいことを前提とされている方々とは検事と弁護士のように細部に渡って異議が発生することになるのは当然です。議論をより有効なものにするため私の「検事調書」なり「論告求刑書」なりに相当する拙著をご一読いただけると幸いです。
 
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ご疑問について (aki)
2013-01-16 21:34:34
1 以前に述べましたように、梅雪一行の生き残りが合流した可能性があります。
2 別行動の梅雪の死について書いたところで、何もアピールできないからかと。家譜を書いたのは子孫です。彼らは伊賀越えに同行したことこそがすでに最大の武功アピールと認識していたのでしょう。
3 『日本耶蘇会年報』は一揆側の証言が伝わった可能性が、『三河物語』は先述のように梅雪一行の生き残りの証言が伝わった可能性が考えられます。直接的には、一揆襲撃による切腹説の根拠ではなく、一揆襲撃殺害説の根拠です。以前に述べましたように一揆襲撃殺害説は一揆襲撃切腹説と矛盾しませんので、一揆襲撃部分の根拠としてあげたまでです。
4 ここのみ、家康による自害説に立ってのご疑問ということだと思いますが、仮に家康が大浜で自害させたとするならば、一揆に殺害されたとしか言いようがないでしょう。まさか、自分が自害させたなどと言うわけがありません。ただ、その場合、なぜ人目につく大浜で殺す必要があったのかという別の疑問が生じます。なぜ海上で殺さずに大浜上陸まで待ったのでしょうか?梅雪一行の死体はどうしたのでしょうか?
 一揆襲撃自害説では、家康たちが梅雪の死について知らないのであれば、わからない、と言ったでしょう。家康は実際のところ家忠に自害を伝えていますので、自害していたことは知っていたのでしょう(あるいは一揆に殺されたとしか知らなくても、梅雪の名誉のために自害と伝えたのかもしれません)。諸史料の一揆殺害説の情報源については、先述のように一揆側の証言が広まった可能性があります(イエズス会関係などはとくに可能性が高いですね)。
 なお、「梅雪旧臣を利用して甲斐簒奪を企てていた家康」とされていますが、実際の甲斐への工作に穴山衆はほとんど関与していないはずですが。これは平山優『穴山武田氏』(戎光祥出版、2011)で述べているように、穴山衆を利用することによって武田旧臣の反発を買うことを恐れていたためと考えられます。家康の甲斐計略については穴山衆は利用されていないのです。
5 武将としては、自害したことが重要だったのではないでしょうか。
津田信澄について、とくに気になりません。家康は信澄が大坂にいることは知っていたので、本能寺襲撃に信澄が関与していないことは明白だと認識していただけでしょう。
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一揆襲撃・自害説への疑問 (明智憲三郎)
2013-01-16 10:33:15
 仮に一揆に襲われて自害し、その光景を目撃した家康一行が家忠に伝えたとして、その説には下記の疑問があります。
1.梅雪が一揆に襲われて切腹するところを確認するには、かなり至近距離から事の顛末を確認する必要があるが、そうであれば何故救援に駆けつけるか、一揆が襲ってきた段階で後も見ずに逃げなかったのか。
2.家康に同行していた榊原康政、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、茶屋四郎次郎は寛政重修諸家譜などに伊賀越えの記事を書きながらも、梅雪の死については何も書き残さなかったのか。自分の手柄をアピールするには格好の材料(それほどの危険があったという)なはずである。
3.『日本耶蘇会年報』は「穴山殿は少し遅れ、兵も少なかったため、途中で掠奪にあい、財物を奪われまたその兵を殺され、非常なる困難を経て逃れた。(中略)途上で殺された」、『三河物語』は「穴山梅雪は家康を疑って、家康からすこし離れておいでになったために、盗賊どもに殺された。家康について引き揚げられたなら、なにごともなかったものを、ごいっしょなさらなかったことが不運である」と書いている。この記述の目撃者は誰なのか?また、この状況で家康一行が梅雪の「切腹」を確認できるとは思えず、「一揆襲撃による切腹説」の裏付けとはならず根拠にはあげられないのでは?
