我が家には、幾つかの種類の陶器がある。父の作品で父が焼いたもの、父が亡くなった後、他の陶芸家に焼いてもらったものがある。
以前にも50年前のラセン人形で触れたが、父はロクロを使った木工品作りを生業としていた。仕事を辞めてからは、陶芸作りに勤しんでいた。今日は街では、秋祭りや新店舗の開業などがあり、雨の降る中、音だけの花火も鳴っていた。しかし、朝はシトシト降りであったが、しだいに雨脚が強くなってきた。外出は止めて、家に籠り、父の作品を取り出してみた。
香合は茶席で用いられ、香を入れる蓋つきの器だ。父は細工が好きで蓋の部分と皿の部分を合わせるのが得意だった。羊をモデルにしたものであろうか。カモ。白鳥をモデルに蓋をつくったものか?
香合の蓋と器。
香をたく器、つまり香炉だ。
父はコーヒーが好きで、自分も使えるコーヒーカップを多く作っていた。取っ手の形状作り、取ってとカップ本体を結合するのには、それなりの技術を要する。
織部風に仕上がった小皿各種。下は5点セット。
これは、孫たち(私の息子たち)が、おじいちゃん(私の父)の指導で葉っぱの形をつくった。後に父が色付けをして焼いてくれたもの。
父は俳誌「鹿火屋」の会友だった。私も学生時代父と共にその句会に出たことあった。句を互選する様子などとても興味深い体験であった。しかし、父のように句に没入する程にはならなかった。雰囲気だけで満足して終わった。
以下、父が詠んだ3句。
朴の花父の山へと深入りす
遠うぐひす飛鳥の天をちかくにす
蓬莱の月をみてゐる石鼎忌
(注記:「石鼎忌(せきていき)」は、島根県出身の俳人原石鼎の命日(12月20日)。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人。)
父の句には、「父」「天」「月」という言葉が多く使われる。
父の生い立ちに起因すると思える。父は実の父親に育てられなかった。生まれるや否や、血縁のない他人の家で育てられた。また、姓も両親のものではなかったし、育ての親も別名であった。
世は大正ロマンの時代であったろう。父はその世界とは無縁の漁師の家で、その担い手として育てられたのだろうか。その家族は父のことを姓で呼んでいた。しかし、学校には行けたし、大事に育てられたのだろう。ネガティブな少年時代の話は聞いていない。成長してから母親とは会っていたようだが、父親とは40歳代になって会ったようだ。
この間、尋常小学校を卒業後、奉公に出された。奉公先から召集令状によって、戦地へ赴任した。中国であった。
父は、「中国の洞庭湖で、夜、湖畔に座りながら、湖に映る月の影、視線をあげると天には月が静かに輝いている。故郷の日本でもこの月を見ている人がいるのだろうか?」と、離れた故郷に思いを馳せていたと繰り返し語っていた。
実父を知らずして大人になった自らの境遇を語るに語れない複雑な思いを「俳句」に籠(こ)めたと思われる。
父は私と妹を母と共に育ててくれた。今になって思う、平穏に育ったということに感謝しなければならないことを。しかし、存命の間に父と母に言葉として感謝を伝えなかったのが心残りだ。
以前にも50年前のラセン人形で触れたが、父はロクロを使った木工品作りを生業としていた。仕事を辞めてからは、陶芸作りに勤しんでいた。今日は街では、秋祭りや新店舗の開業などがあり、雨の降る中、音だけの花火も鳴っていた。しかし、朝はシトシト降りであったが、しだいに雨脚が強くなってきた。外出は止めて、家に籠り、父の作品を取り出してみた。
香合は茶席で用いられ、香を入れる蓋つきの器だ。父は細工が好きで蓋の部分と皿の部分を合わせるのが得意だった。羊をモデルにしたものであろうか。カモ。白鳥をモデルに蓋をつくったものか?
香合の蓋と器。
香をたく器、つまり香炉だ。
父はコーヒーが好きで、自分も使えるコーヒーカップを多く作っていた。取っ手の形状作り、取ってとカップ本体を結合するのには、それなりの技術を要する。
織部風に仕上がった小皿各種。下は5点セット。
これは、孫たち(私の息子たち)が、おじいちゃん(私の父)の指導で葉っぱの形をつくった。後に父が色付けをして焼いてくれたもの。
父は俳誌「鹿火屋」の会友だった。私も学生時代父と共にその句会に出たことあった。句を互選する様子などとても興味深い体験であった。しかし、父のように句に没入する程にはならなかった。雰囲気だけで満足して終わった。
以下、父が詠んだ3句。
朴の花父の山へと深入りす
遠うぐひす飛鳥の天をちかくにす
蓬莱の月をみてゐる石鼎忌
(注記:「石鼎忌(せきていき)」は、島根県出身の俳人原石鼎の命日(12月20日)。高浜虚子に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期の「ホトトギス」を代表する作家の一人。)
父の句には、「父」「天」「月」という言葉が多く使われる。
父の生い立ちに起因すると思える。父は実の父親に育てられなかった。生まれるや否や、血縁のない他人の家で育てられた。また、姓も両親のものではなかったし、育ての親も別名であった。
世は大正ロマンの時代であったろう。父はその世界とは無縁の漁師の家で、その担い手として育てられたのだろうか。その家族は父のことを姓で呼んでいた。しかし、学校には行けたし、大事に育てられたのだろう。ネガティブな少年時代の話は聞いていない。成長してから母親とは会っていたようだが、父親とは40歳代になって会ったようだ。
この間、尋常小学校を卒業後、奉公に出された。奉公先から召集令状によって、戦地へ赴任した。中国であった。
父は、「中国の洞庭湖で、夜、湖畔に座りながら、湖に映る月の影、視線をあげると天には月が静かに輝いている。故郷の日本でもこの月を見ている人がいるのだろうか?」と、離れた故郷に思いを馳せていたと繰り返し語っていた。
実父を知らずして大人になった自らの境遇を語るに語れない複雑な思いを「俳句」に籠(こ)めたと思われる。
父は私と妹を母と共に育ててくれた。今になって思う、平穏に育ったということに感謝しなければならないことを。しかし、存命の間に父と母に言葉として感謝を伝えなかったのが心残りだ。