大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

大和三山 天香具山と不思議な話

2021-07-16 05:42:00 | 神仏について

先日のブログ、かぐや姫から川崎の月讀神社に行くことを思いつき、そこの狛犬の台座に書かれた文字、輝山から、「カグヤマ」が気になりました。


じつは、カグヤマは何度か気になり調べてました。1度目は初めて妹と熊さんの巡礼の旅に参加させてもらった時です。


その参拝は、最初から最後まで素晴らしかったです。説明すると長くなりますので、またの機会があれば。全ての参拝を終え、帰り私を最寄り駅まで送ってくれるというので辺りは暗くなっていましたが、熊さんの運転で後部座席でまったりしていました。


すると、星にしてはかなり大きくて、月にしては小さいそれは輝く光(星?)が三角形に夜空に見えたのです。他の星は見えないのにそれだけ見えました。妹も驚いてあれは何??と。熊さんも、信号で止まった時にみました。

あれは、いったい何だったのか。今でも解りません。前の光はなんなのか。これもわかりません。肉眼で見た時はこんな光は無かったですが、動く車からだから、電灯が前にあった?のか、星だけだった気がしますけれど。



妹撮影

後ろの星は夜空に輝く冬の大三角形?かもしれませんが、スマホのカメラでも撮れるくらいの大きさで、肉眼ではかなり大きく見えました。不思議だね、凄いね、感動だねと話しました。


不思議は続きます。帰ってから熊さんの携帯に、不思議な文字がどっからか入りました。妹にこれ何わかる?と熊さんがラインで尋ねたたようで、妹もわからず、妹経由で私にも尋ねられました。しかし、熊さんも、妹も、私も何のメッセージか解りません。かなり調べましたが、お手上げ。謎のままです。


それがこれです。




しかし、ずっとその後も私は気になっていました。額田王について漫画を読み返して、香具山だ!と思いました。香語山は籠山ともとれるし、しかも難しい漢字で聲网山と書かれています。


聲は、声、響き、音、誉れのこと、声を難しくした漢字。読みは「セイ、ショウ、コエ、コワ」。网は読みは、「モウ、ボウ、アミ」で、魚や動物をとるあみ。物にかぶせるあみのこと。

声を網で被せた山が、天香語山?ってこと?


籠山という山は、奈良の天川村の近くにもあるようですし、また、その時の参拝ルートに、京都の籠神社、眞名井神社も含まれていましたから、籠神社のカゴ、に関係あるのかなぁとかも話してましたが、でも解らずそのままです。


ところで、大和三山のひとつに天香久山があります。藤原京を囲むように、耳梨山と畝傍山と三角形の位置に並んでいます。


あの星は大和三山に関係あったのか?夜だし車窓からみた方角が奈良の方だったのかは、全く方向感覚のない私は解りませんが、ざっくり関西から三重に向かって車で走っていました。


先日、額田王について書きましたが、中大兄皇子は、

「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」


(訳:香久山は畝傍山が愛しいといって、耳成山と争った。神代の時代からこんなふうであるらしい。昔もそうだからこそ、今の世でも妻を争うらしい。)


という和歌を詠み、畝傍山を額田王とみたてて、香具山と耳成山を自分達兄弟として三角関係を詠んでいます。


万葉集にも沢山詠まれた香具山ですが、古代から「天」という尊称が付くほど大和三山のうち最も神聖視された山だそうです


『伊予国風土記』逸文には天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと記されています。

また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたとも記されています。


大和三山でひとつだけ、天がつく。天の香りが具わる山。天の香りの言霊の山。天の香りの久しい山。天の香具山、香語山、香久山の漢字からそんなふうに空想しました。


言霊が宿るといえば、万葉集ではカグヤマの音は、香山、香来山、高山、芳来山、芳山の表記もあるようです。


高い所にあり、芳しい香りの山、また、芳来山(カグヤマ)を音読みすればホウライ、蓬莱や、不死鳥の鳳凰が来る⇨鳳来さえその漢字からイメージできます。


香具山の山頂からは、畝傍山(うねびやま)を望めるみたいです。畝傍は、火がうねる火山だから名付けられたといわれています。畝傍山の麓にある橿原神宮は、明治時代に神武天皇の「御霊」を移したとされる場所のようですね。


