

小さい子は空想好きで、奇想天外な発想をあたかも本当のことのように語るよね。お母さんも一緒だね、と笑って娘に言われました。
空想大好きワカメおばさんを母に持つ、娘の鋭い指摘ですが、今日も奇想天外な話になりそうです。昨日紹介しました太陽の核融合の絵を眺めながら感じたことです。
(懲りずにすみません😅)
左の二つの図からのイメージを膨らませます。
左下は造化三神。(独神)
易では、↓こんなイメージです。
二柱で有名なのは
イザナギ様(+)、イザナミ様(−)。
海に風を起こし、右回り左回り、渦をつくり水の循環をさせ気をまわします。
バランス良く真ん中で止まり、自然に至善となり、止まったときに、円となります。
すると、待ってました〜と、左下の造化三神が仲間にいれて、核融合が始まります。錬金術✨✨の始まりです!
そうして、核融合の末、三貴神が生まれます。
天照大御神(+)エネルギー
月読尊(−)中性子
素戔嗚尊(+−合わせ持つ)ヘリウム
真空(太極)の中にありました、太陽の核融合から、太陽のわけ御霊が生まれました。
ヒトは男女にわかれますが、身魂に全ての要素を分けていただいている気がします。
なので、またリピートして良いエネルギーを作ることが期待されているのかもです。
左下↓の造化を担う神々が陰陽両方併せ持つヒト(左上)を、地上に生み出し、また仲間にいれて、核融合をしたいなぁ、和したいなぁ、、と期待されて人々はやっと地上に生まれることが許されるのです。
しかし、なかなか、人心は+−のバランスを崩しやすい、中庸を保てない、円霊にならないので、核融合(中道)に至り難いのです。😩
しかし、坐をし、良い教えを学び実践し、心を静め陰陽に偏りがなくなると、
神々(左下)↑は、中和した円霊を持つ身魂(左上)↑をサポートし少しずつ、核融合がはじまります。
その人は、陰ながら神々のお役にたつことをコツコツとやり、天命、使命を果たし始めます。
決して偉そうに誇ったり、神様みたいに振る舞ってお金をとったりしない方だと思います。胸に輝く金に光るものがあるので、俗世の欲はなくなります。
荒削りのようであり純朴な素直なヒトが、神々のお側でお役にたつに従い、そのヒトの胸の奥宮では核融合を加速しどんどん輝きます。✨✨
核融合の図には5つ○があります。5という数字は、易でも、真ん中を表す数霊です。
陰陽5行の5でもあります。木火土金水も5つ星⭐️。
そして、胸に3千年に一度に開く梅の花が一斉にバランス良く咲きほこると、光明を放ち始めます。
木火土金水には、日と月が無いのですが、核融合したら、日と月が真ん中で明るく輝きはじめます。🌞🌝
梅の真ん中も、まるで3千年に一度しか開かない優曇華のイメージです。
核融合が身体の中で起きたら、太陽のような不滅のエネルギー(+)と、月のような穏やかに照らすエネルギー(−)と、行動の星で頑張る素戔嗚尊の(+−)エネルギーが身体に生まれます。ヒトの個性はこのエネルギーバランスで様々なのかもです
輪廻転生の終わりです。
輪廻の苦海から人々を救うため、老子様や、イエス様や、お釈迦様のような聖人は天から舞い降りて教えを残されました。学びは尽きません。
神話も、人々の生長を応援しているストーリーなのかもです。心に太陽を。胸には梅の花を。
自身を神々の道具のようにして生きておられる方を知っています。核融合を果たされた御方なんだなぁと尊敬しています。そういう方から教えを賜り真似たいと思います。
【画像は全てお借りしています】
昨日は木と気について書きました。気という漢字に似た漢字に、氣や气があります。
よく使う「気」の漢字の中にはメという部分があるので、十の交わり、和を思います。まずは天地や、縦糸と横糸を織りなして和して、四方へ結ぶのが気のイメージです。
次に「氣」は生命力のほとばしるような八方へ放射線状に拡がるイメージがあります。
メと十が和して、米になります。日本人の主食の米が、氣の漢字にはあります。お米には一粒に7人の神様が宿るからお茶碗に残さないようにいただきなさいと小さい頃から言われました。
だ液と一緒にしてカムことで、自分の中のカミをかけ✖️合わせ➕、7人の神様を8にして、八方に神が放射状に広がるイメージを米から感じます。☸️
お酒、発酵食品、米の潜在能力は末広がりです。八。
氣は、心が穏やかに平たく静かに充満して輪を回しながら🌀浸透するイメージです。
また、「き」の漢字には「气」もあるようです。
これは、何も混じり気のない真空のようなエネルギーのイメージがします。
メも米も何もない气は、気→氣の大元、元主始まりのような、全てに浸透して全てを統合し、始まりではあるものの終わりのない限りない🔁♾️♋️、不滅のイメージです。
その真空の宇宙の中で、不滅の熱と光を何十億年も放ち続けているのが太陽です。🔆