4.梅雪の死について公式報告できたのは家康以外に考えられないが、その場合に「一揆に殺された」という以外の答えがありえたのか?(甲斐の梅雪旧臣を利用して甲斐簒奪を企てていた家康には、真の死因が何であれ、こう答える以外なかったはず。それが伝聞として伝わって、『信長公記』『日本耶蘇会年報』『三河物語』に書かれたとみる方が蓋然性が高いのではないか)
5.家忠はなぜ「穴山は切腹也」と死に方を書いたのか?「穴山がいない。どうしたんだ」という疑問を家康一行に問うたら、「途中で一揆に襲われて死んだ」といった生死の問題をこたえるのではないか?(「切腹した(切腹させた)」ことが家康方の関心事だったのでは)

 なお、地元の郷土史には「家康一行が草内の渡しから木津川を渡った半日(または1日)後、梅雪一行は、土民に追われ、木津川が増水で渡れず、飯岡の渡し場で自害した」という話が地元に伝わっているとのことです。この話も家康一行が梅雪切腹の事実を持ち帰れないという点で同じです。
 別件になりますが、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』にも書きましたが、家忠日記の穴山切腹の後の「道中、津田信澄殿の別心は誤報であった(と聞いた)」という記述は気になりませんか?伊賀の山中を逃げてきた家康一行がどうしてこのような「確信情報」を持ち帰れたのでしょうか?
返信する
このように考えています (aki)
2013-01-15 19:48:52
 私は当初述べましたように『家忠日記』の梅雪切腹記事は、家康一行からの伝聞だと解釈していますので、その観点に立つ以上、現場にいたた人間の証言は存在しないことになります。
 つまり、家忠の切腹情報も他の史料に見える一揆による殺害説も、伝聞情報となります。ただ、『家忠日記』の記事は、同時代の最も早い情報であり、当事者に極めて近い人物からの伝聞ですので、他の史料に比べて信憑性は高いと思います。よって、梅雪は切腹した可能性は極めて高い。
 では他の(それも多数の)一揆殺害説との矛盾はどうするのかという問題ですが、結論を言えば矛盾はないと考えます。前に書きましたように、『信長公記』は梅雪は一揆に襲われ、自害したと記述しています。これは『家忠日記』の記事と矛盾しません。他の一揆殺害説の史料も、一揆に襲われ殺されたという記述ですから、死因が切腹だったという情報が漏れているだけで、『家忠日記』と矛盾はありません。
以上のように私は、『家忠日記』(自害説)、『信長公記』(一揆自害説)、『日本耶蘇会年報』『三河物語』(一揆殺害説)によって、「一揆の襲撃によって自害に追い込まれて殺された」と考えています。
なお、『老人雑話』ですが、「所為」を原因の意味に取れば「一揆に殺されたと言う、また家康のせいでともいう」と、家康を疑ったが為に死ぬ羽目になったという一揆殺害説と矛盾しない解釈も可能です。別に「家康の仕業で殺されたとも言われる」でも、問題ありませんが。
研究史への批判についてですが、ご指摘のように、従来の研究は『家忠日記』の記事にとくに注意を払っていなかったと思います。ただ、おそらくそれは、明智さんのように「大浜で自害させられた」と読み取った上で排除したのではなく、私と同様に「家忠が自害したという情報を得た」と読み取ったゆえに一揆殺害説と矛盾をきたす内容ではないとして問題としてこなかっただけではないでしょうか?梅雪の死に方にさほど関心がなかったのは確かでしょうが。
返信する
教えてください (明智憲三郎)
2013-01-15 09:43:35
 逆にaki様にお尋ねします。「梅雪は一揆に殺された」とする根拠史料は何でしょうか。
返信する
史料批判の厳密性 (明智憲三郎)
2013-01-14 23:16:22
 『信長公記』の記述の信ぴょう性については拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』23~24頁でも解説していますので、お読みいただきたいと思いますが、要は太田牛一も信長周辺情報以外については「フロイス同様に直接確認できる立場にない人間」です。
 現代の犯罪捜査では現場に居たただ1人の証人の証言と現場には居なかった100人の証人の証言が異なっていたときに、どちらの証言を採用するでしょうか? 前者に決まっていると思います。
 ところが、従来の歴史研究は、明らかに後者の証言を採用してきた、ということです。フロイスも太田牛一も大久保忠教も石川忠総も現場には居なかった。ましてや、江戸時代の軍記物作者は。
