大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

道士呂祖の逸話

2023-06-21 07:14:00 | 神仏について
昨日の続きです

内経図は、北京、白雲観所蔵のようで、白雲観とは、道教の二大教派の一つである全真教の本山(根本道場)のようです。

全真教の教理は、儒教の信奉者から道教に改宗した唐代の道士呂洞賓(呂祖)の説、内丹的道教思想に淵源を見ることができるとありました。そこで、呂祖様の逸話をご紹介します。


何故、呂洞賓にピンときたかはWikipediaに、鍾離権の師である東華帝君の生まれ変わりである、という記述があったからです。

東華帝君は、私の好きな神仙物のドラマ十里桃花に出てきます。石から生まれたとか言われており、ドラマの中でも別格な存在でした。

呂祖様の逸話も、超人的で、凡人の域は超えていました。まさに、神。十の試練を見事合格されるんです。


呂洞賓が鍾離権から受けた十の試練は以下のようなものである。

第一試

ある日、洞賓が外出し戻ってくると、家族全員が病死していた。彼は嘆くことなく淡々と葬儀の準備をした。しばらくすると、死者はみな生き返ったが、呂洞賓は全く怪しまなかった。

第二試

ある日、洞賓が市へ物を売りに行き、その値段を決めたが、相手が前言撤回し、値段の半分しか払わなかった。しかし、洞賓は何も言わなかった。

第三試

洞賓が元日に門を出ようとしたところ、乞食が施しを求めてきたので、洞賓は物を与えた。しかし、乞食はさらに物を要求し、その上罵りだした。しかし、洞賓はただ笑って謝るのみであった。

第四試

洞賓が山中で羊を放牧していると、一匹の飢えた虎が羊の群れを追いかけてきた。洞賓は羊を下山させ、身をもって虎の前に立ちふさがると、虎は去っていった。

第五試

洞賓が山中の道舎で読書をしていると、突然、178歳の絶世の美女がやってきた。母の元から帰るところなのだが、日が暮れてしまったので、休ませて欲しいという。夜になると、女性は何度も誘惑したが、洞賓は最後まで心を動かさなかった。女性は三日経った後、去っていった。

第六試

ある日、洞賓が外出し戻ってくると、家の財産が全て盗まれていた。しかし洞賓は怒りの色も見せず、自ら耕し始めた。すると、鋤に何か当たるものがある。掘り起こしてみると、数十の金錠(貨幣となる金塊)であった。しかし、洞賓はそれを土に埋め、一つも取らなかった。

第七試

ある日、洞賓は街で銅器を買って帰ったが、見るとそれは全て金でできていた。ただちに銅器の売り主を探し、これを返した。

第八試

気の狂った道士があぜ道で薬を売っており、「この薬を飲んだ者はたちどころに死に、再び生き返って得道できる」と言っていたが、10日経っても買う者はいなかった。洞賓がこれを買うと、道士が「速やかに死後に備えるがよい」と言った。洞賓はこの薬を飲んでみたが、何も起らなかった。

第九試

洞賓は大勢の人々と共に河を渡っていた。しかし中流に至ると河が氾濫し、風が激しく吹き荒れ、荒波がどっと押し寄せた。人々はみな恐れおののいたが、洞賓は端坐し動かなかった。

第十試

洞賓がひとり部屋で座っていると、突然奇妙な化け物が無数現れ、洞賓に襲いかかり殺そうとした。しかし洞賓は正座したままで、少しも恐れることがなかった。次に数十もの夜叉が襲いかかってきた。また、血をしたたらせた死刑囚が泣きながら「お前は前世で私を殺した。今、私の命を償ってくれ」と訴える。洞賓は「人を殺したのなら、償うのが理だ」と言い、刀を取り自殺しようとした。

すると突然、空中に大声が響き渡ったかと思うと、鬼神達はみな姿を消した。ただ一人、手を叩いて大笑いする者がいる。見ると、それは鍾離権であった。「あなたを10回試してみたが、心が堅く何事にも動じない。きっと仙人となることができるだろう」と言い、彼は呂洞賓を弟子とした。


