月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

このところの心配の種の人に捧ぐ

2018-08-23 19:16:11 | 随筆(エッセイ)


いつも気がつけば考えてしまう、というのは脳の癖みたいなものだそうだ。

「ひとを、強く思いすぎてはいけない」危険だ。

大人になっていくにつれて、何度か傷つき、すっころんでみて、そう考えるようになった。

それがたとえば、自分の肉親でもやはり同じかもしれない。

「ひとを強く心配しすぎてはいけない」

胸がつぶれてしまうのではないかと思うほど、
人の心配をして、妄想が妄想をよび
どんどん膨らんで、そのうちまるで見ているかのようになってしまう時…。
自分の脳は、人事でありながら、自分が体験していると信じ込んでしまうのだそうだ。
自分の力では及ばないから、気をもむしかないのだろう…。


自分を、見失いそうになったら
どうしたらいいのか。
本物のよきもの、自分が良いなと思ったものに傾倒すること。

なにも自分自身をはぐらかそうとしているのではない。
よきものを自分の中にいれて、心に風をいれる。いったん思考を違う方向(よきもの)にむけてフラットな状態にする。
私はそうやって、自分を立て直してきたような気がする。

今回の場合のそれは
庄野潤三の本「山の上の家」(夏葉社)だった。
神戸萩原珈琲店で買ったグァテマラを、飲みながら、作家の家とそこで暮らす人の時間の流れに、接することができた。(一時でもいい)





また翌日、その次の日は、心配の種の人を案じながら、自分に与えられた原稿や奈良での取材に集中して、少しは落ち着かせることができた。 よかった。

心配をしすぎては、自分をつぶしてしまうことにもなりかねない。
そんな心の状態では、たとえ(どうしたらいいの?) と問いかけられたとしても、冷静に正しい答えなど出せるものじゃない。


心配の種の人にいいたいのは、
自分の幸せを、人の中に委ねすぎるのは危険、ということだ。
人に幸せにしてもらう、という生き方は、ほんのひとときの快楽に似たようなものだと、それくらいに思っていなければ。
あまりに危なっかしい生き方だし、不安定でぐらぐらしすぎるのだと思う。

遠い昔の日々。かつて自分も、そんな時があったかもしれない
だから、全力でつたえたいと思う。
届くかどうかは、絶望的であるけれど。

大丈夫!その人を信頼していればたいていは大丈夫なのだ。