 そして、家康に同行していた当事者の榊原康政も茶屋四郎次郎も梅雪の死については何も証言していない。神君伊賀越えの証言は行っているが、梅雪の死については黙秘している。
 ただ一人、伊賀越えから帰着した家康一行を出迎えた松平家忠は明確に「梅雪は切腹した」と証言している。
 そのことを無視して頭から否定しているのは単に400年の時間のなせる業に過ぎないことの証明が本城惣右衛門、フロイス、江村専斎の証言です。彼らは、繰り返しになりますが、「自分がそう思った」といっているわけではありません。そこが重要です。「彼らの勘違い」という指摘は的を外しています。
 本城惣右衛門は「我等は、其折節、家康様御上洛にて候まま、家康様とばかり存候」と自分ひとりでなく皆がそう考えたと書いています。自分もそう思ったが、皆もそう思ったといっています。
 フロイスは「兵士たちはかような動きがいったい何のためか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主を殺すつもりであろう」と兵士たちが考えたと書いており、特定の誰かが考えたわけではないのです。ましてや、フロイスがそう思ったわけでもありません。
 江村専斎は「一揆に殺さるると云、又東照宮の所為なりとも云」と世の中で両説言われていると書いており、彼自身がどっちもありと考えたわけではありません。
 前回もこの点の重要性をご説明しましたので蛇足になりましたが繰り返しご説明させていただきました。400年前に彼らが残した証言を厳密に取り扱わねば、折角重要な記述を残してくれた彼らに申し訳ないと私は思っています。
返信する
返信遅れました (aki)
2013-01-14 14:22:27
 研究論文としての体裁が整っていれば、研究職についていなくとも学術雑誌には掲載されます。歴史学界と距離をとっていては、ご高著の指摘が学界に響くことが遠ざかるばかりだと思います。
 同時代人が梅雪が家康に殺されたという認識を持っていたことは疑う余地がありません。事情を知らなければ、変直後まで家康に同行していたはずの梅雪が死んでいるのですから、(一揆に殺害されたとしても)家康に殺されたんじゃ?と疑念を持つのはごく自然のことでしょう。
 『本城惣右衛門覚書』の認識にしても、重臣レベルではない者の認識ですから「京に行くなら家康を討つんじゃないの?」と想像するのは自然なことだと思います。
 おっしゃるように、後世の我々からすればありえない認識でも、当時はそのように認識されていたことは重要だと思います。ここで話題となった2例については、上で述べましたように、それぞれの置かれた立場を考えれば自然な発想だと理解できます。
 梅雪一行の生き残りの有無について史料的な裏付けは難しいと思いますが、『石川忠総留書』の記事をもとに生き残りはいないと主張する研究者がいたとすれば、その研究者は同時にその記事の信憑性を完全否定するという自己矛盾を起こしますね。
 なお、大浜で梅雪を自害させたとすると梅雪に同行していた家臣たちと戦闘になり、徳川側にも被害が出たと思われます。『家忠日記』には、それについての記載はありません(雑兵を200人討ち取った記事はありますが)。この点からも大浜で自害させられたとする説は納得しがたいものがあります。
ところで『信長公記』にも梅雪の死について記事がありますね。「宇治田原越えにて退られ候処、一揆共さし合ひ、穴山梅雪生害なり」と、一揆による自害が書かれています。
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こう考えます (明智憲三郎)
2013-01-09 10:49:06
 公式に論じるならば、太田牛一、大久保忠教、そして家康の伊賀越えに同行した榊原康政、茶屋四郎次郎らの同時代人の記述についての評価が必要だと思います。
 前二者は「フロイス同様に直接確認できる立場にない人間」と前回ひとくくりで書かせていただいた人物です。大久保忠教もフロイス同様の考えます。
 伊賀越え同行者は後年編纂された『寛政重修諸家譜』や『茶屋由緒記』に伊賀越えの手柄話が書かれていますが、梅雪の死については記述がありません。
 とくとくと伊賀越えの苦難と梅雪一揆殺害の報告を書いた『石川忠総留書』は研究者が喜んで論拠に使いますが、忠総は本能寺の変の年に生まれた人物であり、「フロイス同様に直接確認できる立場にない人間」です。
 一方、『老人雑話』を書いた江村専斎もフロイス同様に直接確認できる立場にない人間」ですが、彼の書いたことは「一揆に殺されたとも家康の仕業だともいわれる」であり、その2説が当時言われていたという事実を書いたわけです。