大和三山は、サムハラの地にあり太古の神話が生きる場所です。


香具山の山頂には國常立命を祭神とする國常立神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高龗神様が祀られているようです。 

高龗も、タカオカミとも音読みではコウライとも読めます。コウライは、香来とも表記でき、すると、またカグとも読める!言葉が面白くループとなります!!!と、ひとり楽しむ私。笑


眷属神の龍神様が、神世7代の初めの尊い神様、国常立命と共にいらっしゃるのでしょうか。


かぐや姫から、月讀宮の狛犬の台座、輝山へ。そして、カグヤだけで、ずっと気になっていた天香語山へ。カグヤの響きだけで繋げた、全くなんのこっちゃの話ですカグヤマニアと笑って許して下さい。

ただ、熊さんの携帯に入った文字も謎解きたいし、なんだか、天香具山は凄いかも!!ということで参拝したくなりました。


月讀神社

2021-07-15 06:01:00 | 神社仏閣

かぐや姫といえば、月。私は数年前初めて伊勢の月夜見宮に言った時に妹に撮ってもらった写真を今でも大切にしています。伊勢には、月夜見宮と月讀宮、両方あります。どちらも雰囲氣がとても好き。

また、様々な漢字が当てられていますが、月讀は新月、月弓は三日月、月夜見は満月とか言われているみたいですね。


アマテラスオオミカミやスサノオ尊を祀る神社は数万も数十万もあるのにツキヨミ尊を祀った神社は全国でわずか八十社しかないとのこと。三貴神の中で圧倒的に少ないらしいです。しかし、調べてみると昔、妹と一緒に住んでいた川崎の麻生区にありました。


ホームページでも、川崎市麻生区の月讀神社は非常に珍しい・貴重な存在だと紹介されていました。


行くしかないと電車に乗って行ってきました。最寄駅柿生から25分くらい歩きます。ここの辺りは緩やかな坂道が続きます。梅雨の合間のかなりの炎天下の日でしたので、汗がしたたり落ちます。


スマホのグーグルマップを片手に人に聞きながら何とか辿りつきました。月讀宮。かぐや姫を思わせる暗い竹藪が参道には続きます。









鳥居をくぐると狛犬が、ひとつは輝山と書かれた石の上にいました。



月は暗闇でも山を照らし輝く、カグヤマ!?ん??あっかぐや姫だ!と結びつきました。

かぐや姫は、大山祇神の娘、木花咲耶姫がモデルとも言われています。また、木花咲耶姫は火の中でも無事出産したことから火の神様とも。火を噴く不死の山、富士山の御祭神です。


次に、もうひとつの狛犬は潤海と書かれた石の上にいました。



巡回、潤回、純海。月は海の水の干満を司り、水は汚いものまで純化して、潤いを与え巡り回る。なんだか、感動。

火と水もふたつの狛犬でさり気なく顕す。なるほどなぁと月の神様ありがとうございます!

お宮で1人だから祝詞を唱えてきました。

参拝後暑かったし、暫くすわっていると、近くの幼稚園が何か行事をやっているようで子供たちの声がきこえます。月読神が優しく園児を見守り続けているのかなと思いました。






お宮にはわたし以外誰もいなかったです。静寂の中、沢山の蚊が久しぶりにきた人を狙いうち?するかのように沢山さされました。


さて、こちらのお宮


御祭神 月讀尊

相殿   伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日孁貴尊、白山姫


とのことです。


なかなか駅からも離れて、竹藪の細い参道も結構暗く1人参拝は心細かったですが、誰もいない神社の静寂は貴重でした。家にいても、音は聞こえてきますから。目を瞑ると本当に心地よかったです。


さて、神社を後にして参道の竹藪を降りて行く途中にとても綺麗なアオスジアゲハがヒラヒラと見送ってくれました。


写真を撮らせて、とお願いするととまってくれました。




黒と水色。月と海をイメージさせる蝶に、暑くてクタクタ、真っ赤なゆでだこになりかけた私に、水をかけてくれるような美しい水色の蝶だと思いませんか?


