陽だまりのねごと

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「死の医学」への日記    柳田邦男

2006-09-04 06:35:12 | 
「死の医学」への日記

新潮社

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幾人かのガン死がつづられているページをめくりながら、
夫が逝った頃の秋の風が窓から流れ込むのを感じて
休日の午後を過ごした。

図書館で借りたこの本にはあちこちに鉛筆でラインが引かれていた。
引いた人はガン死の不安の中にあった人なのか、
あるいは
私のように見送った人なのか。

死を前にした人の言葉はどれも重い。
誰にも死はやってくるが、
壮年期の人生半ばで終わりを知って過ごす人が
残した言葉は
これから死をいつか迎える者にとって示唆に富んでいた。

ガンの再発後の医師の説明は確かだったのか。
夫はためらう事なく
効果については薄いと言われながらも
副作用のきつい治療を受けた。

何日も点滴に1日中繋がれて、
食欲は落ち毛髪はあっと言う間にばさばさ抜け落ちた。
只でも弱った体を消耗させた。

大腿骨に転移していたから歩行もまま成らない状態でも
治療がなくなったら私は家に連れ帰りたかった。

入院前の様に布団で寝起きは出来そうもなかった。
トイレも風呂も手すりひとつない。
介護保険が今年から40歳以上の末期ガン患者に適応となったが、
当事、相談ひとつするところなく
福祉用品行業者に自分から電話をかけた。
もちろん丸々実費購入になる。

これから先の収入の道も不安で学費の要るふたり子供も居た。
夫は自分のための出費をこばんだ。
高い福祉用具は最低限の出費で創意と工夫で乗り切る覚悟で
連れ帰った。

自宅生活はたった20日あまり。
しかも
決して体調が万全ではなかった。
全身に発疹がでた。
黄疸がでた。
ついに何も食べられなくなった。

最後は家で看取りたかったが、
医療から隔絶した場所は不安と夫から入院を望んだ。
症状が悪くなる度に長い時間待合室で待たされての受診も
もう無理だった。

再入院で家を出る時、
自分の働きで、家族と一緒に過ごすために建てた家を振り返って
「もう帰って来ることはないね。」
と、夫はつぶやいた

本に肝臓ガンの進行状態が書かれていたが、
夫はその通りの諸症状が次から次に出た。
発疹は皮膚科でオイラックスが出るだけ。
医師からの説明は本人にも私にもなかった。

ガンの疼痛にMSコンチンと言うモルヒネの錠剤が出ていたが
充分ではなかった。
1996年に発行されたこの本には
MSコンチンが
在宅が可能になった救世主のごとく書かれていたが
夫の眉間には痛みのための縦ジワがずっと刻まれていた。

肝臓が冒されると皮膚に黒ずみが出ることも
本を読みながら、夫の状態と合致していると今さら思う。

治療がない死を待つ患者へ、
最後まで無駄な
もしかしたら
残された時間を短くし苦痛で過ごす事になる治療を
施すのが一般的な病院なのだ。

本にはそうでない病院を病人を看ながら探し求める家族や
治療をこばむ医学に明るい患者自身の例が書かれていた。

場所は在宅ホスピスのはしりだったり、緩和ケア病棟だったり。
そして
死を覚悟して、残された時間で、
病魔を慰撫しながら自分らしい完結を目指した人が紹介されていた。

まるでガン死のエリートのように思えた。

ガンは死と直結しないで、
ガン治療の後長く元気でいる人も増えてきた。
それでも発見された時は手遅れの人もある。

医学に明るくない私がもしガンになったら
どの病院を選んで、どの治療がどう副作用があってどう効いてくれるのか
セカンドオピニオンも探し…と
夫を見送ってから医療不信は私に根強く残っている。

本を読みながら、
2001年の9月22日最後の日までの事が鮮明に思い出された。

本の中からいっぱい書きとめたい言葉のほんの一部を書いておこう。

 生と死は両極端ではなかった。
 死は生につながり、
 ふとしたことで生とは死に変わり得るものであった。

 うかうかととおりすぎてはならぬ人生であった。
 その人生において、
 わずらわしく思ったことさえあった人間同士のかかわりあいは
 自らがむなしいとき、
 いかにあたたかく自然に通じあうかを知った。

 人は様々な過去の経験を背負って「いま」と言う時間を生きている。

 「身体症状の緩和」と「こころのケア」をベースに
 「人生の完成への支援」が実践されれば、
 最高のターミナルケアと言えると思うのです。

死はなにもガン死だけではない。
誰かの手を必要とする時、
そこには最高のターミナルケアが用意されている
そんな安心な世の中が実現しますように。