民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「声が生まれる」 ことばを見つけに その2 竹内 敏晴

2016年12月16日 00時10分26秒 | 民話(昔話)

 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 ことばを見つけに その2 P-21

 時に、自分が漠然と感じていることの全体をなんとか話ことばにしようとする――そこに表現という行為の萌芽があったに違いないのだが――と、いつも、よくわからない、という返事がもどってきた。今思い返せば、いわばシンボルのようなイメージを不細工なことばの組み合わせにしようと苦労したにすぎない。もし文学に親しんでいたら詩に近づいたのかもしれないのだが。説明としてのことばとしてはまるで不完全だったに違いない。逆に説明文の構造はからだの底の感じにはとどかない――この感じはずっと後年までわたしの底にうぶくまっていた。無自覚に手さぐりしていた「表現のことば」の形成については後に語ることにしたい。

 やがて上級生になり少しずつ会話に近いことができかけた頃、自分にとってはまことに奇妙な評判があることを聞かされた。かれは他人の話を聞くのが上手だ、うまく言えないでいることをきちんと言いあててくれる――というのである。ことばの不自由を感じているのはわたしだけではなかった。その人の訴えを聞いて思いの筋道を辿っているうちに、相手のからだの奥でうごめいて出てこようとしているもののかたち、というか、ことばが見えてくるような気がすることがあったせいであるらしかった。

 こうしてわたしは「話すこと」へ向かって歩き出した。話しことばへの手さぐりある段階で突然飛躍して、それ以後わたしは、まあ人並みに――というか、ある程度自在に――話すことができるようになったのが、それまで、敗戦の衝撃にようる失語の2年あまりをはさんで、26年かかることになる。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。

「自然と対峙せず順応する知恵」 金谷 武洋

2015年04月06日 00時27分06秒 | 民話(昔話)
 「日本語は亡びない」 金谷 武洋(かなや たけひろ) ちくま新書 2010年

 「自然と対峙せず順応する知恵」 P-21

 この史実(日本語が亡びなかった)を思い返すとき、私は二つのことを想起する。
 一つは、決してこちらからは攻撃せず、ひたすら護身を旨とする格闘技、つまり合気道のことだ。向かう相手の力を利用して制御し、身を守る。合気道は、「受けて立ち、そして勝つ」という点で横綱相撲に似ている。
 もう一つ想起するのは名著『梅干と日本刀』(1974)で樋口清之が紹介している「堀川の知恵」である。関東大震災クラスの地震が起きて、東京湾にTUNAMIが押し寄せるという可能性は現在でも決して小さいものではない。ところが、江戸時代と比べて現在の方が危険だと樋口は指摘するのである。
 江戸時代には、津波という巨大なエネルギーを吸収し、拡散させる素晴らしい仕組みがあった。それが江戸市内の至るところに流れていた「堀川」である。堀川が潮の勢いを吸い取っていたのである。先にあげた合気道の発想となんと似ていることだろう。
 押し寄せる高潮のエネルギーは堀川(例えば築地から歌舞伎座あたりを流れていた「三十間堀川」)をクッションとして引き込み、そうして持ち込まれた海水を今度は速やかに海へと送り返した。堀川は海水の退路でもあったのである。( 「三十間堀川」とは幅が約30間〔約55m〕あったための命名である)。
 こうした堀川は、「日本人の自然に対する順応の知恵のすぐれた例」(樋口・前掲書)である。しかし、これらはその後どうなったか。東京にはもはや三十間堀川は存在しない。第二次世界大戦後、交通の便や土地の不足のためと称して埋められてしまったからである。1952(昭和27)年には埋め立てが完了して、水路としての三十間堀川は完全に消滅してしまった。八丁堀なども同じ運命を辿ったが、こちらはかろうじて東京の地名として残っている。地下鉄日比谷線の駅名でもある。
 堀川の代わりに戦後に登場したのが堤防であるが、樋口は、堤防と堀川を比較して、堀川の方がずっとよかったと結論づける。「堀川を埋めてしまったことのツケが、必ず来るような気がしてならない」からだ。いくら堤防を高くしても、それを越えるほどの高潮が来ないという保証はない。1995年に想定マグニチュードを超える地震が兵庫県を襲って阪神高速道路神戸線を倒壊させたことはまだ記憶に新しい。
 ありがたいことに日本語は堤防ではなく柔構造の堀川である。