母と話したくなりラインしました。そしたら、父の介護を手伝うため姉が帰省しているとのこと。妹もお風呂をいれたり、仕事の後は父の介護を沢山しています。


母が私の顔を見たいと言うので電話に切り替えて顔をみせると、ユデダコになった私の顔をみて、母も姉も大笑い。お笑いはお祓い!


姉が機転を利かせて父の姿もみせてくれました。


母が家を少し出た間に、父が骨折してしまい、入院します。ギリギリでいつも介護していた母でしたが、母が家で介護する限界を超えてしまいました。


老老介護という超高齢化社会で直面する問題。離れて暮らす私は、その電話の画面で寝たきりになった父の姿を見て、少し話しました。

コロナなせいで入院したら絶対面会謝絶。帰省しても会えない。


目からも汗がでてきました。。。



育ててくれてありがとう。



かぐや姫を検証する 2

2021-07-14 04:38:00 | 神話・物語・本から
昨日に続きます。
かぐや姫はなんと三か月で大人になり、この世のものとは思えない美しさを放つ娘に成長します。


時間の概念のない世界からの使者の成長を、このようにさらりと描いています。浦島太郎もそうですが、龍宮(蓬莱?)や月(黄泉の国?)は時間が地球とは違うのかもと作者はわかっていたのかもしれません。


かぐや姫が月を見て物思いにふけり泣いていたので老夫婦が尋ねると「自分は月の住人で帰らなければならない」と打ち明けます。


かぐや姫が老夫婦に月の世界のことを説明する言葉の中に、「あの都の人には物思いもない」ということも言っています。


感情(喜怒哀楽)というのは、地球人に与えられたもの。月の世界には無いのかもです。


確かに、老夫婦に「寂しい、帰りたくない」と言い、手紙や歌まで残しているかぐや姫ですが、月からのお迎えが来て天の羽衣を着せられたとたん、後ろを振り向かずさっと月へ帰ってしまうのです。

月の世界の羽衣は、地球人的な感情を消してしまいます。


月からの迎えの使者は、「かぐや姫は罪を作ったので、お前のような賤しいものの側にいたのだ。罪の期限は過ぎた。さあ早く出ていらっしゃい」と言います。 


月の世界では、地球は島流しのような刑の場所という事になります。私の好きな神仙ドラマ、崑崙山を舞台に描かれる十里桃花。




ドラマの神界では、地球は生老病死から逃れられない苦難場所で神々が行きたくない場所、流刑地か、試練に耐えれば神の力を増せる場所として描かれていました。


月からの迎えの人たちがかぐや姫に、「いざ、かぐや姫。穢き所に、いかでか久しくおはせむ」(さあ、かぐや姫。こんな汚い所にどうして長く居られることでしょう」と言って「かぐや姫」をせかせます。

「穢き所の物聞こしめしたれば、御心地悪しからむものぞ」(こんな汚い所の物を食べてさぞかしご気分が悪いことでしょう)などといって薬を持ってきたりもします。

月からみると地球ってそんな感じに見えてるんですね。


こういう視点を持って物語を描く文化人。帝の権力を笠にきる藤原氏に反感をもち、もしかしたら流罪になったお方か、その憂き目を背負った人の関係者が都を地球と見たてたのかもしれません。


