>>> こちらをご覧ください!未だに朝廷黒幕説とは!2016年1月
信長が朝廷を圧迫していたという史実がない以上、朝廷が信長を殺す動機がなく、朝廷黒幕説は成り立ちません。
★ 朝廷黒幕説を斬る! ← 動機の説明
とはいえ、残りの4つの視点からも見ておきましょう。
実行可能性については光秀が現に信長を討っているので可能性ありとなります。
ただし、朝廷と光秀がどのように事前に調整したのかを示す証拠がありません。犯罪で言えば「殺人の教唆」の罪で天皇なり公家の誰かを告訴できるか、ということですが、告訴に足る証拠が何もありません。吉田兼見(かねみ)、山科言経(やましな・ときつね)など公家の日記を見ても光秀との謀議を臭わせる記述はありません。
★ Wikipediaの「吉田兼見」記事
★ Wikipediaの「山科言経」記事
また、本能寺で信長が討たれたあと、織田信孝(信長嫡男)が宿舎としていた妙覚寺から移動して二条城に立て籠もったことの説明がつきません。二条城は正親町(おおぎまち)天皇の子の誠仁(さねひと)親王の御所でした。天皇の跡継ぎが危険な状態に陥る失態を演じたことになります。朝廷が光秀謀反を仕掛けていたのであれば、このような失態を演じないように策をめぐらしていたのではないでしょうか。
関係者の証言として公家の勧修寺晴豊(かじゅうじ・はるとよ)が日記に書いた一文が証拠になると朝廷黒幕説を主張した研究家が言っています。それは山崎の合戦での敗戦後、光秀の重臣斉藤利三が捕まって京都市内を引き回されて処刑されるのを見て、「彼など信長討ち談合衆なり」と書いたものです。この研究家は「これぞ光秀と朝廷との談合」の証拠としたのです。
★ Wikipediaの「勧修寺晴豊」記事
★ Wikipediaの「斉藤利三」記事
一方、この説を否定する研究家は「光秀と家臣の談合に過ぎない!」と反論しています。
私はこの反論もおかしいと思います。なぜならば、光秀と家臣の談合という光秀家中内々の情報が公家の重鎮・勧修寺晴豊に伝わる可能性があると思えないからです。晴豊が日記に問題の一文を書いたのが6月17日。本能寺の変から15日後のことです。報道機関もない時代にどうやって晴豊はこの情報を得たのでしょうか?
この謎の答は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いたとおりですのでここでは詳細は省略しますが、本能寺の変のあとに、謀反の真相について光秀から朝廷への情報提供(報告)が行われたことを示しています。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
本人の自白について見ると、光秀は朝廷のための謀反ということは一切言っていません。朝廷黒幕説の証拠になるようなものはありません。
成功時報酬については、確たるものがありません。朝廷が光秀を強力に後押しした、という事実がありません。光秀に天下を取らせるつもりであれば、正親町天皇が綸旨(りんじ)を出せばよかったのですが、その形跡もありません。光秀は朝廷への忠誠心を現したことで満足だったろうとおっしゃる方もいるかもしれませんが、その代償が一族郎党の滅亡です。一族郎党の生存と繁栄に責任を負った氏族長の論理としてはそぐわないものです。
★真実への手がかり(明智光秀は氏族長) ← 補足説明
以上、見てきたとおり朝廷黒幕説は可能性として検証してみる価値はあったと思いますが、これを真実として主張するにはあまりにも根拠の脆弱な説でした。そのことは、熱心に説を唱えていた研究家が既に別の説(発作的犯行説・イエズス会陰謀説)に乗り換えてしまっていることが何よりも雄弁に語っているのではないでしょうか。
信長が朝廷を圧迫していたという史実がない以上、朝廷が信長を殺す動機がなく、朝廷黒幕説は成り立ちません。
★ 朝廷黒幕説を斬る! ← 動機の説明
とはいえ、残りの4つの視点からも見ておきましょう。
実行可能性については光秀が現に信長を討っているので可能性ありとなります。
ただし、朝廷と光秀がどのように事前に調整したのかを示す証拠がありません。犯罪で言えば「殺人の教唆」の罪で天皇なり公家の誰かを告訴できるか、ということですが、告訴に足る証拠が何もありません。吉田兼見(かねみ)、山科言経(やましな・ときつね)など公家の日記を見ても光秀との謀議を臭わせる記述はありません。
★ Wikipediaの「吉田兼見」記事
★ Wikipediaの「山科言経」記事
また、本能寺で信長が討たれたあと、織田信孝(信長嫡男)が宿舎としていた妙覚寺から移動して二条城に立て籠もったことの説明がつきません。二条城は正親町(おおぎまち)天皇の子の誠仁(さねひと)親王の御所でした。天皇の跡継ぎが危険な状態に陥る失態を演じたことになります。朝廷が光秀謀反を仕掛けていたのであれば、このような失態を演じないように策をめぐらしていたのではないでしょうか。
関係者の証言として公家の勧修寺晴豊(かじゅうじ・はるとよ)が日記に書いた一文が証拠になると朝廷黒幕説を主張した研究家が言っています。それは山崎の合戦での敗戦後、光秀の重臣斉藤利三が捕まって京都市内を引き回されて処刑されるのを見て、「彼など信長討ち談合衆なり」と書いたものです。この研究家は「これぞ光秀と朝廷との談合」の証拠としたのです。
★ Wikipediaの「勧修寺晴豊」記事
★ Wikipediaの「斉藤利三」記事
一方、この説を否定する研究家は「光秀と家臣の談合に過ぎない!」と反論しています。
私はこの反論もおかしいと思います。なぜならば、光秀と家臣の談合という光秀家中内々の情報が公家の重鎮・勧修寺晴豊に伝わる可能性があると思えないからです。晴豊が日記に問題の一文を書いたのが6月17日。本能寺の変から15日後のことです。報道機関もない時代にどうやって晴豊はこの情報を得たのでしょうか?