「屁一つで村中全滅」 加藤 嘉一

2014年05月13日 00時09分44秒 | 民話(昔話)
  全国昔話資料集成 18巻 編者 加藤嘉一(かいち)・高橋勝利 岩崎美術社 1975年
 
 下野茂木(もてぎ)昔話集 加藤 嘉一 編

 「屁一つで村中全滅」

 昔、ある村に屁っぴりの娘がありました。
あんまり屁を放(ひ)るので、
「こんな悪い病気のある娘は一生嫁にも出られない」
と、両親は心配していました。

 ところが、隣村のお大尽様から不意に嫁に貰いたいと話がありましたので、
こんな良い縁はないと早速承知しました。
 
 いよいよ輿入れという時になって、母親は娘を呼んで、
「嫁に行ったら十分気をつけて、決して粗相なことをしてはいけません」
と、言って聞かせました。

 四、五日の間は我慢に我慢をしていましたが、もうどうすることもできず、
思わずブーと一つやってしま(え)ました。(茂木では(い)を(え)と発音する)
娘はくれぐれお母さんにも言われたのにと思うと、
「この先追い出されもされたなら、それこそ顔向けがない」
と、心配して、とうとう村の大池に飛び込んで死んでしま(え)ました。

 すると、その婿様は、
「屁一つぐらいであんないい嫁を殺してしまって、申し訳ない。自分もお供をして死んでしまう」
と、やはり池に飛び込んで死んでしま(え)ました。

 嫁と息子に死なれた両親は、
「頼りにする子供たちに死なれて、何でこの世に楽しみがあろう」
と、また続いて死んでしま(え)ました。

 すると、
「村のお大尽様が死んでしまっては、この村にいても暮らしようがない」
と、村の人々は皆んな池の中に飛び込んで死んでしま(え)ましたので、
たちまち村は全滅になってしまったということです。

 加藤嘉一(かいち)明治35年、栃木県芳賀郡茂木町に生まる。栃木県師範学校卒業後、足尾、
黒磯、大田原、茂木、益子各小学校教員のかたわら民俗資料を採集し、雑誌「旅と伝説」などに寄稿。
昭和20年2月、満州にて死亡。著書に童話集「ひとつ星」など。

 昭和10年の頃、加藤嘉一さんが採集した話のようです。
こうしてたった一人の努力によって昔話が伝わる地域があるんですね。
 この本ではほかに栗山村の話、高橋勝利 編、
常盤村(ときわむら、合併して葛生町)の話、箕輪田良弥 編が収録されている。

「古屋の雨漏り」 佐藤義則 編著

2014年05月01日 02時09分39秒 | 民話(昔話)
 「全国昔話資料集成」 1 羽前小国昔話集  編者 佐藤義則  岩崎美術社 1974年

 「古屋の雨漏り」 P-38

 トント昔。
ある所(ど)さ、爺様婆様あったけド。
ある夜(よ)ん間(ま)、唐土(とオど)の虎つうもんが、
爺婆の家でァ何(なん)ぞ食い物無えべがとて、
戸の口さ屈(こご)んで覗込(のぞこ)みしてだけド。

 すっと、家(え)ん中でァ、婆様「爺や爺や。この世の中で何ぁ一等(えッと)おっかねべや。
やっぱす、唐土(とォど)の虎、らべが」って、聞いったけド。
戸の口の虎「俺ァ、世の中で一番と恐(おッか)ね者(もん)だ」って、喜んでっと、
爺様「ほれァ唐土の虎もおっかねげんと、
やっぱすハァ、古屋の雨漏(あまむ)りァ一等おっかね事(ごん)だや」
「ほだほだ。古屋の漏(む)りど鳴る(米櫃が空になって鳴る)ァ、一等おっかねちゃなァ」
って否消(ひげ)しったけド。

 虎ァびくらして、「あじゃ。俺よりおっかねフルヤノムリやナルさァ、何(どげ)な物(もん)だべ。
ああ、こがえしてァ居(え)らんねちゃ。おかねェ、おかねェ」って、どがすか逃(ね)げ出して、
唐土さ渡ってすまったさえ、日本にゃ虎は居(え)ねんだド。

 ドンビン、サンスケ。

 (岸 久助)

「人魚伝説」 ネットより

2014年02月08日 00時09分33秒 | 民話(昔話)
 「人魚伝説」  http://www.info-niigata.or.jp/~yana3228/ninngyou.html