こんな嫌なとこさっさと出ていきましょう、私たちは神様と共に月で生きましょうと描いたのかもしれない、とふと思いました。


月の輝きを魂の輝きと信じて、望月ばかりでは無く欠けることもあるけれど、時が全てを変化させるからと世の無常を悟っていた方が作者なのかもしれません。


ところで、伊勢の月読宮、月夜見宮は初めて参拝したときに深く印象に残る場所でした。月は海の干満に影響するし、水とも深い縁があり、また、月がなければ地球は存在できないのです。


だから、大海原を治める素戔嗚尊は月(黄泉)にも深く関係のある神様だと思います。


日本のかぐや姫の話は、日本と宇宙の神秘に繋がる凄いストーリーですね。勝手に空想して、日本昔話かぐや姫を検証してみました。


おわり


【画像は竹取物語絵巻物検索画像より】


かぐや姫を検証する 1

2021-07-13 05:13:00 | 神話・物語・本から

かぐや姫は、竹取物語をもとにして作られています。では、竹取物語はいつ書かれて作者は誰なのかは不明です。

実在の人物が、かぐや姫に求婚する5人の貴族のモデルであるようで、一番タチの悪い車持皇子のモデルは藤原不比等のようです。全てのモデルが飛鳥時代末期~奈良時代初期くらいの人物みたいです。


以前、蓬莱島について書いた時、車持皇子について、権力を笠に威張り散らす嫌な上司みたい、と悪口言ってしまいましたが、藤原不比等がモデルだなんて知りませんでした。


藤原不比等といえば、大化の改新を成し遂げた中臣鎌足(藤原鎌足)の息子で、藤原全盛期への基盤を作った方です。


藤原氏全盛期に宮仕えした紫式部の書いた源氏物語に、竹取物語の話しが出てきますから、竹取物語は源氏物語より前に書かれたということです。


源氏物語を読んだことない人でも、かぐや姫は読んだことあると思うと、これは、1000年以上読み継がれる物語だと思います。こんなに読まれ続けるのは、物語に神様の息吹がかかっているからだと思います。


では、この話を書いたのは誰なのか?都に詳しく、藤原氏などの権力者を知る人物であり、しかもかぐや姫というかなり霊的なお話、古代にSF短編小説を書ける文化人だと思います。


かぐや姫のどこが凄いか、色々あるんですが、やはり、竹や月というかなり神秘な自然を題材にしている点です。


まずは、竹について。


『かぐや姫』の昔話は、『竹取物語』が由来で、『今は昔、竹取の翁といふ者ありけり』という冒頭は知っている方も多いと思います。


実は、かぐや姫のモデルになったと思われる女性は、日本神話(古事記)に登場します。


その輝く美しさからいうと、富士山の御祭神、木花咲耶姫がモデルかもとも言われています。


草場 一壽さん、検索画像より

また、第十二代 仁天皇(紀元前69年生まれ)に嫁いだ女性の中に『迦具夜比売命』という人物がいます。『迦具夜比売命』は『かぐやひめのみこと』と読みます。

 

『迦具夜比売命』の父親は、『大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)』と言います。かぐや姫のお婆さんは、『竹野比売(たかのひめ)』です。

 

このお2人、お婆さんはそのまま『竹』の字が使われていますし、お父さんの『大筒木垂根王』の『大筒木』『垂根』いう部分も竹に関係あるようです。


竹は筒状の木で、竹の中には枝が垂れて地面に接地することで、根に変化する品種が存在し、この品種を『垂根』と言うそうです。


以前、福井を旅行した時、竹細工の店に(頼んでもないのに)連れていかれました。運転ガイドさんのオモテナシ。なかなか良かったですよ。感謝。




そこで、竹について色々教えてもらいました。竹藪って御神域といわれるところには結構あり、眞名井神社なんかは素敵でした。




竹の枝が垂れて根に変化する品種があるとは知りませんでしたが、竹は根で繋がるんです。だから、竹藪ができる。そして、60年とか、120年に一度一斉に花咲かせると、その後、竹藪は枯れるとききました。お役目を終了するかのように。