ところで、その太陽ですが、何故、真空の酸素が無い宇宙で燃えているのか?と疑問に思ったことがありました。
実は太陽は燃えている物体のように見えますが、燃えているのではなく、核融合反応により熱と輝きと光を放っている「気体」のようです。
太陽の大部分は水素で、太陽の中心核はアトムと呼ばれています。
核の言葉からは、核兵器やら、原子力エネルギーを想像してしまいますが、
太陽と原子力エネルギーの決定的な違いは、太陽は、核の融合によって不滅で無限の熱と光のエネルギーを遍く人々に与え、原子力エネルギーや核兵器は、核の分裂によりエネルギーを作り出している点です。
中心核(アトム)を融和させず、分裂させてしまうと、核のエネルギーは不滅から、破滅の脅威に変わるのですね。
アトムは始まりの音アと、終わりの音ンに似たム。ア+ム(ン)
その中心核の融合により、数十億年もエネルギーを母なる大地、地球に与えてくれているのが太陽です。
一方で、ヒトが生み出した核兵器は、中心の核を分裂させることによって、母なる地球をボタンひとつで破滅させ、全人類を一瞬でムにして、終わらせる(ン)可能性があります。
中心核を融合させるか分裂させるかで不滅のエネルギーになるか、破滅の可能性のあるエネルギーになるかの違い。。
ヒトは愚かな物を生み出しました。
気が確かでないヒトが核のボタンを手にしないとも限らない状況下で、どうやって地球を守るのか、、、。
太陽のアトム、核は、真ん中にあり、偏りません。周りを融合してエネルギーを大にし遍く広く与えます。
分裂ではなく、融合。中心から和を広げていく。人も胸に太陽のカケラをしっかりと抱き、和すれば、地球を守れると思います。
なぜなら、太陽系に生きる全ての生き物は太陽、天照大御神様のわけ御霊をいただき生かされているから。
何事も無いように、破滅的な人災が起こらないように分裂から融和へ平和へと世界が向かいますように。
自分にできることは小さいけれど、
まずは自分の中心の気から整えて
地球の一部として、
地球の、世界の平和を祈ります。
心の奥に太陽を。
不滅で
全てに浸透して全てを統合するような
大元の愛を胸の真ん中に
みんなが心に太陽を共通して持っていることを思い出して、仲良く輪になって
繋がる時代が来ると信じます。
風の時代が来たとか言われていますが、風の時代って何だろうと思います。
軽いそよ風なんかをイメージするだけではなく、風からは色んなイメージが浮かびます。海風、山風、つむじ風、台風。自分に吹く風も、向かい風、追い風もあります。自分の気を、揺るぎないものにしないと、周りの景色により自分がピューと飛ばされてしまいそうな時もあり、やっと立っていたときもありました。
木は、気と同じ響きがあります。木は天に向かって立ち、天に向かって伸びようとします。
二足歩行をして真っ直ぐ天に向かって立つのはヒトだけです。
木が森の中でザワザワするときは必ず風が吹いていて、人もザワザワ胸がする時、気が騒ぐとか、気がきでないとか、気が落ち着かないとか言います。
森の中で木々の間を吹く風は心地よかったりもしますが、時に強い風は木々をなぎ倒したりします。私たちが持つ「気」も、荒れると自らを倒してしまうかもしれません。
人間の引き起こす自然破壊は地球にダメージを与えていると言われます。例えば、山火事には、自然発火によるものが一定数あるようです。
自然に火が発生するのは自浄作用なのか、自然の脅威に驚きます。
落雷が自然発火の主要な原因のようですが、非常に稀なケースに、強風による乾燥した樹木の幹同士の摩擦による発火も報告されているようです。乾燥と熱波の影響が燃焼を促進させたりします。
ヒトも、自らの「気」を荒れ狂わせてしまうことがあります。怒りや嫉妬なんかは最たるもの。また、自己否定も自分を痛めつけ気を乱す気がします。
本当の自分は、やめてくれ〜と叫んでいるのに、気が心に荒い風を起こし、身体のあらゆる所で摩擦をおこし、着火すると病を引き起こし、ジブン(地球の一部分)を焼き尽くす可能性がある気がします。
気が潤い(水)に充された状態ではなく、乾き乱れた状態になると、気がザワザワ騒ぎ、心の風が強まり、次第に荒れ狂い、気がおかしくなり、ひどい場合は、落雷が落ちたかのように発火して破滅的な状態になったり、自らを焼き尽くすような恐ろしい状態も有り得るのではないかと、、、考えます。
気の病は、本当に悲しいですから、そうならないように、行きすぎた喜怒哀楽から自分の気を大切に守りたいです。特に辛い時さえ、自分の「気」持ちを傷つけ過ぎない。
気は、自分を活かしもすれば、破滅的な状態も生み出す可能があると肝に銘じます。木を表す肝臓は5行では風と関係が深いようです。