 むかし、遠くに佐渡ヶ島が見える雁子浜(がんこはま)という小さな村(今は大潟町・上越市)に、
明神さまのお社(やしろ)があった。
夜になると、漁師たちのあげるたくさんのろうそくの火が、荒海を越えて、佐渡ヶ島からも見えたそうな。
この雁子浜(がんこはま)に、ひとりの若者が、母親とふたりで暮らしておった。

 ある時、若者は用があって佐渡ヶ島に渡り、ひとりの美しい娘と知りあった。
娘は、色が白く、豊かな黒髪は、つやつやとひかり、潮(しお)の香を含んでいた。
まるで、北の海に住むという人魚かと思うほどであったと。
ふたりは、すっかり親しくなって、人目をしのんで語りあうようになった。
けれども、まもなく、用がすんだ若者は、娘を残して雁子浜(がんこはま)へ帰っていった。

 佐渡の娘の若者を慕う心は、それはもう激しかった。
ある夜、娘は若者に逢いたい一心に、とうとう、たらい舟にのって、荒海にこぎだした。
雁子浜(がんこはま)の明神さまのあかりを目当てになあ。

 若者も、佐渡の娘が夜の夜中に、たらい舟にのって、命がけで逢いに来てくれたことを、
どんなに喜んだことか。
 けれど、夜はみじかい。ふたりの語りあえるのは、ほんのわずかだった。
一番鳥が鳴くころには、娘は、なごりを惜しみながら、佐渡ヶ島に戻らねばならなかった。

 こうして、佐渡の娘は、毎晩、たらい舟で荒海をのりきって、雁子浜にやってくるようになったと。
若者は風の強い日は、娘が目当てにしている明神さまのあかりが消えないように、
守りつづけていたそうな。

 ところで、若者には母親の決めたいいなずけの娘がおった。
 ある日の夕方、そのいいなずけが、両親と一緒に若者の家に訪ねてきた。
そして、その晩は泊っていくことになったと。

 若者は、気が気でない。
佐渡の娘と逢う約束の時刻になると、そっと家をぬけだして、海辺へ走ろうとした。
すると、母親が追ってきて、「おまえ、今夜も浜へ行くのかえ。」と、とがめた。

 若者は、返事に困った。佐渡の娘のことは、誰にも内緒にしておった。
ところが、「おっかあは、ちゃんと知ってるよ。おまえに、仲のいい娘のいることをさ。
若いもん同士のことだから、今まで黙って見ておったが、今夜だけは、行かんでく。」と、ひきとめた。
 「おまえと夫婦になる日を待ちこがれている、いいなずけのことを、不憫とは思わないのかね。
さあ、家に入っておくれ。この通りだよ。」母は、そう言って、手を合わせる。

 さすがに若者も、母の頼みをけって、浜辺へ行くことはできなかった。
(今夜ひと晩くらい行かなくても、明日になれば、また逢えるのだ。
佐渡の娘も、おらがいなければ、帰ってゆくだろ。)と、若者は、しかたなく家に戻ったと。

 夜がふけて、風が出てきた。その風が、だんだん強くなってくる。
若者は明神さまのあかりが気がかりになった。
(けども、今までだって、あかりがみんな消えてしまったためしはないし。)
と、若者は、むりやり自分の心に言い聞かせておった。

 やがて、夜があけた。若者は、もうじっとしていられず、夢中で浜辺へ走った。
朝の海は、ゆうべの風もおさまって、波もない。日の光に輝やいている。
海辺には、早起きの村人が五、六人、波うちぎわに集まっていた。

 「かわいそうになあ。こんな若い、器量よしの娘がのう。」
 「まるで、人魚みたいらて。」
 「ゆうべは、明神さまのあかりが、すっかり消えてしまったからのう。」
 「なしてまた、夜の海になど、出るもんかのう。」

 若者が、村人たちのそばへ行くてみると、波うちぎわに横たわっているのは、あの佐渡の娘の、
変わり果てた姿であった。
つやつやと豊かであった黒髪も、今は乱れて、白い、ろうのような顔にふりかかっていた。

 若者は、魂がぬけたようになって家へ戻ったが、その夜 遅く 海へ身を投げてしまったと。
村人たちは、ふたりを明神さまの近くに手厚くほうむり、塚をたてた。
誰が名をつけたのか、その塚は、いつとはなしに<人魚塚>と呼ばれるようになった。
遠く佐渡ヶ島の見える雁子浜(がんこはま)の丘に、人魚塚は、今もひっそりと立っている。