大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

生まれるということ

2021-07-21 04:27:00 | ひとりごと

妹が病気の時の娘の話を少し前ブログで書いていました。実は、その日の前日同じような内容が頭に浮かびこのブログを書いていました。同日朝妹のを見てビックリ。あっ、またダブった!ってな感じで、妹と私は考えることはよくシンクロします。双子ってそんなことよくあります。暫く経ったからアップしますね。

妹が病で私の家で療養していた時、末娘はまだよちよち赤ちゃんでした。その娘が、身体が痛くて辛くてたまらない妹に乗っかったりするんじゃないかと、私は心配していました。


かなりギャン泣きバタバタ怪獣赤ちゃんだった娘でしたが、なんとなく妹の辛いことは解るらしく、妹のそばでバタバタする事もなく、ある時は、ちょこんと妹の横でお昼寝したり、妹がいうにはかなり癒しだったようです。


その時に、妹が赤ちゃんの娘に生まれてしまったねぇ、この世に、としみじみ言ったのを今も覚えています。


妹は、身体が辛すぎて、生きる事の試練に耐えていて、脱ぐことが出来ない辛い身体と共に生きている時だったので、その言葉に、生まれたら生きないとイケナイけど、生きることって辛いんだよーと言っているようでした。

だからか、赤ちゃんの娘に生まれてしまったねぇという言葉になったんだと思いました。私は妹を心底可哀想に思い、双子だからできれば痛みを半分分けて欲しいとさえ思っていました。


妹には幼い頃から生まれる時、あーあ、またやり直しかぁ、という感覚があったようです。病気には関係なく付き纏う感覚。生きることが楽な時も苦なときも。今も物心ついたころには既にあったその感覚が忘れられないと話します。私には、その感覚はありません。


魂が覚えているのか、第六感なのかわからないけど、人生で起こる避けられないことを、繰り込んで生まれてきたという潜在意識が少し顕在意識として残っているのかもです。

病はそのひとつで、たぶんこの病は避けられない試練のひとつだと思うとも言っていました。津野山のことも魂と神様との約束だったのだと思います。


誕生の誕には、ウソ、偽りの意味があるようです。つまり、命をもって生まれて生きているように見えてもそれは仮の世で、偽りの自分を生きてる人が多いかも。本当の自分に合うまで探求することが人それぞれに課された難題なのかもしれません。


反対に、亡くなる日は命日といいますから、亡くなると本当の自分の命の真価を初めてみせられ、あー生きている時なんで真価を出して生きなかったんだ、他人のいうことに振り回されてしまったんだ、なぜあんなことしたんだ、とか思うかもしれません。


なんだか、誕生と命日の漢字に隠された逆説のカラクリがこの世とあの世にあるように思います。


誕生して亡くなるまでは、人それぞれ長い人も短い人もいるし、環境も様々だけれど、自分の中にもいる神様は、本当のあなたはそんなもんじゃ終わらない、いつ真価を出せるかを待っているのかもしれません。


しかし、自分の真価って??とふと考えると私はこの歳になってもこれだ!!と言えるようなものがすぐ思いつく訳ではありません。特別な何かや、才能があるわけでもなく平凡に生きてきましたから。


だから、ブログのタイトル、夢で見た大善人を目指して、大雑把ではありますが、心が純粋に喜ぶことをし、心を汚すことはしないとまず決めました。


そして、神様大好きのわたしは、内神様に恥じないように、そして外神様も大切に思い、ご先祖様も大切にします。


せっかくこの世に生まれてきたのだから、命ある限り、出会えた周りの人を大切に思いながら命に感謝して、出会いに感謝して一生懸命に生きたいです。




【画像は赤ちゃん検索画像より】


薔薇とラッパ

2021-07-20 05:07:00 | ひとりごと

名前は誰も生まれたらつけられます。色んな思いを込めて名付けはされます。わたしにも生まれてすぐ両親がお宮で授けてもらった古い感じの名前があります。


この名前ですが、もし私が橋の下で捨てられていて、養子縁組で海外の方に拾われてたら、キャサリンやフランソワみたいな名前だったかもしれません。


私は変わらないのに名前は変わる。


ものの名前も然りで、薔薇といえば美しくて香り高い花の名前ですが、もし、薔薇を昔の人がラッパと名付けてたら、私達は今でも何の疑問もなく、「ラッパって香り高くて綺麗だよねーっ」と話しています。


