民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「ういろう売りのせりふ」 その3 鈴木 棠三

2017年09月07日 00時31分11秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その3

 ういろう由来 P-65

 これを、銀粉をまぶした丸薬に変えたのが今の形で、このように代わったのは比較的早くからのように思われる。天文9年(1540)に成った荒木田守武の俳諧連歌『守武千句』に、「大きなりけり小さかりけり」の句に「不二のねはとうちんかうを麓にて」と付けているのは、もちろん小田原移住後の外郎家をさしている。大きなものとちいさなものを、それぞれ富士の山と透頂香で具体化した句で、ただそれだけの説明の句と解されがちだが、銀の小粒の透頂香を富士の雪になぞらえた意を看取すべきである。とすると、天文の初め、あるいはそれ以前に、銀の丸薬に変わっていたものと見てよいのではなかろうか。

 江戸時代に入って、金銀二色の丸薬を創製し、花ういろうと名づけ、正月などめでたい時の用に喜ばれ、ういろう売りのせりふにも出ているが、これはあくまで特製で、主流は銀の粒であったことはいうまでもない。透頂香の薬効としては、胃腸病、吐き気、悪酔い、息切れ、頭痛、めまい、咳、痰のつかえ、咽喉痛、その他諸病に卓効あるとされた。



「ういろう売りのせりふ」 その2 鈴木 棠三

2017年09月05日 00時01分54秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「ういろう売りのせりふ」 その2

 ういろう由来 P-64

 永正元年(1504年)、五代目外郎藤右衛門定治(1470~1556)の時、北条早雲の招きにより小田原に下って同家に属し、高1800貫を領した。北条氏滅亡の時、七代目光治は籠城軍に加わっていたが、特に許されて城下に止まり、以後は医薬に専心した。その後は城主大久保・稲葉両氏から保護されて、小田原名物の霊薬として全国的に名があがった。京都の外郎家は定治の弟が典医職を継いだが、室町幕府の倒壊と共に絶家し、当時の職人が各地で銘菓ういろうを製造し、その流れが本舗以外のういろうとなって今日に及んでいる。

 ういろうすなわち透頂香は、今も古方を守って造られている。直径3、4ミリの銀色の丸薬で、中は黒褐色、ちょっとにが味があり、香気が高い。まずは仁丹や宝丹の祖型といえる。ただし、透頂香の初めは葉書半分くらいの薄い板状で、金粉をまぶしこれに縱橫の筋目がつけてあり、2、3ミリの小片に折り取って服用した。ういろう売りのせりふに「冠の透間より取り出す」とあるのも、丸薬でないからできたことなのである。


「ういろう売りのせりふ」 その1 鈴木 棠三

2017年09月03日 00時02分51秒 | 朗読・発声
 「ことば遊び」 鈴木 棠三(とうぞう)1911年生まれ 講談社学術文庫 2009年

 「世の中はすむと濁るの違いにて、刷毛に毛があり禿に毛が無し」。平安以来、歌詠みも、連歌作者も、俳諧の宗匠も、ことばの動き、その変わり身の様々な相を追求した。「回文」「早口言葉」「しゃれ」「地口」「なぞ」「解きと心」・・・百花繚乱の言語遊戯を誇る日本語。ことばの可能性を極限まで発掘しようとする行為としてのことば遊びの歴史を辿る。(推薦文)

 「ういろう売りのせりふ」 その1

 ういろう由来 P-63 

 小田原の市街を箱根方面へ向かって、いま少しで出外れる辺りが本町一丁目で、ここにういろうの本舗がある。関東大震災までは、八棟造りという大変目につく家構えの老舗であったが、現在は一見普通の薬局と変わらないけれども、ここが銘菓ういろうと霊薬透頂香(とうちんこう)の本舗で、外郎藤右衛門氏のお宅である。ういろうというと、名古屋が本場のように思いこんでいる人が多いが、あれは模造品ともいうべきものだそうだ。外郎家の家伝によると、祖先の陳延祐(ちんえんゆう)(宗敬とも称した)は元の順帝の時大医院、礼部員外郎に任じられた。員外とは定員外を意味するが、当時は正職であった。

 1368年、元が滅び明の世になったので、延祐は日本に亡命し、陳外郎と称した(ウイは「外」の唐音)。陳外郎は博多で僧門に入って世を終えたが、その子宗奇(そうき)は京都へ招聘され将軍足利義満の愛顧をうけ、遣明使の嚮導役(きょうどうやく)として明国に使し、帰朝に際して霊宝丹を将来して家方(かほう)とした。これを冠にはさんで少量ずつ服用すると芳香が漂う。つまり常備薬と香水を兼ねたようなものなので、時の帝から透頂香の名を賜った。これが正式の名で、外郎薬、略してういろうと呼ばれ、薬効顕著なところから上下に大いに珍重された。菓子のういろうは、内外の賓客に供するために、同家で創製したもので、もともと売品ではなかったということである。

「声が生まれる」 話すことへ その4 竹内 敏晴

2016年12月24日 00時18分41秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その4 P-31

