goo blog サービス終了のお知らせ 

本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

穴山梅雪の死の謎は暴かれている!

2012年12月25日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
         >>> 本能寺の変の定説は打破された

 最近、穴山梅雪の死の謎がインターネットで話題になっているようで、このブログにも穴山梅雪をキーワードとするエントリーが増えています。
 梅雪が一揆に殺されたという通説は徳川家が作ったものであり、本当は徳川家康に殺されたことは拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書きました。このブログでも解説していますので、まだ通説を信じている方は下記のページをお読みください。すでに謎ではないことをおわかりいただけると思います。
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」
 ★ 定説の根拠を斬る!「神君伊賀越え」(続き)

 このことがにわかには信じられない理由は、未だ誰も歴史学者がそう言っていない、ということに過ぎません。その当時は家康に殺されたとも言われていたのです。そのことが『老人雑話』という本に本能寺の変当時に16歳だった江村専斎が語った言葉として「穴山が途中で一揆に殺されたとも、東照宮(家康)の仕業だともいう」と書かれています。当時の人々の認識・常識と四百年たった歴史学者の認識・常識とには明らかにずれがあるのです。
 ★ 江村専斎『老人雑話』の歴史捜査

***************************************
 『本能寺の変 四二七年目の真実』のあらすじはこちらをご覧ください。
 また、読者の書評はこちらです
>>>トップページ
>>>『本能寺の変 四二七年目の真実』出版の思い
本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
プレジデント社

このアイテムの詳細を見る
 


最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ralfeel)
2012-12-25 23:10:51
はじめまして。過日、テレビで「超歴史ロマン3戦国~大奥~幕末ミステリー完全決着SP」を見た後に、先生のご著書の存在を知りました。早速取り寄せ、現在は60頁ほど拝読させていただいたところでございます。すでに内容と文章によって引き込まれてしまっております。正月中の楽しみができとてもうれしく思っております。勉強させていただきます。
返信する
ありがとうございます (明智憲三郎)
2012-12-30 21:04:44
 史料が語る証拠から真実を復元する作業(歴史捜査と名付けました)を行いました。ご納得いただけないところがありましたら、お気軽にご質問してください。
返信する
Unknown ()
2015-07-27 15:49:24
新刊p273で、穴山梅雪に家康が『合力』する、という文言が衝撃的でした。信長に対して、軍事的な実力行使の加勢をする、という意味だとしたら、大変危険な証拠にもなりますが、私も調べてみたところ原文は見つかりませんでしたが、『与力』や『添え状』をするのとは確かに違うようですね。ここは、この『合力』の文書の原文、読み下し、釈文の掲載が欲しいところでした。(漢文のようですが。)
佐久間折檻状で、光秀や秀吉、勝家の功績が褒められているのに、家康の名前が無いことから舎弟扱いしていたとはいえ家康は別格で信長の家臣ではなく、同盟とはいってもすでに婚姻は解消されているし(?)、武田家臣を匿えば恵林寺みたいに焼き討ちされるのに遺臣を徳川領内に匿っていること、しかも穴山と組んでいる(?)、三河遠江駿河の3カ国もの領有で佐久間なみに大規模軍団となって、領地を与えることが家臣の証といっても、家康が家臣になったようにも見えない。ここは信長と家康の仲が怪しさ満点でp273のところは重要だと思うので、加筆をお願いしたいところです。土地の恩賞に不満を持ち、かつ、合力の言葉を使って謀反宣言?にもとれる箇所なので、偽文書の検証も含めてよく知りたい所です。
返信する
原文 (明智憲三郎)
2015-07-29 21:52:20
奥野高廣著『織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館の726頁に収録されている天正十年三月二日付け「穴山梅雪宛徳川家康書状です。掲載されている原文・読み下し文・釈文をそのまま書きます。奥野氏は「合力」を「助力」と訳しています。
「就甲州乱入、彼国可為進所之旨、所務無之以前茂、二年も三年も従安土被加御扶持候様、可申成候、若首尾於相違者、従此方合力可申候、為其一書進達候、恐々謹言」
「甲州乱入に就きて、彼の国進所たるべきの旨、所務なき以前も、二年も三年も安土より御扶持を加えられ候様、申しなすべく候、若し首尾相違に於いては、此方(こなた)より合力を申すべく候、其為に一書を進せ達し候」
「家康は甲斐一国を進呈すると約して穴山信君を誘った。他人が知行して年貢収入がない時は、二年でも三年でも信長から扶持を加えられるように取りなす。もし不成功ならば自分の方から助力すると約した」
返信する
Unknown ()
2015-07-29 23:34:12
原文・読み下し文・釈文を書いていただき、誠にありがとうございます。お手間をかけていただき、恐縮と同時に、感謝しております。文書を見ますと、穴山梅雪の領地が全面没収となったとき、は二年でも三年でも助力する、といったニュアンスですね。二年も三年も経っても交渉で済まなかった場合の合力は・・・そのときは何らかの実力行使に出たのかもしれませんが、たった3ヶ月後には本能寺の変ですので、2、3年後の予定は不実行となって不明。このたびは原文等、掲載いただき、ありがとうございました。
返信する
Unknown ()
2015-07-30 09:38:51
奥野氏の解釈文がちょっとわかりづらく感じたので、私なりに解釈文を作ってみました。
原文「就甲州乱入、彼国可為進所之旨、所務無之以前茂、二年も三年も従安土被加御扶持候様、可申成候、若首尾於相違者、従此方合力可申候、為其一書進達候、恐々謹言」
釈文「甲州乱入については、かの国を(穴山信君に)進呈する為といってもよい。本所の務めが以前のようには無くなってしまった時は、二年でも三年でも信長から扶持を加えられる様、申し継ぎすることもできる。もし首尾に於いて相違したならば、自分(家康)の方から力を合わせ、口添えすることもできよう。その為としてこの一筆を進呈する。」
と、信長に対しても、意外と従順だけでもない、という家康の印象がしました。
返信する
一部、解釈文に疑問 (明智憲三郎)
2015-08-12 09:24:16
 「此方(こなた)より合力を申すべく候」を「自分(家康)の方から力を合わせ、口添えすることもできよう」と訳されていますが、「口添えすることもできよう」というニュアンスは原文にはないと思いますが、いかがですか。「自分の方から力を合わせよう」が正しいと思います。
返信する
Unknown ()
2015-08-12 23:51:52
合力をネット検索すると、百姓の一揆や水争いなどで、武力行使を含んだ意味で、味方となる、ということのようなので、口添えよりもずっと強い意味ですね。
「従此方合力可申候」を直訳すると、
「この方したがう、力合わせも可、申し候」ですね。まさしく直訳のままですが。
「自分の方から力を合わせよう」と殆ど同じ意味になります。
『穴山梅雪に力を合わせます(軍事力行使を含む)』というニュアンスに訳してしまうと、対象の人物が信長本人であるだけに、大変危険な文書です。
ワンランク下げて、ここでの合力は、口添えする、とりなす、と私は判断しましたが(よって可申候を口添えすることもできよう、と誤訳?)、合力=助力も妥当かもしれません。合力=助太刀、加勢と訳してしまうと、武力行使を含んだ意味で、謀反にもとれます。
つまり、ここの「従此方合力可申候」の訳は
「自分の方から力を合わせよう」とするのが、現代語からみても大変うまい名訳だと思います。このたびは詳しくありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。