偶然その話を聞くまえ、ある方から貴重だから大切にと稲のような竹の花を乾燥したものをいただきました。ガイドさんの話と繋がり驚きました。


根っこで繋がる状の竹。笹には霊が宿りやすいとも言われており、竹を題材にした竹取物語の凄さがわかります。


津野山神界にも竹が沢山あります。竹は神聖な場所をお護りする木と思います。光る竹の筒に月の姫がいたことから、神聖な力を宿したり、通したりすのかもと思います。また、枝さえも垂根となり根っことなったり、根で繋がるのも、神話の「根の国」を感じさせます。


つづく


心の貧しき人

2021-07-12 05:34:00 | ひとりごと

幸いなるかな 心の貧しき人 天国はかれらのものである

幸いなるかな 柔和な人 かれらは地を嗣ぐであろう

幸いなるかな 泣く人 かれらはなぐさめを得るであろう

幸いなるかな 義に飢えかわく人 かれらは飽かされるであろう

幸いなるかな あわれみある人 かれらはあわれみを得るであろう

幸いなるかな 心の清い人 かれらは神をみまつるであろう

幸いなるかな 平和を求める人 かれらは神の子ととなえられるであろう

幸いなるかな 義のためにせめられる人 天国はかれらのものである

[山上の教訓]


これはキリスト教のとても有名なお言葉のようですね。





わたしは、クリスチャンではないのですが聖なる言葉はやっぱり宗教関係なく読んでみたくなります。


では、この有名な聖句の最初の心の貧しい人とはどういう人かな。最初から躓く私。なかなかひとつひとつの深い意味は難しいです。最初は翻訳の違い?とさえ思いました。


貧しい+心に関する有名な名言を紹介します。


奢るものは心常に貧し 『譚子化書(たんしかしょ)』


己が貧しければ、そこに描く富士も貧しい 

横山大観


人を不幸にするようなことで儲けても、醜い心、貧しい人になるだけです。  

金八先生


イエス様が最初に聖句で語った心の貧しき人と上に紹介した3つの貧しいは違いますね。


イエス様の語った「心の貧しき人」はどういうことなのかなと、ピンとくるのがなくてみていくと、苦悩に悶えながらも生きる姿を言葉にした太宰治さんの次の言葉に辿り着きました。


私には、誇るべき何もない。

学問もない。

才能もない。

肉体よごれて、心も貧しい

けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。

たったそれだけ。

(わら)一すじの自負である。

けれども、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。


イエス様は、多くの大丈夫な人でなく、今にも命を投げたいと深い苦悩のなかにある、太宰治さんのような溺れかけながら藁を掴みながら生きている人へ語りかけたのかなと、ふと思いました。自分は心が貧しいと思っている人に。


太宰治さんは苦悩の末に自分の命を投げました。


イエス様は、自分の命を守る、自分で命をなげたりしないで、あなたの苦しみは、無駄になりません。私はわかっていますからとまず最初に、一番辛そうな人々に語りかけたのかもしれません。


日本は、富める国です。しかし、その物質の豊かさはまるで幻想。闇は深く、自殺者の数の多さに驚きます。色んな方がそれだけ苦悩の海の中に生き、生きること自体に無力感や空虚感、孤独を感じている。苦しくて溺れてしまいそうな中、微かな細い藁を掴みながら生きている人が沢山いるということかもしれません。


涙の数だけ強くなれるよ。歌じゃないけど、たぶん、シンプルにそういうことかなと思います。命を守って欲しい。命を大切にしてほしい。投げ出さないでほしい。令和の令の字。0と令で命。命を投げ出す人が0、レイ、ゼロ、になったらいいな。そういう時代が令和ならいいな。


聖人の言葉の意図した言葉の解釈も、自分に優しく受け取り、心で納得すればいいと思いました。


どんな人にも内なる神様がいると思っています。命あればこそ、現象や幻想に惑わされないで、内なる神に出合いたいです。言葉の意味も、それを発した人の深い愛を感じて生きることができるといいなと思います。