こんな感じで、名前は人がつけるわけだから名前自体には意味はないけれど、そのものを表す大切なものではあります。


御祭神の名前を調べると、特徴は重なるけれど名前が違った御祭神がいます。調べていて、あれ、同じ神様?名前は違うけど、と分からなくなったら、わたしのアバウトな性格がニョキッと顔をだして、あなたもキャサリンだったかもしれないよ!と囁きます。


御祭神名の塗り替えが行われたことも、色んな方の話を聞いたり読んだりしてわかりました。しかし、塗り替えても本当にいらっしゃる神様は変わらない。真、誠は、そのままあるのです。


仏教では、亡くなったらこの世の未練を断ち切るために戒名が与えられます。同じ人が霊体になると名前がまた変わる。


ところで、鳥居の起源について、天照大神が天の岩戸に隠れた際、八百万の神々 が鶏を鳴かせますが、この時に鶏が止まった木(トリが居る木)を鳥居の起源で あるとする説があります。


その鶏は、古事記で は常世の長鳴鳥とされていて、長鳴鳥=ながなきとり=名が無き鳥です。


鶏のように思われていますが、天では実は名前が無いんです。名前って何だろう、と考えてしまいます。


人は根源神から分け御魂を貰い生きていると信じています。日本の信仰の本質は、自然信仰であって、古来は自然を通じて「名が無き」根源神へ祈ることが信仰であったということを聞いた事があります。根源神には名前は無くて、名前は人がわかりやすいように付けただけといえます。


私たちは生まれて名前をつけられた時点で根源神の分け御魂を貰いつつも、そのことを忘れるように、自分の外に安寧を求めるのかもしれません。


どんどんと内鳴る神様から離れ、名前のある物質ばかり求めたり、名声、次は名誉、肩書き、名を追い求め迷走します。


本当に大切なものは見えないと星の王子様が言っていました。私の名前がキャサリンでもゴン太郎でも、何もわたし自神は変わらない。


その変わらないものを真価という気がしています。人は、生まれた時点で神様の分け御魂をいただいていて真価を誰しも持っていると信じています。

名前でなくそのありのままの見えないものを大切に、その人しかない真価に価値を見出したい。そして、自分にも自分だけの真価があると信じてそれを出して生きていきたいです。


日本語と英語

2021-07-19 05:41:00 | ひとりごと
昨日はこだまについて書きましたので、今日は言語について書いてみようと思います。

今は、翻訳機なんかあり不要になりつつありますが、昔、英語翻訳に興味がありました。日本語が好きだから英語を日本語にするとどうなるんだろうと。




海外に興味があり英語を勉強する人も多いですが、私は、日本語との違いに興味がありました。言語の比較なんかも面白いし、言葉が国民性にも繋がっているように思えました。


英語は主語が最初にきます。日本人が英語を苦手とするのは、日本語が主語を明確にしない言語であるのも理由のひとつかなと思います。英語は、私が、あなたが、彼が、彼女が、主語が最初にきますから。

日本語は主語を曖昧にする言語です。昔から農作業という共同と協調、和が重視された社会において、共に働き、お互いの労力を分け合い、自分だけが得する、自分だけが楽するという利己的な我を排除する必要があり、共同体意識が強い性質が言語にも出ている気がします。


英語は、個を強く主張する言語だし、曖昧を嫌うから、日本語とは話法も文法もかなり性質が違うかなとも思います。国際化社会では、国としての立場や意見を明確に示す必要があるから、個の主張は大切ではあるとも思いますが。


日本語で一人称を言うとき、「私は」はなんとなく、「私が」より柔らかく聞こえませんか?


