東京・中央区の公立小学校がことし春から、高級ブランドが手がけた最大8万円余りの制服を導入する方針を示したのに対し、保護者などから困惑や批判の声が上がってる。区の教育委員会は、着用は強制ではないとしたうえで、「校長には保護者にしっかり説明するよう指導し、不安を取り除くよう対応したい」と話したとのこと。
8日の衆院予算委員会でもこの件で論戦が交わされた、「(価格の)ある程度の幅は国も考えないといけない」と指摘したとのこと。林文科大臣は「あまり過剰な負担にならないようしっかり考えたい」と応じたという。
制服の価格格差については昨年も話題になっていた。にもかかわらず、この学校の校長は、昨年11月に保護者に文書で、「銀座にある学校らしさも生まれるのではないかと考え、アルマーニ社のデザインによる標準服への移行を決めた」と説明。具体的な価格は明示されていなかったという。
NHKニュースで、ネット上の意見を紹介していた。
「銀座の真ん中だからお金持ちなイメージがある」、「学校のブランド戦略だろう」、「小学生の制服にアルマーニはないわ。親のスーツより高いだろ」、「子どもはすぐに成長して着られなくなる」、「親の経済力や家庭環境を選別する可能性があるならそれは公教育ではない」とか「制服で帰属意識を期待だなんて愛校心を強要している」などと否定的な受け止めが目立っているとのこと。
このニュースを聞いたとき最初は、てっきり私立の学校のことかと思ったが、なんと公立小学校だった。
昨年、私は東京メトロのある駅ホームで次のような光景を見た。お揃いの白い帽子、白いシャツ、紺のスカート、白い靴の女児(小学校低学年)がワイワイ言いながら、4~5人で下りエスカレータを下から駆け上がる遊びをしていた。私は思わず大声で、「危ないよ。エスカレーターで転んで、死んだ人もいるんだよ。止めなさい」と叫んだ。子供たちは悪びれずにやにやしながら、止めてホームの中央までかけていった。なんと、そこには引率らしき大人(多分誰かの親?)がいた。大人は私の顔は見ず、何事もなかったように振る舞っていた。
制服云々(うんぬん)というより、学校や親は子どもが社会の中でどのように生活していくかを教育していくのが使命ではないかと思う。
教育だけでなく、霞が関の面々も、口頭では「未来を担う子供のため」とか「国民のため」というが、庶民目線でなく、上から目線だ。教育も政治も行政ももっと一般庶民を念頭に対応して欲しいものだ
8日の衆院予算委員会でもこの件で論戦が交わされた、「(価格の)ある程度の幅は国も考えないといけない」と指摘したとのこと。林文科大臣は「あまり過剰な負担にならないようしっかり考えたい」と応じたという。
制服の価格格差については昨年も話題になっていた。にもかかわらず、この学校の校長は、昨年11月に保護者に文書で、「銀座にある学校らしさも生まれるのではないかと考え、アルマーニ社のデザインによる標準服への移行を決めた」と説明。具体的な価格は明示されていなかったという。
NHKニュースで、ネット上の意見を紹介していた。
「銀座の真ん中だからお金持ちなイメージがある」、「学校のブランド戦略だろう」、「小学生の制服にアルマーニはないわ。親のスーツより高いだろ」、「子どもはすぐに成長して着られなくなる」、「親の経済力や家庭環境を選別する可能性があるならそれは公教育ではない」とか「制服で帰属意識を期待だなんて愛校心を強要している」などと否定的な受け止めが目立っているとのこと。
このニュースを聞いたとき最初は、てっきり私立の学校のことかと思ったが、なんと公立小学校だった。
昨年、私は東京メトロのある駅ホームで次のような光景を見た。お揃いの白い帽子、白いシャツ、紺のスカート、白い靴の女児(小学校低学年)がワイワイ言いながら、4~5人で下りエスカレータを下から駆け上がる遊びをしていた。私は思わず大声で、「危ないよ。エスカレーターで転んで、死んだ人もいるんだよ。止めなさい」と叫んだ。子供たちは悪びれずにやにやしながら、止めてホームの中央までかけていった。なんと、そこには引率らしき大人(多分誰かの親?)がいた。大人は私の顔は見ず、何事もなかったように振る舞っていた。
制服云々(うんぬん)というより、学校や親は子どもが社会の中でどのように生活していくかを教育していくのが使命ではないかと思う。
教育だけでなく、霞が関の面々も、口頭では「未来を担う子供のため」とか「国民のため」というが、庶民目線でなく、上から目線だ。教育も政治も行政ももっと一般庶民を念頭に対応して欲しいものだ