鍾離権   

以上。


もはや、人では無い領域の御方ですね。


内経図の教理の根本は、王重陽の作のようですが、その中で説かれている内容は、道教のみではなく、仏教とりわけ禅宗の影響が色濃く見受けられる、とありました。


タオ(道)の教えといえば、老子ですが。坐禅で有名な達磨仏が内経図には描かれていますし、王重陽は、盛んに儒教、仏教、道教の「三教一致」を融合すべく、全真教とした、つまり、全ての底流の真理を融合しようとするものだったのです。


また修煉については、自分自身の修行である真功と人々の救済を行う真行の、功と行を二つながら全くする「功行両全」を主張し、自己救済の修行だけでなく他者の救済も実践しなくてはならないとした。


とありました。


内経図

2023-06-20 06:31:00 | 神仏について

内経図(だいけいず)は、内丹術の修煉過程を象徴的身体として表現した図です。妹が見つけて教えてくれました。今日から、この図について書いてみたいと思います。


今日はWikipediaの解説をそのまま転載します。


内丹術の修煉を補助するために作られたと考えられるこの図は、一見して、山のように見えるが人体のようにも見えるものであり、複合した図像は大小宇宙の織り重なった「生命」という、天地自然の複合した要素から成り立っている存在を象徴している。


北京白雲観所蔵のこの図の、上部には仙山の峰々が描かれ、山中から水が麓へ流れ落ちる構図は、坐する身体の側面図でもある。


頭にある九峰山は脳であり、 「上丹田 は両眼の間、つまり眉間の後方にある。 「中丹田」 は心臓近くに、 「下丹田」 は臍の下に位置する。


下部には、生命の海から「」を汲み上げるために足を踏んで水車を回している童男と童女のペアの姿を描いている。そのすぐ右隣には「坎水逆流」と書かれた(かなえ)があって、


脊柱に沿った経絡督脈を気が下から上へ逆流すること(回光逆法)を意味している。


その少し上には、牛を使って田(丹田)を耕している。「鐡牛畊地種金銭(鉄の牛が地を耕し黄金の銭を得る)」と書かれ、何事にも動ぜずに丹田で気を煉り育てる象徴として描かれている。その右にある4つの太極図は、ここが下丹田(正丹田)であることを象徴している。


中部には、童男が渦巻き(中丹田の象徴)の上に立ち、北斗七星を手にして遊び、その下には童女が糸車を回して機(はた)を織っている図が描かれている。この2人には牛郎橋星、織女運転と記されており、七夕伝説の牽牛(=彦星)と織女(=織姫星)であることが分かり、織女に織られた布が上に伸びて、督脈を天の「銀河」になぞらえていることを示している。


上部との境には、十二重の塔が描かれており、「十二樓臺藏秘訣(じゅうにろうたいぞうひけつ)」と書かれ、喉が後天の気(食物など)を取り入れる入り口を意味している。


頭部の2つの丸は両を表すと同時に太陽を象徴している。顔の部分の帯状のものは、上側が督脈、下側が任脈を表し、任脈は四角い池の橋に入っている。この池から気は下の中丹田へと流れ行き、生命の循環を象徴している。


その下には両手を上げ天を支えている僧が立っている。「碧眼胡僧手托天」と書かれた碧眼の胡僧とは禅宗の開祖とされる達磨大師である。


その上には、老翁が腕組みをして座っている。「白頭老子眉垂地」と書かれており、白髪で眉が地面に垂れている老子が、上丹田結跏趺坐して深く坐忘(静功)に入っている。この達磨と老子は、儒家を含めた三教の融合した思想を表している。


その背後には、時空を超越した険しい九峯山がそびえ、真中に、昇陽府(太陽が昇るところ)と泥丸宮[3]がある。「一粒粟中蔵世界」と書かれ、修煉を究めることで「(タオ)」と本来の自己[2]が合一した還虚の境地を表現している。


