民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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森繁久彌「向田邦子」を語る その6

2017年04月10日 00時13分01秒 | 人の紹介(こんな人がいる)
 森繁久彌「向田邦子」を語る その6

 向田さんは放送界から出発し、恐るべき濃度と速度で、小説の森を駆け抜けて、彼方に去っていきました。時として満たされる思いがするのは、為された仕事がみな有無をいわさぬ力感をたたえているからでしょうか。まっ盛で散るのもまた向田邦子らしい、と自分を納得させていた時期もありましたな。しかし、実のところは違います。宇野千代さんの如く健やかで長寿に恵まれ、まだまだ我々を楽しませてくれる存在でいて欲しかった。

 生前、雑誌の対談で「重役――」は絶品だった、愛聴者だったとおっしゃるゲストに、彼女はあの台本の山は家を引っ越すときにすべて捨ててしまった、考えると何かの足しになったかもしれないと残念がっていました。
 邦子さん、幸い、自宅の資料室から「重役――」の台本がほぼ全冊そっくり見つかりました。
 とかく台本類は散逸しやすいものです。先年、私はそれらをまとめて、向田さんの母校、実践女子大学の図書館に託しました。先様は立派な文献目録を製作し、マイクロ・フィルムに複写し大切に活用してくださっています。

 司馬遼太郎さんは以前、私に「文化とは字を残すことです。『屋根の上のヴァイオリン弾き』のときの台本やたくさんの投書や手紙などは、どうしました?捨ててはいけません。書いたものを残さなきゃ、後世の人に恨まれますよ」と言われました。今、こうして初めて活字となった作品群を目の前にして、向田邦子さん、あなたは何とおっしゃるでしょうなあ。

森繁久彌「向田邦子」を語る その5

2017年04月08日 00時16分13秒 | 人の紹介(こんな人がいる)
  森繁久彌「向田邦子」を語る その5

 「重役読本」の重役氏の原型は、向田さんのお父さんでしょう。だから、しばらくは「母や弟たちに聴かれるの、嫌だわ」なんて、しきりにボヤいていました。
 堅実でいて、古風で、ひと一倍に子供をかわいがるサラリーマンの家庭がバックボーンにありますね。事実、お父さんは東邦生命の幹部社員で、最後は本社の部長職を務めあげた方だと洩れうかがいました。

 重役氏の短所は私を観察していた。トイレの戸を開けっぱなしにして・・・なんて書いてアルト、ゾッとしましたね。やっぱり、私のコトを識っているとしか考えられない。
 普通のひとの暮らしのなかから、人間のもつ情けなさ、俗物根性、弱さをそっと取り出して、悪意なく俎上にのせて好意的に料理する。こういった向田さんの熟練技の萌芽が「重役読本」に、読みとれるのではないでしょうかね。

 私は思います。向田さんのテレビ、ラジオの台本はただの台本ではない。戯曲に近い台本だ。贅沢な中身でおつゆがたっぷり。この「重役読本」から日本映画なら映画の、『父は悲しき重役なりき』てな本が一本まるごととれるのです。
「重役読本」の放送中に何度も「向田さん、これ、出版物にしたらどうだい。一冊の本をつくんなさいよ」と勧めたものです。その度に彼女は「うそ、うそ。こういうのは一回限りの命よ」とテレること、テレること。一回でパッと開いて終わる花火と同じでいいというのです。


森繁久彌「向田邦子」を語る その4

2017年04月06日 00時06分56秒 | 人の紹介(こんな人がいる)
 森繁久彌「向田邦子」を語る その4

「重役読本」の開始早々から、良質の台本を量産するので、二、三の方面に推薦してみました。
 ラジオばかりじゃなく、映画や、再びテレビの仕事もやらそうと言うと大変失礼な言い方だけど、得難い才能だから、一箇所で隠しておくのはもったいない気がしたわけです。
 東宝の専務だった藤本真澄さんに推薦しました。社長シリーズの台本を一本書いてもらって見せたら、即座に駄目だと宣(のたま)う。何を寝ぼけてるのか。藤本さんはプロデュサーでもありましたから、「あなたの書いてこさせる他のライターの作品より、向田さんのほうがずっと面白いじゃないか」と詰め寄ると、「そうじゃないんだ。毎回、同じような展開がいいんだ」とおっしゃる。奇しくも、私が向田さんに「マンネリがいいのよ」と説教されたのと同じことをるる説かれる始末です。