愛媛には大山祇神社があり妹が行きました。とても良かったようです。私は妹だけでなく神社を紹介してくださる方の写真をじっくりと見ることで参拝気分を味わってます。妹の写真の中に大山祇神は、和多志大神(わたし大神)とも呼ばれていることを知りました。和を多くすることを志す神様。




山は、木や土、水、時には火と和する。なるほどと納得!聖徳太子も、和を持って尊しとする、と。


私と和するのは、私は。私の我がでるのは、私が。日本語で一人称の主語を使うなら「私は」が良いかな。こんな一語でニュアンスの違いを感じられるのが日本語だと思います。


日本語は非常に奥深く、同じ言葉に沢山の意味があり、助詞一語でもニュアンスに違いがあり、漢字も別変換したりもでき、言葉で遊べる。言霊が煌めく言語。


ひとつの言葉にさえ沢山の意味があるからこそ、言葉の真意、神意は、受け取る人の感性で沢山受け止められる。


だからこそ、言葉を自分で優しく楽しく受け取り、言葉遊びをするのが面白いし好きです。日本語はそれができるから個人的には最高の言語だと思います。


まずは言葉ありき。


神々が世界をわけたとき、まずは意思疎通が出来なくなるように言語の壁を作った話があります。この壁をつくったとき、それでは沢山の人をどのように分けたのかと考えたことがありました。


天から見て、自我を小さくすることを善とする人が日本語を話す日本人へと割り当てられて生まれてきたのかなぁと良い風に捉えています。日本語は、語族を特定出来にくい、珍しい言語なのですから。


和を大切にする、だから、海外の人からみたら、なんでも受け入れ、日本の伝統は守りながら、何でも大丈夫の宗教、宗教関係なしでクリスマスや、ハロウィン行事を楽しみ、クリスチャンでないのに教会で結婚したり、和食を大切にしながらも、多国籍な食文化をも取り入れることに不思議と違和感がありません。


我の漢字は、伐採とか殺伐とかの伐に似ていて、分離のイメージ。


私から我を無くして和に変える。みんな違ってみんな良い。


幼いピュアな赤ちゃんにだんだん我がでてそして大人になり、沢山揉まれたりしながら生きていく中で、我良しの我を私にいっぱいつけながら生きる人もいれば、私から我を削ぎ落とし和にしながら生きる人もいます。


魂を覆う我を削ぎ落としながら、成るだけ和を多く志ながら明るく生きたいです。


日本語のこだま

2021-07-18 04:41:00 | アニメ
もののけ姫のこだま。森の精。木霊。そして、言霊とも感じます。


もし、目には見えないけれど自分の言葉が外に出た途端に精霊になって、こんな風に残るとしたら、と考えたことがあります。


日本語は言霊により、まっすぐに受け取っておいて良い時と、そうすれば違う意味に解釈できる時さえありますから、口から出した人の気持ちがこのこだまに込められていると考えます。言葉が言の羽になったり言の矢になったり。


とことこ、このこだまが歩く姿を想像してみます。自分の周りを元気に歩きます。悪口ばかり言う人、他人を傷つけて平気な人の周りには、ことの矢をもった悪口こだまが沢山歩きます。 誰かをさしたくて矢みたいに尖ってるかも。怖い。出した人から受けとらないようにしたいです。


嘘をつく人には、口と虚しいで嘘だから、虚しいこだまが、自分の友達をさがします。そういうこだましか出せない人の心はどんどん虚しくなりそうです。





善い言葉を言う人には羊毛のような善こだまがフワフワ跳び歩きます。

誠実な言葉を言う人には事(言)を成すようこだまが誠にむかって歩きます。

どちらもふわふわな羽みたいに優しくハッスル、ハッスルしながら跳び歩きます。


歩こう歩こう、私は元気♪とトトロの歌が響きます。




しかも、このこだまは、魂(霊)だけあって、口と心がバラバラなら、心を優先します。


オイ、詐欺師。人騙して知らん顔して、人のお金を私欲に使い、綺麗にペラペラ嘘言ってんじゃないだろ!コラ!ってな感じで。


口から出るこだまは善くありたいですね。すみません。あることを思い出すとついつい。。。


善いこだまを善い心でハッスル、ハッスルするのも、ひとつの身魂磨きと思います。


あちらの世界に入る入学試験を受けるその日まで忘れずにいきたいです。


【画像はもののけ姫、となりのトトロより】



大和三山 耳成山と怪談話

2021-07-17 05:54:00 | 神仏について
大和三山の香具山を書いたとき、畝傍山も少し書きました。そうすると、耳成山についても書かなきゃ駄目よねと、色々調べていました。