Wikipediaより。


七夕の織姫や彦星がいたり、達磨や老子がいたり、またまた、十牛図を思い出したり、背中が🐉龍みたいにみえたり、色々(勝手に、😅)この図は気になるので、何回かに分けてまた書いてみようと思います。




扶桑と9つの太陽 中国の神話より

2023-06-19 07:51:00 | 神仏について

昨日の続きです


ひふみ神示 23 海の巻 第十一帖のなかにある扶桑についてです。

扶桑は中国東方の日の出るところ、東方の果てにある海中の大樹のようです。巨木の生えている土地は扶桑国と呼ばれ、扶桑国は、中国においての日本の異称となりました。

その樹の高さは数千丈とも三百里とも言われ、そして、枝には九つの太陽が住むとされ、扶桑国が太陽信仰の聖地であるようです。

そこで、九つの太陽に纏わる話しで、中国古代のの人々が信じた十日神話を紹介します。


中国の五帝の一人に数えられる帝俊(しゅん)(黄帝)には、羲和(ぎわ)という妻がいて彼女は懐妊して太陽である子供を  10人産みます。

帝俊は、10名の子供に、甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊、(ぼ)己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、発(はつ)という名前をつけました。

 

10人の太陽は母の羲和の指導の元、六匹の龍が引っ張る車に乗って、順番に天空を移動して世界を照らすようになります。

実際に天空に輝くのは一つだけで、それ以外の9個は、扶桑という巨木に引っ掛けられ、自分の順番を待っていました。

しかし、同じ事を何万年も繰り返す間に  10人は飽きてしまいます。

そこで、10人一斉に天空に輝こうと言いだし、堯(ぎょう)帝の時代に天には10個の太陽が出現するようになりました。

 10個の太陽が地上を四六時中照らすので大地は乾き、作物は全滅、地下からは魔物も出現して人間を喰い殺すという悲惨な状態が起きてしまいます。

堯帝は困ってしまい、天界にいる黄帝に何とかして下さいとお願いします。

黄帝は、自分の息子達がしでかした事でもあるので、責任を感じ、天界から弓の名手である羿(げい)を派遣します。

 羿は最初、事態を穏便に治めようと10の太陽に対して、矢を向けて脅しますが、  10の太陽は生意気な性格だったのか、少しも動揺せず相変わらず天に輝き続けます。

羿は、やむをえないとばかりに、10の太陽に向けて矢を放ちます。太陽達は悲鳴をあげながら地上に落ちてきました。

みると、落ちた太陽は三本足の烏の姿をしていたそうです。

 堯帝は、全ての太陽を落されては世界が暗黒になると心配し羿の矢倉から矢を一本抜いていたので、太陽は一個だけ天に残る事になります。

 さらに羿は、堯帝の命令で、地下からわき出した魔物を矢で次々と射殺していきます。

それにより、地獄と化した世界は平和を取り戻したのです。


以上


八咫烏がでてきたり、扶桑の木が出ています。扶桑の木は、順番をまつ9つの太陽が引っ掛けられている木。

9つの太陽からは、九曜紋を思い浮かべます。大本教のマークでもあり、



また、インドに起源をもつ妙見信仰に由来するマークだそうです。



また、太陽と周りには太陽を巡る惑星は9つです。太陽信仰は日本の天照大御神を思わせます。




ところで、妙見菩薩は、北辰尊星王、真武神ともよばれ、神社系妙見社では仏教系の妙見菩薩ではなく、天御中主命、国常立尊を主祭神ともされており、また、道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされます。 日本における天皇という称号の起源の有力な候補の一つと考えられているみたいですね。


仏教思想が流入してからは、「妙見菩薩」と称するようになったようです。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということのようです。







京都の地名縁起と鶴と亀

2023-06-18 08:06:00 | 神仏について

 ひふみ神示 23 海の巻 第十一帖のなかに、


「だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが、タンバはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ、世界の事ぞ、タンバとはタンバイチとは世界の中心と云ふ事ぞ、日の本と云ふ事ぞ、キミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。」


