民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その6

2017年09月29日 00時06分06秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その6

 線香の煙りと共に灰左様なら その1

 十返舎一九は天保2年(1831)、67歳で没したが、人を楽しませる戯作者らしく、その死も滑稽なものだった。
 健脚を誇り、諸国を取材して歩いた一九が、しきりに体の不調を訴えはじめたのは、五十代になってからである。60歳のころには、さすがの一九も中風になり、手足の不自由に悩んだ。大酒を呑みつづければ、体もがたがたになる。

 文政12年(1829)には、神田から出火し、日本橋、京橋を中心に37万軒を焼き尽くした大火で、一九も焼け出され、裏長屋に転居を余儀なくされた。
 この大火では、死者が二千八百人を超えたが、一九は手足が不自由だったにもかかわらず、よく助かったものである。じつをいうと、一九は二度の婿入りに失敗したあと、妻を迎えており、二人のあいだには娘が一人いた。この娘が成人し、踊りの師匠をしながら一九の世話をしていたのだ。


十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その5

2017年09月27日 00時08分56秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その5

 ベストセラー作家なのに貧乏暮し その3

 遊び心が起こると、ふらりと出かけ、京や大阪などを遊び歩き、二ヶ月も三ヶ月も帰ってこなかった、という逸話もある。
 一九がよく旅へ出たのは事実だが、それは取材旅行で、いつも熱心にメモを取り続けていた。こうして、伊勢、播州、信州松本、上州草津、越後などにも足を運んだ。

 おそらく一九は、根がまじめ人間だったのだろう。ただし、自由奔放に生きたい、という思いが強かった。だから武士をやめ、町人たちのあいだで暮らしながら、軽妙で明るい滑稽譚を書きつづけたのにちがいない。つまり、一九は人を楽しませるのが好きで、それをまじめにやり通した、といってよい。
 とはいえ、底抜けの楽天家ではなかった。どこか屈折したところがあったからこそ、稼いだ金を酒や遊びにつぎ込み、さらに借金までして酒を呑む、という暮らしをしたのだろう。だが、つねに明るく、暗い陰の部分がないところを見ると、心根のやさしい人間だったように思える。


十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その4

2017年09月25日 00時09分22秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その4

 ベストセラー作家なのに貧乏暮し その2

「借金は富士の山ほどあるゆえに そこで夜逃げを駿河かな」

 これは一九が作中に書いた狂歌だが、彼自身、相当に稼いでいながら、いつも掛け取りから追いかけられていた。それだけ金遣いがあらかったのである。
 ときには、家財道具を売り払い、酒代にすることもあった。家財道具がなにもなくなった家に、一九は壁に白い紙を貼ると、簞笥や置物などの絵を描いた。すべて、あるつもりの暮らしだが、一九の家を訪ねた人びとはそれを見て、唖然となった。

 一九は貧乏など気にもとめず、ゆうゆうと仕事をし、酒を飲んだ。むしろ、いまを楽しむために仕事に励む、というところがあった。とてもほかの人に真似のできることではない。
 しかし、それでいながら作品を書くときは、まじめそのものだった。書斎にとじこもると、硯や筆、紙をきちんとそろえた机に向かい、家人を寄せ付けずに執筆に没頭したという。


十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その3

2017年09月23日 00時44分23秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その3

 ベストセラー作家なのに貧乏暮し その1

 一九に幸運の風が吹いてきたのは、享和2年(1802)、38歳のときだ。この年に出した滑稽本『東海道中膝栗毛』がよく売れ、一躍人気作家になったのである。
 これは、江戸に住む弥次郎兵衛と喜多八の二人が、おもしろおかしく東海道を旅する物語で、当時の庶民たちの旅への憧れを刺激して人気を呼んだ。そのころの旅は、主に大名行列とか巡礼の旅だが、まだ弥次、喜多のような遊山気分の旅は少ない。
しかも、庶民は気ままに暮らしていたとはいうものの、たまには旅へ出て、地域社会の制度や習俗といったしがらみから開放されたい、という気持ちが強かった。一九は、そうした庶民の心情を巧みにすくいとってみせたのである。

 当初は『浮世道中膝栗毛』と改題し、4年後に8編17冊まで刊行し、完結した。その後、文化7年(1810)に『続膝栗毛』を出し、文政5年(1822)まで書きつづけた。
 息の長い大ベストセラーで、一九の懐には相当な潤筆料(原稿料)が入り、屋敷をもつのも不可能ではなかった。しかし、一九は酒が好きだし、金が入ると気前よく仲間におごる。吉原へくり出して、派手に遊ぶ。というわけで、つねに借家住まいだった。

十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その2

2017年09月21日 00時35分56秒 | 健康・老いについて
 「江戸の定年後」 ご隠居に学ぶ現代人の知恵 中江 克己 光文社文庫 1999年

 十返舎一九 ―― 自分の死を笑いのタネに その2

 入婿を二度しくじった洒落男 その2

 ふたたび江戸に舞い戻ったのが寛政6年(1794)、30歳のとき。江戸でなにをする当てもなかったから、通油町(東京都中央区日本橋大伝馬町)の蔦屋重三郎方へころげこみ、食客として暮らしはじめた。
 蔦屋重三郎は地本問屋、いまでいう出版社を経営していた。一九は当初、下働きをしていたが、彼には文才があるし、絵心もあったから、それが認められて翌年、黄表紙『心学時計草』を書き、自分で挿絵をつけて、蔦屋から出した。黄表紙とは通俗的な絵入り読み物で、表紙が黄色のところからそう呼ばれた。

 これが一九の処女作だが、好評だったために、つぎつぎに作品を書いて出版した。しかし、残念ながらあまり売れる作品がないので、暮らしは貧しい。そのせいか、長谷川町(中央区日本橋堀留町)の町家へ婿として入った。だが、数年後には、やはり離縁されている。
 一九は若いころ、なかなかの男前で、女にもてたらしいが、大酒飲みだし、吉原通といわれるほどの遊び好き。二度目の離縁の理由もそれだった。二度も、入婿にしくじったわけである。