命といふもの 「サライ」 2012年5月号 第148回 画と文 堀 文子 大正7年、東京麹町生まれ 93歳
「山が教えてくれた事」
山を見ずに育った東京の街育ちの私が、誰に教えられた訳でもないのに、気が付くと山を崇めていた。東北や信州の山々を怖れも知らず、一人で歩く山好きの若者になっていた。高山に隠れ棲み、山気を吸って思索する仙人んも思想に憧れ、栄達の道を捨て、出家遁世を志し脱俗の生涯を生きた西行、芭蕉、良寛を師と仰いだ。
そうした山中独居の生き方を志しながら、一切のしがらみを断ち切り、東京脱出を実現し、大磯の山裾に棲家を構えたのは50歳に近い春の事。古代日本を覆っていた照葉樹林の原生林の残る山裾に建つこの庵で、私は初めて本物の自然の中での驚きの日々を過ごす事になる。
山の草木、季節毎に訪れる鳥や虫達の暮らし。遥かに広がる相模の海、東に房総半島、西に伊豆半島。晴れた日には南に伊豆の大島が姿を見せる。街育ちの私には想像も出来ぬ風景と向き合う毎日。物質まみれの都市生活で作られた私の細胞は、大磯の自然の中で力を失ったが、生物としての細胞が蘇った。50を過ぎて、やっと私の望む脱俗への旅の出発点に辿りついたのだ。
それから10年後、60歳の時に本格的な自然を求めて軽井沢に仕事場を作り、以後30年、私は浅間山麓の広大な自然の中で、山の草木や鳥獣と呼吸を共にした。植物の芽吹き、花を咲かせ、実を結び、居座りもせず、次の命に席を譲る潔さ。自力で巣作りし、雛を育て、吾が子の巣立ちを見届けたあと、何千キロも離れた故郷に立ち去っていく鳥達。
零下15度にもなる極寒の冬も過ごした軽井沢の山中独居は、私に生きものの掟を教え命の輪廻を見つめさせた修行の道場だった。
全山の森が紅葉に燃える晩秋、一日の旅を終えた太陽が浅間山の裾に沈む時、浅間高原の大風景が茜に燃えさかる夕映えの、息を飲むあの一瞬を忘れる事は出来ない。夜の闇の中に姿を消して行く浅間の夕映えを描いた此の絵の高灯台草、芒、さらしなしょうま、浅間ふうろ、おみなえし。
どれも私の好きな花達で、荘厳な落日の儀式に参加した、私の分身のように思えてきた。