だました岩戸とは、周りが鶏を鳴かせ、天照大御神は岩戸から出るものの自発的に岩戸を開いたのではない、ということかなと思います。


日本は、太陽の昇る日の本の国、扶桑の国。

タンバは、丹波とも、ニワとも読めます。田庭と記されていますので調べてみると記紀その他の古書には丹波・旦波・但波・丹婆・谿羽などの文字が当てられているが、「諸国名義考」には「田庭なるべし」とあり、かつて豊受大神宮(外宮)が丹波国真奈井にあり、皇大神宮(内宮)の御食事の稲🌾を作っていた広く平らな場所の意味だとありました。

また、「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代神仙思想が育んできた幻想で、海東のかなたには、亀の背🐢に乗った「壺型の蓬莱山」が浮び、海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえ

古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬を募らせてきたともありました。


扶桑国の描写の中に「暘谷」というものがあるようです。暘は湯とも書かれ、山海経の注には「湯は熱水なり」「湯谷は谷中の水熱きなり」とあるようです。


また、「太陽が昇ると扶桑山上の玉鶏が鳴き、玉鶏が鳴くと金鶏、石鶏と鳴き、石鶏が鳴くと天下の鶏が鳴く(神異経)」ともあり、

扶桑から、米、亀、日の出や、鶏。「にわ」、暘谷、などのキーワードが結びつきます。


ところで、「にわ」とも読める丹波国(たんばのくに)は、現在の京都府、兵庫県(および大阪府の一部)で、丹波郡(たにはぐん / たんばぐん)中部。 京都の古称で、京都丹波とも呼ぶ。中丹のうち舞鶴市を除いた区域と南丹からなるとありました。


また、丹波国一宮は桑田郡にあり、出雲大神宮があります。

出雲大神宮(亀岡市千歳町千歳)、出雲神社(亀岡市本梅町井手)の論社二社は亀岡千歳町にあり、🐢や千歳(長寿)に、不老不死の地名縁起を感じます。

桑田の桑は養蚕やら、機織り、七夕の織姫を思わせ、田は米を。また、本梅町の梅は、三千世界に咲く梅の花を思わせる地名縁起です。

三千世界に咲く梅の花、出口なおさんに懸かったのは国土の神、国常立神でした。大本教は京都の部や亀岡に本部や支部があり、綾は機織りを思わせます。


丹波の南丹にはと関係がある地名があり、そこには、出雲大神宮があり、また、

京都の中丹地域北には舞鶴があり、天橋立があります。天橋立近くには、籠神社があり、奧宮は御神水で有名な真名井神社です。天と地を繋ぐ橋が天橋立。


人の身体には上丹、中丹、下丹と、主要な丹田があるようです。その中丹は、気が交わる丹田だとも言われます。下丹の陰部あたりには水の要素があり、扶桑国暘谷のように、温まるのが理想なのかも。太陽が無理矢理ではなく自然と温まった水から天橋立のような脈を上昇するイメージが体内にもある気がしています。鶏を鳴かせて太陽を出すのではなく、太陽が出て自然の摂理で鶏が鳴くのかな。自然に、無為に。


地名縁起と、亀(陰)と鶴(陽)から、空想ですが、陰陽☯️併せもつ人が、丹を練って米を耕すように、身体の中でも、気を純化させ、地と天と人の交わりをする。

日本という龍体の国は国土全体で様々な磁場で地球エネルギーの純化をさせようとしているのかも。日本は最初に日の昇る国だから、🇯🇵、天と地の間で身体全体を神の器として気を巡らせ、自然の静かな平らな気を養う大切さを多くの人が感じ善をなす人が増えるのを期待されている気がします。