この謎の答は拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』に書いたとおりですのでここでは詳細は省略しますが、本能寺の変のあとに、謀反の真相について光秀から朝廷への情報提供(報告)が行われたことを示しています。
★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』プレジデント社
本人の自白について見ると、光秀は朝廷のための謀反ということは一切言っていません。朝廷黒幕説の証拠になるようなものはありません。
成功時報酬については、確たるものがありません。朝廷が光秀を強力に後押しした、という事実がありません。光秀に天下を取らせるつもりであれば、正親町天皇が綸旨(りんじ)を出せばよかったのですが、その形跡もありません。光秀は朝廷への忠誠心を現したことで満足だったろうとおっしゃる方もいるかもしれませんが、その代償が一族郎党の滅亡です。一族郎党の生存と繁栄に責任を負った氏族長の論理としてはそぐわないものです。
★真実への手がかり(明智光秀は氏族長) ← 補足説明
以上、見てきたとおり朝廷黒幕説は可能性として検証してみる価値はあったと思いますが、これを真実として主張するにはあまりにも根拠の脆弱な説でした。そのことは、熱心に説を唱えていた研究家が既に別の説(発作的犯行説・イエズス会陰謀説)に乗り換えてしまっていることが何よりも雄弁に語っているのではないでしょうか。
久しぶりにコメントさせていただきます。
快調ですね、というか…私も同じ時期にこのgooでブログを立ち上げてみましたが、明智さんのスピードには全くかないません。「by法丸」からの読者の方々も驚いているのではないでしょうか?
こちらのブログの運営上で「by法丸」側の編集が必要な場合はいつでもご指示ください。
法丸
ブログにはいろいろな方がコメントを書いてくださるお陰で新たな視点に気付かせていただいており、大変助かっています。
私も古代史を研究し続けて20年以上になります。WEB を通しての議論体験も6年ほどになります。この間、あらゆるタイプの論客とあらゆるタイプの手」をみてきました。細かく説明しませんが、検証手順と手法の不正、論拠提示の不正、論拠造作、小細工、まやかし、詭弁・方便。そして、身勝手で都合の良い断章主義と、これによる我田引水などなど。そうした手法があなたに見られないか、少しだけ検証させていただきます。
まず、あなたが提示された7つの謎については、天子と将軍、朝廷と幕府の関係なにど「朝廷の歴史」の観点から述べました。
▼謀反の動機は何か………
これが本題でもありますね。
▼なぜ信長はあれほど無警戒で本能寺にいたのか………
天子の都へ入る時の作法であり常識だから。
▼なぜ光秀は本能寺の変をやすやすと成功させ得たか………
丸腰同然にいたからですね。
これらは実は謎でも何でもありません。
次に、あなたが設定された5つの視点です。
▼動機:犯人に信長殺しの動機があるか
あったから実行したわけでしょう。一般論として、大事に関する動機や真相が外に漏れる可能性は極めて少ないものです。
▼犯行可能性:犯行を実行できる可能性があるかどうか
あったから実行したわけでしょう。
▼関係者の証言:犯行を裏付ける証言があるかどうか
真相を知っている関係者が必ずいて、証言する関係者が必ずいるという前提の話しですね。
▼本人の自白:犯人自身の自白があるかどうか
必ず自白するものだという前提の話しですね。
▼成功時報酬:犯行成功による報酬があったかどうか
誰かと結託しており、その誰かから報酬がもらえるという前提の話しですか。それとも、「得るものがあったか否か」という意味でしょうか? 見返りやご褒美や得るものがなくてもやる事はあるでしょう。
以上、なたの条件設定そのものが限定的であり、非常に独善的で断定的であると指摘しておきます。とくに、本人の自白や証言がないから「なかった」とは、極めて稚拙な否定論法です。天子・天皇と将軍にならんと目論む武人がからんで天下を左右する一大事に関して、犯人や関係者が真相をやすやすと吐露するはずはないし、文書に書きにして残すことがあっても、そんなものが誰の目にも触れるような場所に出てくるわけがありませんね。