 したがって、『老人雑話』の記事を証拠として、「梅雪は家康に殺された」とは言えません。しかし、「当時は家康に殺されたともいわれていた」とは言えます。
 私はこのことは重要なことだと思います。当時の人々は「ありえる!」と認識していたという事実を現代の歴史研究者は「あり得ない!」と決めつけている理不尽を明らかにしているからです。『本城惣右衛門覚書』の「兵は皆、家康を討ちにいくものだとばかり思っていた」という本能寺討ち入りの記述も同様です。
 さて、梅雪の自害を見ていた家臣が家康一行に合流した可能性ですが、梅雪の家臣で伊賀越え後に生き残った人物がいたことが確認できれば蓋然性が上がります。私の調べた範囲では気が付きませんでした。
 石川忠総留書は「梅雪一行は一里後からついてきたが近郷の者に一人残らず討ち殺された」旨、書いており、この留書を盾にして反論する研究者がいそうです。
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ご助言ありがとうございます。 (明智憲三郎)
2013-01-09 09:55:55
 個別の事象を研究論文として発表するとよいというご助言ありがとうございます。研究誌の投稿規定など調べておりますが、歴史学界には門外漢でしたので、敷居が高く感じております。あらためて検討してみたいと思います。
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回答ありがとうございます。 (aki)
2013-01-08 19:03:35
史料批判を厳密にされて史実の再構築をなさっている様子を拝見して、感銘しております。「歴史捜査」と名付けておられますが、方法そのものは歴史学の基本的な方法と同じものだと思っております。ご高著への評価を見るに、結論部分への批判に終始しています。これは、ご高著も批判した書籍の何れも一般書であることが大きいかと思います。といいますのは、まず一般書に書かれた内容の是非について研究論文では反応しにくい状況にあります。次に、一般書を執筆できる研究者は非常に限られていますので、ご高著で出された個別の指摘について普通の研究者は反応しづらいという背景があります。あらためて、個別の事象を研究論文として発表された方が建設的な批判がなされるのではないかと感じています。

疑問への回答ありがとうございます。私は、穴山切腹説そのものには疑問を持っておりません。これまで見過ごされてきた重要な指摘と思っております。
『家忠日記』の解釈について、出迎えた直後にまず穴山の切腹について聞かされ、さらに道中で津田信澄の挙兵が誤報であったことを聞かされた、という解釈も可能ではないかということです。出迎えの者としては「あれ?穴山殿はいかがなさったのです?」と問い、「途中で切腹したよ」と聞かされた。そして道中に「津田信澄殿が謀反と聞きましたが?」と話題になり、「いや信澄どのではなない」と聞かされた。そんな状況が想定されます。
穴山の一揆殺害説を記す諸史料の信憑性についても、ご指摘の通りと思います。『老人雑話』の信憑性再検討の問題提起について、応える準備はありませんが、江村専斎は、穴山一揆殺害説と記す『三河物語』作者大久保忠教と同世代ですので、信憑性に優劣は付けがたいと思います。したがって『老人雑話』を「家康による」切腹説の傍証とするならば、同時代人の著作である『三河物語』の記事を採用しないことへの説明が必要だと思います。
『家忠日記』の記述から穴山の切腹を疑う余地はありませんから、それほど離れていなかった穴山らが一揆に襲われ、梅雪は自害した。梅雪の自害を見ていた生き残りが家康たちに合流して、梅雪の自害を知らせた。それを家康らは家忠に語った。という解釈も十分可能できないでしょうか?一揆殺害説とも大きく矛盾しません。
ご高著については改めてよく確認したいと思います。
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回答いたします。 (明智憲三郎)
2013-01-08 15:25:46
 回答をブログ記事にしようと思いましたが直接回答した方が速そうなので以下に回答します。
 「穴山者腹切候」は極めて明快に「切腹した」と書いています。あいまいさが一切ありません。したがって、家忠が直接目撃したのか家康一行から聞いたのかは別にしても切腹したという家忠の得た認識は間違いなく強固なものです。