日本に住まう人はもしかして地球の気を巡りへ大きな影響と役割を果たす責務があるのではないかと京都の地名から感じました。



他責にしない

2023-06-17 09:47:00 | 神話・物語・本から

神話では、天の下に積もったものをスサノオ神の罪にして描かれた所があります。


天に起こることは地におこるのかな。


スサノオ神は、地上で八岐大蛇を退治します。八岐大蛇とは、様々な自然災害かなと思っています。

人身供養をもって、太古は若い娘を生贄に自然災害を食い止めるよう祈っていたのかもしれません。


自然災害は、自ら一人一人が悪い気を生み出している事とまるで関係ないかのように、八岐大蛇に姿を変えた化け物に描き、人はオロオロとし自分を省みることなく、他責にし、ヒーローが現れ助けて貰うのをまちます。


日本の国土は海に浮かぶ龍体のようです。龍が八尋から八岐に自然災害を産みだすことを悪とみなしたものが八岐大蛇とよばれたのかなと思います。


日の元の国の国土の神、国常立神は、巨大な龍神としての御はたらきをなしているときいたことがあります。人から見ると悪とみえるような大災害でさえ、宇宙の中の地球の運行にはやむを得ない事で、無慈悲にみえますが淡々と起こってしまうため、国常立大神は、艮の金神や祟り神と呼ばれているのかなとも思います。


大災害は、天地人として天と地を繋ぐはずの役目を放棄した大多数の人が実は作り、その重くのしかかる刧の蓄積を龍体、身体、大地全身で受け止めて、実は、耐えているのが国常立大神ではないかと感じます。

縄文時代は、アマツチの運行と人の内にある働きは繋がり、故にその運行に龍神のお働きを感じ、祀ったのかもしれません。


しかし、龍神を祀る人を鬼と呼んだり歴史から抹殺します。隠された神々はそうして闇に葬られ、人は自らの内にある大切なものに気づかないようになったのかもしれません。


そうして自分の外にばかり目を向けて、善悪を自分の都合で解釈し、その因果が自分にあるとは思いもよらず、悪い事が起こると他責したり、罪を擦りつけ、または、悪神の祟りなんて言ってしまったのかなぁと思います。


荒ぶる神、祓の神は、災害を未然に消そうとしている神のようでもあります。災害は、国土にニョキニョキ現れた人の想念や気が綺麗に流れなくなり、詰まり溜まり出現した全体責任の結果かなと思います。


故に、荒ぶる神、スサノオ神は、邪が強くなれば破壊し、岩戸を閉めるしかなく、岩戸を閉めることで陰が極まり、自然の運行の中で陽転し、創造が始まる機運を待つ神の象徴のようにも感じます。


災害を未然に防ぐには、人が全体意識を重くしない、ヒト一人一人が自らの「気」を純化させ地球に負担をかけないことが大切かなとも思います。


気の純化には坐して、静を雑多な生活の中にあっても、静の時間を継続して入れることが良い気がしています。


昨日の話の続きになりますが、妙見菩薩は、神仏習合や陰陽道の中で、鎮宅霊符(チンタクレイフ)神とありました。


鎮宅霊符は、「家内の安全を保つこと、また、そのために行われる祈禳の総称。 安宅ともいう。 人間が住む家屋及びその下の地域、土地などには様々な鬼神が満ちている。 それらが人間の行う不適切な行動によって穢れる」とあります。


私は、これを読んで、鎮宅の宅は、人間が住まう外の家屋のことではなくて、「自分という身魂の器」のことだだなぁ、と思いました。


自分をおさめなさい、自分の中にいるさまざまな穢れに気づき、鎮めなさい、静めなさい。自らを常に省みて、起こる出来事に対する負の感情を他責にせず、自ら鎮めなさい、静心しなさい。と言われているように感じました。


目に映る現象により、掻き乱されて重くなるその感情は、本当のあなたではない、

自分の中の悪蛇(邪)を見抜きなさい、

地球に負荷をかけるな、

と言われているようにも感じました。


自らの器を先ずは綺麗にして、そうする事は、ひいては、様々な悪因を断つことなんですよ、自然にも良いんですよ。

と言われているようにも感じています。