6月22日(金曜日)晴れ
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たくさんの想いがどんなにあふれていても、それを言葉という文字に置き換えなければ、想いは風のように。あるいは空気に混じったチリのように、風化してしまうのだろう。たくさん読み、たくさん見て、心がえぐられるように痛烈にたとえ想ったとして、同じことである。それを文にできなれば、たちまち自分の想い、意志なんてものは、ひ弱なもの。どこか遠くの果てに飛んでいってしまうのだ。
見れば見るほど、読めば読むほどに。それらが自分の体の中に蓄積し続けると澱のように想いの質量はだんだんと重くなって、行き場をなくし、唖のように黙りこくって、生きるのでさえ、億劫になってしまう時もある、
いつか、時がたってそれらの澱を取り出したなら、言葉は魂を宿し、御弁に語りはじめてくれるのだろうか。それとも否、完全に記憶の彼方にいってしまうのだろうか。
書くということは、強い心が伴わなければ絶対にそれを書くことはできない。私自身はこの書くという強さにこそ、もっとも憧れているのかもしれない。精神が脆弱であると、たとえ一行の文でさえ語ることはできないのであるから。
今朝は、3時40分にはっと目覚めてしまった。一日をやりきっていない時には、こうして早く覚醒する。
月曜日の地震(大阪北地震)のせいではないと思う。自分の意志に反してごまかしたり、逃げたりして日々の生活を過ごしてしまっている怠慢さを、私の司令塔(脳)がきちんと覚えて指摘をしてくれているのである。
4時過ぎには郊外へと散歩に出た。
夜明けまぎわのブルーモーメント。一瞬のあの清らかで美しい時をなんと表現したらいいのだろうか。
生気の気配でむせかえる時間帯というのがあるのだ。
道端に咲く花という花、開き、伸び上がった草という草が強烈な生なる匂いを一斉に放ち出し、小さな生き物たちが一匹のこらず朝を告げ始めるので、そこら一面はものすごい濃密なエナジーに充たされた大合唱だ。草の波間で羽と羽をこすらせ、喉をならし、「起きた」「今日もこうやって無事目を覚ますことができた」「新しい朝がきた」「うれしいぞ」と、賛美のコール。ほととぎすも、うぐいすも、つぐみも、スズメもいっしょくたに大声で喜びの声をあげている。
そんな生き物たちの朝を縫うように、大股で散歩するのは、だから、不思議でたのしい。まるで黄泉の国に迷いこんだみたいに自分が自分(人間)でいるのを一時忘れる。小さく頼りなく、弱い動物みたいに。今朝は特に、家々の庭から色々の花がこぼれていて、郊外の住宅街がかもす立体的なハーモニーみたいな波間を、心躍らせて歩いたのである。
5時帰宅。家の中は静まりかえって、活気にみちた外とはうって変わった白々とした動かない空気とともに今日という始まりの朝が横たわっていた。
さあ、いつものアッサムティーを飲んで、1日を始めよう。仕事だ、仕事。