小さな自然と、その時間の先に
昨年から朝のヨガと瞑想を習慣にしている。
軽く体を動かした後で瞳を閉じて息を吸い、全身に溜まった空気を吐きだす。 繰り返すうちに口中に唾がわいてきて、本当の私・子宮のような小さな宇宙が現れる。
それを俯瞰するもうひとりの私がいる。
瞑想とは本当の私と心を合わせる一日の余白のようなものだ。
瞳をそっと開くと、さっきとは違う生まれたばかりの自然がそこにまぶしく見える瞬間もあって、私は無垢なる心でそれを受け容れて一日を過ごすのである。
瞑想は自然を体感として知る良い修練だ。
私は自然である。
対峙する森の木の幹も、昆虫も。 たゆたう水の流れも、燃える火も、そっと両手で包んだ茶碗も。私を包む布の温もり、いただく一片の魚の皮と身、瑞々しい青菜のツヤもなにもかも。
見えている自然、見えない自然は同じように生きている。どちらが上も下もなく、互いに死に向かって明るく前進しているのだ。
自然とは、弱く美しい。永遠のもの。変わってゆくものである。
自然とともに、私は毎日仕事をする。仕事は私を研磨する大海のようなものだ。
仕事の中で私はいつもAIと共生する。
AIが、あなたなら。私はあなたを信頼しながらも、いつも疑いの目で見なければいけない。
疑うことは考えることだ。
私はいつも考えている。私の感受性が知りたがるその先に何があるのか。自然の中に分け入って必死でみつけようとしているのだ。
自然は私を守る。私は挑む。勇敢な冒険家みたいに。