 息を吐かない人々③――アルコール依存症の人たちへのレッスン

 息の浅さは若い女の人ばかりではない。
 アルコール依存症の人たちになん年かレッスンをしてみて意外に思ったことは、男性、それも中年の力仕事――たとえば大工、トラック運送、建築現場(昔で言えばとび職)――をやってきた人たちで、上半身は驚くほどたくましく筋骨隆々としているのに、案外にハラに力が入らず腰が弱い人が多いことだった。つまりハラで息をしていない。大声は出すが、胸だけの息なので瞬発的で長く続かない。話しことばも、短いセンテンスで息をつぐのでせわしなかったり途切れたり、一般化するにはデータが少なすぎるけれども、男性は一般にハラで息をしているものと決めてかかっていると見当が違うようだと教えられたことだった。

 昔は田んぼの向こうの道をゆく人に呼びかける野良声とか、舟の上で波風の音に負けずに怒鳴る胴間声とか呼ばれる話し声があった。若い頃東北の農村で、家からやっこらしょと出てきた腰の曲がったお婆さんが、いきなり谷をへだてた向かいの崖に「ナニシテルダ、バカモン!ハヤクオリロ!」と怒鳴りつけた声にたまげたことがあった。孫息子が柿の木にのぼっていたのだった。柿の木は折れやすい、アブナイ!と見て取ったとたんに飛び出した大喝だった。その凄まじさ。谷向こうの孫息子はびっくりしてそろりそろりと降り始め、わたしは感嘆したまま婆さまの顔を見つめていた。こういう息の強さで人々は生きていたのだ。「話す」とは、声によって人に働きかけ、相手の行動=存在の仕方を変えることだ。とすれば、まっすぐ歯を開けて息を吐かなくては、声を生み出せず、ことばが芽生えるからだの内なる動きを外への流れへ作り出すことができない。ことばが相手に届く力を生み出せないことになる。

 ことばとは、まず自分の中で生まれるけれども、相手のからだ=存在の地点に至って、はじめて成り立つものだから。

 息が外へ、そして相手に向かっていかなければ話しことばは成り立たない。まっすぐ歯を開けて息を吐いた時、ここに「わたし」が現れるのだ(自分を露わにしないために歯を開けないという姿は先に見た通りだ)

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。


 

「声が生まれる」 話すことへ その3 竹内 敏晴

2016年12月21日 00時06分32秒 | 朗読・発声
 「声が生まれる」聞く力・話す力  竹内 敏晴  中公新書  2007年

 話すことへ――つかまり立ち その3 P-28

 息を吐かない人々②――若い女性たちのからだと声

 20代から30代前半にかけての若い女性の中には、人と向かいあうと声が出ない、うまく話せない、と訴える人が少なくない。相手のことばを聞き取るにも余裕がない、怖いのです、と言う。

 レッスンの場でその人たちに会ってみると、その姿勢の特徴の一つは、床に座る時はほとんどが三角座りすることだ。今から10数年前の大学生たちがその頂点だったと思うが、レッスンの場(教室)に入ったとたんわたしは棒立ちになったことがある。ほとんど全員がピタッと壁にくっついて両膝を抱えこみ、長い髪をぱらりと前に垂らしてまるで顔を見せず、俯向いたまま小首を傾けて小指で前髪を横にずらすとその陰からちらと斜めにこちらを見る。動こうとする気配も見せない。問いかけに答えて声を出すと、かぼそくカン高く頭のてっぺんから洩れてくるような声だ。

 (中略)

 膝をそろえて抱え込んだまま息を入れてみれば、腹部は圧迫されて動かせないから、息は胸郭だけを持ち上げてしなければならない。かぼそい息しか入ってこない。三角座りとは、手も足も出せず息さえひそめていなくてはならない。即ちあらゆる表現の可能性を封じ込めてしまう姿勢なのだ。これを無自覚に子どもたちに強制しているのが日本の公立学校教育の、公式に議論されることのない、学童のからだ操作の基盤になっている。

 幼稚園から数えれば15年ばかりもこの姿勢に馴染んだ若い人たち、特に女性には、こうしているのがいちばん落ち着くのですという人が少なくない。このまま立てば、話す時もおなかはペコン。胸は落ち込み背は曲がりっぱなしで、息が出入りしているとも見えない(もちろんこれは、勤める企業の上下関係における礼儀作法に始まる、さまざまな社会慣習に対するかの女の順応全体の姿なのだが、三角座りがその基盤をなしている有様はまざまざと見て取れると思う)

 まずは座り方から気づいてみよう。あぐらか正座(ただし古来の定法のように両膝の間をこぶし一つ空けて)をし、お臍の下に手を当ててぐいと押し、そこに力を入れて固くしてみる。そこをふくらませるように息を入れて、吐く。奥歯をひろげ前歯を開けて、息が、前に立つわたしまでとどくように。これがわたしの行う、息の勢いを取りもどす第一歩だ。

 竹内敏晴 1925年(大正14年)、東京に生まれる。東京大学文学部卒業。演出家。劇団ぶどうの会、代々木小劇場を経て、1972年竹内演劇研究所を開設。教育に携わる一方、「からだとことばのレッスン」(竹内レッスン)にもとづく演劇創造、人間関係の気づきと変容、障害者教育に打ち込む。