 渥美清さんの「寅さん」シリーズもそうなんでしょうが、人気長寿ものは、そうそう筋が変わっちゃいけないんですね。「社長」シリーズは終始、私がドジを踏み続けるほうが受けるわけです。そこへ向田さんが都会的、知的な森繁の登場する台本をひっさげてきた。才能のしたたり落ちるやつを・・・でも、結局ボツになりました。今、どこにあるんだろうな。あれも幻の名作ですね。

 それでその頃スタートしたテレビ・ドラマ「七人の孫」のピンチライターに紹介したのですが、ここで彼女は自分向きの土壌を見つけて、「寺内貫太郎一家」「冬の運動会」と次々に大輪の花を咲かせていったのは、ご存知のとおりです。

森繁久彌「向田邦子」を語る その3

2017年04月04日 00時02分44秒 | 人の紹介(こんな人がいる)
 森繁久彌「向田邦子」を語る その3

 しかし、「重役読本」の台本に取り組んでいる間に彼女は隆々とした基礎を築き上げたと思いますね。当時、彼女は映画雑誌の編集部を退職して一、二年目あたりで、まだ文筆で生計を立てていく確固たる自信はなかったんじゃないかな。
 たしか、アルバイトで始めた脚本の処女作が「火をかした男」というタイトルで、日本テレビの人気ドラマ「ダイヤル一一〇番」の何作目だかで放映され、続いて同じ番組に数本が採用されたと思います。昭和33年29歳ごろでしょうか。

 翌年から、だんだんとテレビの世界を離れ、ラジオに比重を移して、「重役読本」が始まったころは、これ一本に専念していましたね。
 ですから、向田文学の初期のエッセンスが「重役読本」には詰まっているのです。
 最初に彼女のもってきた台本を一読して、文才の冴えを感じましたよ。作品の構成力は弱いが、イキイキした会話に私をはじめスタッフは目をみはりました。

 また、日常生活のなかで見過ごしてしまいそうな機微やディテールの捉え方が素晴らしい。鮮明に昔の日常茶飯を記憶していて、巧みな比喩、上質のユーモアを交えて再現してみせる、手品ですね。
 後年は省略と飛躍が一段と上手になった。テレビの台本読みの最中に、
「ここからスパッと二枚切りましょう」
 なんて、平気で恐ろしいことを言う。
「何もいらないの。これ以上」
 予定していた役者が一人、宙に浮いてしまうんです。
「ここから、あっちへ飛んだほうがリズムが出るでしょ。ねっ」
 仲の良かった澤地久枝さんと同じ気質。大陸的で実におおらかな心ばえだから、まあ何も角が立たない。自然と彼女のペースになっている。やっぱり手品です。

森繁久彌「向田邦子」を語る その2

2017年04月02日 00時37分58秒 | 人の紹介(こんな人がいる)
 森繁久彌「向田邦子」を語る その2

 五分間のラジオ番組というものは、キャラクターがはっっきりしていないと良くない。そこから、ある種の『マンネリの魅力』が発生しそれが聴く側を安心させ、固定客を掴むことにつながるのだというのが向田さんの持論なんだな。
 もうひとつ、持論があって、台本作家コールガール論。彼女曰く「電話一本で呼び出されて、ハイハイと注文先のテレビ局に駆けつけ、自分をさらけ出す台本を書く。失業して病気になっても何の保証もない。声が掛かるうちが花なのよ」と・・・

 後年、彼女が手がけた「だいこんの花」というテレビ番組でも、「マンネリでいいの」が口癖でしたなあ。お茶の間の皆さんが途中トイレにたって戻ってきて、「ああ、やっぱりこうなってたか」と納得するのがベストなんだという主義だった。
 それでも私は遠慮なく、万年筆で台本に手を入れました。バー・エスポアールとあったら、バー・ベロベロバアといった具合に、すると、
「余分なアドリブは入れないで。私の書いたとおりにしゃべって頂戴よ」
 と叱られる。

 先月(昭和63年10月)、東京宝塚劇場での「夢見通りの人々」でも、
(ここで最後に、もうひと笑い欲しいな)
 と思うと、私は白楽天とか李白、杜甫の詩を昔、習ってましたいい加減な支那語で適当にアドリブを入れます。観客席はワァと沸く。もちろん、宮本輝さんの原作にそんな台詞はありゃしません。この場でダダーンと強烈なクレッシェンドが欲しいと感じたら本能的に演じてしまうんですね。

 だから、今でも向田さんは「森繁さん、不真面目ひどい」と随分、恨んでいるかもしれません。