あなたの説が、あなたの設定した条件を持たしているか否かです。
●光秀は逆に家康と謀ってあの結果となりました。
本人の自白もしくは関係者の証言がありますか?あればそれで決着します。
●家康は光秀と打合せた通り、
本人の自白もしくは関係者の証言がありますか?あればそれで決着します。
●光秀を応援すべく軍勢を集めましたが、
本人の自白もしくは関係者の証言がありますか?あればそれで決着します。
●これに少々手間取っている内、
打ち合わせていた割りには家康らしくありませんが。
●秀吉が予想外に早く東進して来たので間に合わなかった
用意周到なんて言葉とはほどと遠く、ドタバタアクションみたいなことをやったわけですね。あなたの言を拝借すれば、「このような失態を演じないように策をめぐらしていたのではないでしょうか」。
このことをご理解いただくためにも、何点かの私への質問の答をご理解いただくためにも、まず拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みください。丁寧にご説明しようとすると結局拙著に書いたことをあらためて書くことと同じになってしまい、とてもブログのスペースで済む話ではなくなりますので。
なお、古代はいざ知らず戦国時代には応仁の乱にしろ、三好三人衆による将軍義輝暗殺・将軍義昭襲撃にしろ、京都の町中で武力衝突はたくさん起きています。「京都に入るときは丸腰が礼儀」という点はよく史実をお調べになるべきかと思います。信長軍が大坂本願寺攻め・摂津荒木村重攻め・甲斐武田攻めなどの際に京都を丸腰で通過したのでしょうか。
拙著を読まれた上で何か御意見がございましたら、またお立ち寄りください。
朝廷が信長を殺す動機はないとのことですが、将来的には信長が子息を皇族に嫁がせたりして傀儡化する可能性は大いにありますし、正親町天皇は毛利の後ろ盾で即位したのですから。それに信長は天皇に代わって自らを神とする宗教を作ろうとしていたみたいですし、いづれ
朝廷の立場が危うくなることも十分に考えられます。
光秀と朝廷の謀議を匂わせる記述は無いとのことですが、実はあります。 有名な三職推任の後に五月七日、勧修寺晴豊は坂本に立ち寄っていることを日記に記しています。
七日
よへより夜舟にて大津へつき申候。
坂本見物申候。
大津にてひるのやすミ。
三職推任の後のことですし、晴豊は光秀になんらかの相談事があったのではないかと思います。 自分達を将来的にどうするつもりか光秀に相談しに行ったのではないでしょうか。 ここからは私の想像ですが、このとき光秀は晴豊に変を起こすことをほのめかしたのではないかと思います。変の後の支援などを期待したのではないでしょうか。 仮に漏らしたとしても、筆頭家老なのですし朝廷政策に関しても十分に信長に諫言できる立場ですから自分たちの立場がより悪化するでしょう(ちなみに晴豊は山崎の戦いの後に光秀の娘を匿っています)。朝廷がいくら信長から恩恵を受けていたとはいえ、乱世ですし今後マイナスとなるならば排除しようとしてもおかしくありません。現に家康討ちがそうなのですから。 変の支援が無かったではないかと仰るかもしれませんが、実際はあったとおもいます。 変が起こった時の前後には兼見卿記には空白があります。 おそらくこの時期に朝廷は光秀に対し征夷大将軍か太政大臣などの任官をしたのではないでしょうか。そして協力していたと思われてはまずいとして記録を改竄したのではないでしょうか。細川宛ての書状にはそんなことがないとも言われますが、細川も変を知っていたなど不都合なことがあったのでそれも含めてその手紙を処分したのではないでしょうか。
そして光秀は公家などの人質をとっていませんが、これは坂本での打ち合わせもあり、とる必要がなかったということではないでしょうか。実際光秀に媚びておかなければ自分たちの未来が危ういですし。
念のために言っておきますが、私が主張しているのは朝廷黒幕説ではなく、あくまで光秀が朝廷を利用しており、朝廷も変の情報をあらかじめ掴んでいたという説です。
立花説に引きずられて朝廷黒幕説を唱えた桐野作人氏も今や発作説に転換しています。答が先にほしくて焦るとこうなるという反面教師でしょう。