月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

慣れること。慣れないこと。 他人と違うという感覚、どう考える? 

2018-08-02 00:39:13 | 随筆(エッセイ)








電子機器の音や光に、弱い。
特に一日中しゃべり続けるテレビの音に。

ベランダ越し、ふわりとはいってくる風や山々の景色や、葉っぱなどとつながった、ある一定の波長や匂い。その空間(リビングと仕事部屋)が、一気に白々しく、にぎやかになる。
ふだんの静穏さが、ガラリとすり替わる異空間になる。

週末。相方は一日中テレビをつけているたちなので、わが家のリビングは、明るい色彩と音と電磁波のパワーがみちあふれており、そうなると本も読めない、仕事で書くべき原稿がさし迫った時などは、途方にくれる。黒い電子機器を飛び越えたむこうにある仕事部屋にどうしてもたどりつくことができなくて、こっぱ微塵の心を抱えたまま、寝室やお風呂への流浪の旅を繰り返し、「ふて寝」、というオチでその日を終えることもあるほだ。(車を運転してカフェに本(ポメラも)を持って出掛けたりもするけど)。


でもそんな時は、自分がデジタル技術に屈した一匹の蚊みたいな心境でいる。脆弱で、力のない自然界に順応できない嫌われものみたいな。

家で映画をみることを愛しているし、トーク番組や時にドラマ、ニュースなどストーリー性のある番組ならみるのに。
また、テレビは「いま」のライブ感を伝えるとても文化のある機器でもあるはずなのに、その「苦手」と「素敵」の「紙一重」はどこにあるのだろう。
能動的視聴と、助動的視聴との違いなのかしら。


夏のこの時期。わがマンションでは、毎年管理組合が莫大な資金を投じて、植栽の剪定と芝刈りを大胆になさるのだが、真っ昼間のその作業は、自分が何をして、どういうものを書こうとしているのか思考が止まるほどに人を混乱に陥れるのだ。それに似ている、週末のテレビというのは。
単に自分が順応性なく、惑わされやすい性質なのだろうと、思う。
目をこらさないと(凝視すること)、あるいは耳を澄まさないと、テレビをみることが不快になる。
必要な情報だけを選んで後は流すという作業が、実はとても不得意なことなのかもしれない。


京都や奈良にでかけると、観光客でごったがえしてもいても、美しいものだけを捉える目は持ち合わせているはずなのに、困ったものだ。

考えてみるに、自分はある物語性をもったものなら受け入れられるが、「情報」というある塊に対しては、処理するのがたちまち億劫になるのかもしれない…。そうだ、きっと。
これまでの仕事を振り返ってみても、確かにそうだ。週間情報誌のたぐいの本で、短く情報だけをまとめるような原稿は苦手だった。
半年、1年ほどで担当がおわった。そのくせ4ページ、5ページの長い特集みたいなものは、何年も続いたりする。という考えにも思い至る。(短い情報の中にはストーリーは邪魔だからか)


ツイッターもしかり。(昨年秋くらいから、アカウントを取得した。不定期更新です)。その方のところへいって、その方の書いていらっしゃるものを読むうちはとても面白いメディアなのに、
いろんな方のつぶやきが一気にふってくると、言葉がバランス性を欠いて、途端に興ざめてくるという節もある。

イメージとしては、交差点の雑踏などで通行人たちが一気になにかを喋り出す、というのにそれは似ていた。


それでも最近は、そのツイッターにも少しは慣れた。単発的にみる時も、「効率よく読める」と思うようになった。
苦手と思ったものでも慣れる、ということはあるのだ。
 
じゃあ、テレビはどうだろう。
例えば、素敵なリゾート地で一日中テレビを流していたりすると、それも佳しと思えるように変わるのだろうか。
慣れて順応したり、新鮮なおもしろさに気づくということも大事なことだけれど。
いつまでも慣れない。人と少し違うのかもしれない。
という感覚も、これからは大事にしてやろうかなと思うのである。