山の形から「耳無し」山(余分なところがない山)ともいわれ、「耳がない」ことからか、麓にはかつて「口無しの井戸」、「目隠し川」があったとされる、とかトリビアが紹介されていました。


耳成山の神社の祭神は高御産霊神(たかみむすびのかみ)と大山祇神(おおやまつみのかみ)のニ柱であるようです。明治時代以前は農耕神・水の神を祀る天神社であったとされ、雨乞いの神事が行われたという記録も残されているみたいですね。尊い神様のお山です。


耳成の名前からは、怪談話しを私は想像してしまいます。


耳無芳一の怪談は、明治時代の小泉八雲が妻の節子の話をもとに書きました。小泉八雲は、ラフカディオハーン。当時珍しい国際結婚をし、日本の英語教育に尽力した方。


あの素戔嗚尊の詠まれた八雲立つの和歌から日本名、八雲をつけたようで、小泉節子と結婚し出雲の地にも縁がある方です。




ラフカディオハーン検索画像より

耳無芳一の話は、目の見えない芳一を主人公に、安徳天皇や平家一門を祀った山口県にある阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を舞台とした怪談話しです。


耳にだけお経をかかれていなかったため、平家の怨霊が耳だけを持っていき、その後怨霊はおさまった、、、という話。お経を身体中に書かれた姿や、耳を切られる話し、幽霊は見えた事ないけど、想像してしまうので聞くのも怖くて、昔はかなり怪談話は苦手でした。


平家の怨霊の話からこの話は出来ていますから、それだけ源平合戦は凄まじかったということだと思いますし、無念に亡くなった平家の怨みは恐ろしいと考えられていたのですね。兎に角、人と人の闘いは嫌ですね。


平家落人は四国にも沢山逃れてます。実は、安徳天皇は生き延びて高知の山中で余生を過ごした話しが高知にはあります。墓地もあったりします。何が本当かはわかりません。


ところで、耳無芳一の話に戻ります。目の見えない芳一には、怨霊は見えていませんでした。目の見える人が怨霊を見て芳一にお経を書きます。しかし、目の見えない芳一にとって大切な耳にだけお経を書き忘れてしまいます。その結果、芳一は怨霊に耳を奪われてしまいます。


芳一は琵琶を弾きながら、実際には目が見えないけれども、耳や感覚でわかる事が沢山ありました。大広間で人が沢山いる様子とか話し言葉でどんな人達か等がわかったのです。


自分の感覚気管に無いものを補うように目の見えない芳一には耳が目の役割をしていたといえます。


この話には、目が見えない人は、目が見える人以上に耳が目の役割を果たす一方、目が見えていても大切な事を見落とす人への皮肉もありそうです。


見えていないのに見えるとか、聞こえなくても聞こえるという事では、なんとなく感じたり、閃き、胸騒ぎを虫の知らせといったりします。第6感なのか、勘なのか、テレパシーなのか。内なる声なのか。


耳で観て、目で聴く大切さをこの間教えてもらいました。目や耳は、単に感覚器官を超えるものでありそうです。


耳成山。耳無山。耳梨山。大和三山のひとつ。耳無芳一の話が暗示することは深いです。


昨日の話に戻りますが、熊さんの携帯に入った聲网山の漢字。漢和辞典でしらべやっと解った2つの漢字。聲は声。は、罔、網とも网を、罔とすると、日本書紀の罔象女神(みつはのめのかみ)の漢字の一字です。罔を象る神。アミはアメにも響きが似ています。貴船神社丹生川上神社の御祭神、水波能売命、罔象女神。水を司る神様。


聲なき声を感じとり聴きなさい。水の神様の聲を。耳が無くても聴こえる聲を、全ての感覚を研ぎ澄まして感じなさい。畝傍山は火に縁がある名前。森林は自然に発火したりします。大和三山は其々がお互いに絡み合い何かを語っているようにも思えます。


ところで、高知県津野町にある津野山神界には耳の神様がいらっしゃいます。四万十川を生み出す地域の神様。耳の神様。龍神様かもと教えていただきました。人と神を繋ぐ神様のようです。龍神様には、耳が無いとも教えていただきました。


耳の神様も聲なき声で何かを伝えてくださっている気がします。

何か新たな岩戸が開くといいなとも思っています。


【写真は耳成山検索画像より】