月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

自分の言葉をえらぶということ。

2018-08-03 23:55:46 | 随筆(エッセイ)


文を書きながら思うのは、どこまで自分の脳が描いた映像やイメージするものを正確にあらわせるかということだ。

よく似ているし、近いんだけど、ちょっとだけ違うんだ、という時もある。そんな時、どれだけもう一度、冷静に問い直せるか、だ。

自分の言葉で、ちゃんと話せてる?書けている?

書いていくに従って、筆がいきおいを増していくと、全く違うことを、さもずっと考えていた風に雄弁に語ってしまうことだってあるし、
その逆で、文を書いていく中でイメージがどんどん広がり、熟考されていくことも。書きながら考えているのである。

まぁ、たいていの場合は、言葉の選択を速く、的確に置き換えることに苦心しているわけだ。
速く、余白を埋めたい。書いてしまいたい。そういう場合には、たいてい打ちひしがれ、敗北感にまみれている。がっかりと肩を落とし、数杯目の珈琲を入れにいくことになるのだ。

昨年のちょうど今頃。谷川俊太郎さんと江國香織さんが「詩」をテーマにしたトークイベントみたいなものを、京都のお寺で行われていて、それを見にいかせてもらったことがある。





ふたりとも、大御所の作家。言葉の名士。語る言葉の端々が、するどく心に突き刺さった。
江國さんは、テレビや雑誌でみる印象とは全く違っていた。
ご本人はどう思われるか恐縮であるが、「小さな子供のような表情をする、老女」みたいに美しい人だった。

小川洋子さんをみた時もそう思ったが、作家という職業の人は、普段から孰考する人生なので、少し疲れ、博士のような威厳すら、まとっておられる。どんな女性的な方でも男性的な部分をお持ちだ。

その日も、江國さんは、最初とても小さく弱々しい声で話し始めたが、途中から言葉が言葉をよんで、たいへん深い話をしっとりとなさっていた、素敵な方だった。
「言葉」を選びとる力が的確というか、すごく真摯。実に純粋(真剣)。自分の言葉に対するちょっとした反応を大事にされていた。


何度も、『違う「○○○○」こういうことです』と
自分が発した言葉が本当に適切かどうかを、問いかけながら話されていたのが、とても印象にのこったことである。

たとえば、こんな内容の話しをされていたように記憶する。

「紙で読む本は絶対になくならないと思います。本を読むという行為は、すごく能動的で積極的な働きかけだと思います。人は本を読まないと、自分という1人の人生でしか体験できないことになるので、それはあまりに乏しいことで。1つの人生しか知らないなんて。けれど。本を読むことでいろいろな人の人生を味わうことができます。人生の手応、みたいなものもちゃんと感じられます。それは他のものでは絶対に置き換えらることはできないと私は感じます。
そうやっていろんな角度からいろんな人の人生と出会うこと、それが本を読む楽しみのひとつ、なのだと思います…」

のようなことを、江國さんらしい言葉で話されていたのを、今、思い出す。

何度も何度も言葉を確認し、だからゆっくりと語りながら、選択しなおす、その「こだわり」。


私など足もとにもおよばないけれど。
空白が怖く、速く書いて冷静になりたくて(下手なテキストはもっと怖いけれど)、そこから逃れたくて。気分転換を何度となくはかり、時に逃げ切ろうとする時も多々だが。(結局は、締め切りがあるので絶対に逃げられない)。

けれど、もっとちゃんと言葉のもつ、深みを知る冒険みたいなものを、捨てちゃあ(投げちゃあ)、いけないと自戒するこの頃である。
強い人にならないと、文は書けないのだから。
書けた時の喜びも知っているのだから。