 次に、家康一行から聞いたのであれば「ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也」の後に書くか、あるいは「ミちにて穴山者腹切候、七兵衛殿別心ハセツ也」と書いたはずです。
 文章を素直に読めば、これ以外の解釈はできないと思います。
 また、フロイスの記述は信憑性が高くないとのご認識は結構ですが、穴山梅雪が一揆に殺されたと書いた書物のいずれもがフロイス同様に直接確認できる立場にない人間が書いたものですから、フロイス同様にいずれも信憑性は高くありません。
 それに対して家忠は当事者である家康一行と直接接触した人間ですから、格段に信憑性は高いことになります。
 以上のように先入観を持たずに素直に文章を読めば、切腹の蓋然性が明らかに高いです。一揆説は400年に渡って世の中に刷り込まれてきただけのものです。事件当時は家康に殺されたとも一揆に殺されたとも、どちらとも言われていたのです。(下記のページをご覧ください)http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/a8a68ef11ec8b829ae31031c3199b157
 蓋然性の評価には神君伊賀越えや政治状況など当時の全体像の理解が必要となりますので、拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みいただければ、よりご理解いただけるものと思います。
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ご指摘感謝! (明智憲三郎)
2013-01-07 21:51:38
 私の『本能寺の変 四二七年目の真実』は「歴史捜査」と命名したように信憑性ある証拠から真実を復元して得られた蓋然性の高い結論を記したものです。ですから結論が誤っているかどうかは私の採用した証拠と推論に誤りがあるかどうか、その蓋然性が高いかどうかで論じていただくべきと考えています。
 これまで残念ながら、そのようなご指摘はなく、私が最終的に出した結論のみに対して、「そんなはずはない!」といった反論を著名な歴史学者からいただくといった、誠に寂しい状況でした。
 今回いただいたコメントは私の採用した証拠と推論に対する疑問であり、誠に歓迎すべき(おそらく初めての)コメントです。拙著出版以来4年近くたち、ようやくいただいた本当にうれしいコメントと感謝しております。
 いただいたコメントへの回答は長文となりますので、本ブログの記事として書かせていただきますので、しばしお待ちください。このような形で、私の採用した証拠と推論の妥当性を検証していくことが本能寺の変の真実を突き詰めていくことになりますので、引き続きご指摘のコメントをよろしくお願いいたします。
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穴山の死について (aki)
2013-01-06 17:54:24
こちらでも『家忠日記』6月4日条の解釈について、疑問があり、コメント致します。
「信長之儀秘定候由、岡崎緒川より申来候、家康者境ニ御座候由候、岡崎江越候、家康いか、伊勢地を御のき候て、大濱へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候、穴山者腹切候、ミちにて七兵衛殿別心ハセツ也」
これが原文ですが意味を補いながら現代語訳すると
「信長(の自害)については間違いないと、岡崎緒川より知らせがあった。家康は堺におられたとのことだ。(私は)岡崎へ向かった。家康などが伊勢路をお退きになり、大浜に上陸されたので、(私は)町までお迎えに行った。穴山は腹を切った。道中、津田信澄殿の別心は誤報であった(と聞いた)。」となります。
穴山の切腹について、大浜上陸後の出来事とされていますが、家康を迎えたときに家康たちから聞いた内容を記したものではないでしょうか?そして道中さらに津田信澄については誤報だったとの話をされた、と。
『家忠日記』は、伝聞であっても「~候」で記述していることが少なくありません。伝聞を明示するかたちで書かれていないことを理由に大浜上陸後に切腹させられたとするのは、すこし弱い気がします。
また後発の穴山の動向をなぜ家康が知り得たのかという矛盾を傍証とされていますが、家康が先行したというのはご指摘のようにフロイスの記述で信憑性は高くありませんから、気にする必要はないと思います。
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