肝臓は物言わぬ臓器。木官神は肝臓の神様で、忍耐強く人の生み出す気に耐えながら黙々とお働きになってくださっているのではないかなぁと思います。
風の時代、その神様を責任を持ってお守りするのは、身体の器を託されたその人自身にかかっていると思います。
気をつけてね、気を確かにもってね、気が優しい、気もち良い、気が○○、、良い意味でも気は使われるのですが、
気がかわる、から始まり、病は気から、薄気味悪い、気持ち悪い、気がない、気が気でない、気が変、気が乱れる、気が××、、色んな気に関する表現を、日常に言葉として使っています。
全て気の持ちよう。
気は、見えないけれど穏やかで静かな状態で有りたいなと思います。良い気は、無風で、あることを気づかせない感じではないかと思ったりします。
気を大切にする、ざわざわした日常を一旦リセットするように、無風な状態を大切にすることを、ただ静かに少しの時間日々坐を続けることで行います。
自然の木に学び、自らの気を大切にすることを、木の神様の宿る肝に銘じたいなと思います。😌
道徳経の恩師が童心説を紹介してくださいました。そのまま引用します。
「童心とは仮を根絶して純化したものである。…....もし童心を失うと、真の心を失う。真の心を失うと真の人ではなくなる」と、定義する。
「仮」とは、借り物・ニセ・エセの意で、もちろんホンモノ・真実を意味する「真」の対概念である。「査心」がなくなればホンモノの心が失われて、借り物・ニセの人ができあがる、というわけである。
それなら、その「童心」、「真」の心はなぜ失われるのか、といえば「見聞」、「道理」が外から入ってきて、圧倒してしまうからである。
その「道理・見聞は、読書を多くし義理を識るところから来る」のであって、いまの「学者」は、「読書を多くし義理を識る」ことで「童心」を得げて、外来の「見聞」「道理」がその心になってしまっている。
かくて、「発言はすべて見聞・道理の言うところであって、童心が自ら発する言ではない。
それがいかに巧みであっても、自分のものではない」
ここまで。。
滅茶苦茶反省します。本を読むこと自体は素晴らしいことだとは思います。ですが、その事により知識を増やし色んな見聞をあたかも偉そうにたくさんこのブログで長々と披露してきました。 😩
全くもって、反省の限りです。😓
ワカメオバかさんの趣味だと思って許してください。また、懲りずにやってしまぅかも。😅
ところで、童心説に戻ります。
学校の中で、童心を無くす教育をしている可能性がある気がしています。余白のない感じ。
童心🟰道心、言霊の響きが同じです。
道の心。
赤ちゃんのつぶらな瞳、柔らかさ、幼児の無邪気さ、純粋さ。。子供達の笑顔。それは真っ白。
大人になるまで真っ白な部分をどこまで保持できるのか、ワクワクしたら、あれこれ考える隙なくすぐに動いたり、道の心は童の心に回帰するような一面もあるのかもです。
学校の枠の中で、童心を失いたくないと抵抗する子の中に不登校の子たちがいるのではないかと思ったりします。不登校の子たちの中に、物凄く精神性の高い子や本来持つ独自の輝きが強い子がいるのではないかなとも感じています。
その子は、自分の大切なものをもしかしたら一生懸命に守っているのかも。今の学校の求めてくる枠が窮屈故に、おさまらない自由さや大人になると無くしがちな真っ白な繊細さを持っている可能性も感じます。
末娘が幼稚園から仲良くしていた友達に物凄く絵が上手な子がいます。学校が離れて、その後、不登校になったと聞きました。毎年、年賀状に物凄く上手な手書きの絵を描いてきてくれます。
何でも良いから、自分を肯定していたらいいなと思います。
学力で振り分けられる受験シーズンが始まりますね。悲喜交々、喜ぶ子がいれば、そうでない子もいる。
受験に戦争がつくあたりから、嫌な響きだなぁと感じます。
しかし、長い人生一度や二度、三度、誰しもが殆ど経験します。
勝った子には頑張ったね、おめでとう!と言いたいし、頑張ったにも関わらず涙した子にもエールを送りたい。
涙は必ず優しさの糧になるし、振り返るとそういう経験の方が自分を高め深めてくれていることもありますから。
勝つ人は負ける人の気持ちがわからないもの。どちらが良いかなんて、誰が言えるのか。
どのような進路🟰路に進んでも、未知の路が道へと繋がれば良いし、また、何処に進もうと、子供達が大人になるにつれ、本来の輝き、童心を失わないといいなと思います。
踏みとどまっている子も、自分を肯定してジャンプするためのエネルギーを溜めているだけかもしれません。
ゆっくりと時間の流れを忍耐を持って待つ事が必要な時もあります。充分待つ側も同じく自らを深め高めている気がしています😌誰しも自分を肯定して上げてほしいな。
子供たちの進む、歩む路に、幸多かれ。